女流棋士 (将棋)
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女流棋士(じょりゅうきし)は、女流育成会を通過、もしくは、奨励会2級以上で退会した者で、日本将棋連盟に所属する、将棋を職業とする女性を指す。
日本将棋連盟に所属するが、正会員ではなく、一般に言うプロ棋士(将棋連盟会員。以下本項では「棋士」とする)とは区別して扱われる(この点において囲碁における女流棋士とは性格が異なる)。女性でも奨励会を通過し、日本将棋連盟の正会員たる棋士となることも可能であり、この場合、女流棋士ではなく「(女性)棋士」と呼ばれるが、現時点では奨励会を通過した女性は存在しない。
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[編集] 概説
[編集] 活動
一部の例外的な棋戦を除き、棋士とは別の棋戦を行う。
育成組織として独自に女流育成会があり、育成会で所定の成績を収めれば、女流棋士になる事が出来る。女性でも、奨励会に入会して一般棋士と同じ路線を選ぶこともできる(2006年10月現在、奨励会には2人の女性会員がいる)。また、奨励会2級以上をもって、女流棋士の同一段級位となることも可能である(岩根忍が初の適用ケース)。つまり、女流棋士になるには、女流育成会で所定の成績を収めるか、奨励会において2級以上であることが求められる。段級位については、育成会からの場合は、一律「女流2級」から始まり、以後「女流1級」「女流初段」と、昇級もしくは昇段していく。奨励会を退会した者については、奨励会での段級位を引き継ぐ形であるので、最高「女流三段」から始まる。最高段位は「女流六段」。
かつて、中井広恵、碓井涼子(現姓・千葉)、矢内理絵子らが奨励会と掛け持ちをしていたこともあったが、1998年以降、既に女流棋士となっている奨励会入会希望者は女流棋士を休会することが必要になった(甲斐智美が初。2003年に退会し、女流棋士に復帰)。
[編集] 待遇
一部のタイトル保持者を除いては、個人で独立した生計を営むことは非常に難しい[1]。従来から長年に渡って女流棋士が劣悪な待遇にある問題は指摘されていたが、日本将棋連盟としては具体的な解決に乗り出さず、問題を事実上放置していた。こうした状況から、後述する#将棋連盟からの独立への動きが発生している。
[編集] 歴史
[編集] レッスンプロ時代
1962年(昭和37年)、蛸島彰子が高柳敏夫(名誉九段、故人)門下で奨励会に入会するが、20歳、初段で退会する(奨励会では「指し分けで昇級」という特別ルールが適用されていたので、奨励会に所属した他の女流棋士とは条件が異なる。)[2]。この時期に山下カズ子が女流1級として活動を開始しているが、蛸島同様にレッスンプロであった。当時はレッスンプロとして男性棋士相手に聞き手を行う等の方法で生活をしていた。
蛸島のそれ以後の将棋の普及への貢献、さらに昭和40年代から女性を対象とした大会が増えるにいたって、女流棋士創設の機運が高まっていった。1965年(昭和40年)に開始された全国高校将棋選手権では、個人、団体共に、女子の部が創られたり、女流名人戦(1968年(昭和43年)スタート。女流棋士会発足後、『女流アマ名人戦』に改称。)が開催されたりした。「将棋世界」「近代将棋」では、女性が著名将棋ファンとの対局を企画したりと、女流棋士の礎が築かれ、誕生へ秒読みを開始していた。
しかし、それで生計を立てていくには、資金と棋戦を主催してくれる会社が必要であった。
[編集] 女流プロ誕生
1974年(昭和49年)に、報知新聞からプロ野球のオフシーズンの女流棋戦の開催を打診された。当時、女性への普及の企画を模索していた日本将棋連盟にとってもありがたい話であって、女流棋戦開催にこぎつけるまで2ヶ月という驚異的スピードで話は進んだ。
さらに、棋戦が開催されるにあたって、女流棋士は連盟が候補を挙げ打診するという方向で行われ、女性教室の実力者などに参加の意向を呼びかけた。その結果、女流棋士第1号になった蛸島彰子、レッスンプロになっていた山下カズ子の他、アマチュア大会で優秀な成績を残した女流強豪、及び女性教室より計4人(関根紀代子、多田佳子、寺下紀子、村山幸子)、計6人の女流棋士が誕生した。蛸島は三段、関根、多田が二段、山下、寺下、村山が初段でスタートした。
1974年10月31日、将棋会館において第1回女流名人位戦が始まった。この年が女流棋士の誕生であり、「発足~年パーティ」でも逆算するとこの年である。最初の公式戦は寺下対村山、関根対山下の2局であった。なお、蛸島は別格とされ、他5人の優勝者との3番勝負で名人位を争うことになっていた。挑戦者決定戦は、寺下対関根となったが、関根が対局中盤上から落としたと思われる香車を持ち駒として使ってしまい、反則負けで涙を流した。これが女流棋戦初の反則負けである。
結局、寺下と蛸島が3番勝負を戦うことになり、第1局は11月18日、第2局が11月26日に行われ、蛸島が2連勝して、第1期女流名人位に就いた。その後、新加入の面々を加えて行われたが、蛸島の実力は抜けていて、そのまま女流名人位戦3連覇を果たした。しかし、第4期で挑戦した山下に公式戦初黒星をつけられると、そのまま奪取された。
1978年(昭和53年)に第2のタイトル戦、女流王将戦が始まった。蛸島は山下を2-1で下し、初代女流王将に就く。そして、女流名人位戦では8期まで蛸島・山下がそれぞれ4期ずつとっており、しばらく2人の二強時代が続いた。しかし、1980年(昭和55年)、当時まだ中学生だった林葉直子が女流2級として入会し、翌年には女流王将を奪取する(第4期女流王将戦)と、中学生タイトルホルダーとして話題を呼び、女流棋士の認知度を大いに高めた。その後、林葉は女流王将を10連覇、これは、現在、未だに破られていない同一女流タイトル連覇記録である。他にも女流名人位4期、初代倉敷藤花を獲得。80年代~90年代前半を代表する女流棋士となった。
初期は、女流棋士になるには、ある程度の実力を持ち、棋士の推薦があればよかったが、1983年(昭和58年)、育成組織として女流育成会が発足し、そこで所定の成績を収めなければならなくなった。その卒業生第1号が清水市代である。
[編集] 男性棋士との対局開始
1981年(昭和56年)からは棋士の公式戦に参加が認められ、第12期新人王戦で蛸島彰子が飯野健二四段(当時)、山下カズ子が高橋道雄四段(当時)と戦った。しかし、2人とも黒星を喫してしまい、結果的には女流棋士が公式戦で白星を挙げるのは1993年(平成5年)12月9日に行われた中井広恵の竜王戦での対池田修一戦であった。これによって女流棋士は、棋士に対しての実に34連敗という数字をストップさせた。しかし、非公式戦では林葉直子が1991年(平成3年)6月3日に白星を挙げている(銀河戦、当時は非公式戦)。なお、林葉は以降、銀河戦が第8期で公式戦になるまでに計11勝を挙げている。また、斎田晴子は第8期銀河戦(1999年(平成11年)、公式戦になっている)で2連勝し、対戦相手が師匠の佐伯昌優となった。女流棋士が公式戦で師匠と戦うのはもちろん初めて。女流棋士が公式戦で師匠の棋士と対戦できる確率は非常に低く(師匠が現役のうちに女流棋士が公式戦に出場し、なおかつ2人とも勝ち上がらなければならない。)、斎田自身、これが師匠との最初で最後の公式戦での対局となった。
女流棋士の公式戦参加は平成に入ると急増する。1990年(平成2年)に王座戦に女流棋士の出場枠が設けられると、1993年(平成5年)NHK杯、竜王戦にも設けられた。そして、女流棋士に門戸が開かれた直後、前述の中井の公式戦初白星が竜王戦で挙げられた。
2007年3月現在、公式戦に出場し、男性棋士と対局した女流棋士は11人。そのうち勝利を挙げたのは中井、斎田に加え、清水市代、矢内理絵子、石橋幸緒の5人で、合計勝利数は59勝である。銀河戦において斎田が本戦(ベスト8)に勝ち進んだ(2連勝でブロック内最多勝ち抜き)、中井がNHK杯でA級棋士(青野照市九段)に勝ったことなどがあげられるが、女流棋士の対男性棋士の勝率は2割前後であり、この点では男性棋士との実力差がまだかなりあるといえる。
現在は9つの棋戦に1~4人が出場している。出場権は基本的にはタイトルホルダーや、その棋戦に参加できる女流棋戦で挑戦者になった女流棋士に与えられる場合がほとんどだが、新人王戦については、26歳以下・年間成績によって選抜される。これにより、2005年の同棋戦では中村真梨花が史上最年少の18歳で公式戦に出場した。2006年の王座戦の一次予選では女流棋士4名(矢内理絵子、清水市代、千葉涼子、石橋幸緒)が同日に一斉対局した。この対局は大きく取り上げられ、大盤解説会やネット中継なども行われた(結果は4人とも敗退)。
[編集] 女流棋士界の現在
一方、女流棋士内の棋戦も拡大を見せ、女流名人位戦・女流王将戦に続き、1987年(昭和62年)にレディースオープントーナメント、1990年(平成2年)に女流王位戦、1993年(平成5年)に大山名人杯倉敷藤花戦、1996年(平成8年)に鹿島杯女流将棋トーナメントがスタートし、現在に至る。
1980年代後半から活躍している清水市代・中井広恵の2強時代が長く続いている。かたわら、1997年(平成9年)に女流王位・2006年(平成18年)に女流名人位をそれぞれ獲得した矢内理絵子、1999年(平成11年)に女流王将を獲得・2005年(平成17年)にレディースオープンと鹿島杯のダブル優勝を果たした石橋幸緒(清水の弟子としても知られる)、2005年に女流王将を獲得した千葉涼子の「花の80年生まれ・若手三羽ガラス」がここ数年、タイトル獲得や棋戦優勝を達成するようになった。さらに2006年の鹿島杯で優勝した甲斐智美、同年のレディースオープンで準優勝した里見香奈ら、その他の若手の台頭も目立つようになっている。
2006年に斎田晴子が清水市代から倉敷藤花を奪取することにより4タイトルを4人が分け合う形になり、また若手女流を対象としたトーナメント棋戦が非公式な形であるが行われるなど、勢力図や女流を取り巻く現状は変貌しつつある。
[編集] 女流棋士会
女流棋士は正会員として日本将棋連盟の会員にはなれないが、その下部組織の一つとして日本将棋連盟女流棋士会が1989年に設立されている。役員は互選によって選出され、現在の会長は藤森奈津子(第3代)である。
主な目的は、女流棋士の連携、棋力向上、普及活動の推進であり、女流主催による女流棋士との親睦将棋会などのイベントなどが女流棋士会によって行われている。
当初は女流棋士全員が会員として登録されていたが、2006年2月に植村真理・林まゆみの2人が女流棋士会の普及活動への不協力等を理由として脱会扱いとされ、その事によって「女流棋士 = 女流棋士会会員」という形ではなくなった。しかし、女流棋士会は女流棋士としての活動を規制する権利を持たず、資格においても日本将棋連盟が認める形であるために、植村・林は脱会後も対局などの活動は続けている。
[編集] 将棋連盟からの独立
2006年11月、女流棋士会が将棋連盟から独立する動きが報じられた。女流棋士は対局料などの面で男性棋士と格差があること、棋戦を自ら運営できないこと、連盟の意思決定に参画できないこと、などの点で待遇改善を求める声があった。また、将棋連盟としては引き止めるどころかむしろ、独立を促すような言動があったとされている。女流棋士会側ではこれ以前から制度委員会を発足させており、独立も視野に入れて体制改革への意見集約が進められていた。
同年12月1日、女流棋士会は臨時総会を開き、独立に向けた新法人設立のための準備委員会の設置を賛成多数で可決し、同日、将棋連盟側にも独立の意向が伝えられた。
しかし、独立派女流棋士の弁護士を立てた男女差別などの主張や、女流棋士会内での意思統一がないままの見切り発車的な寄付金募集などが、将棋連盟理事会や一部女流棋士の反発を招いて、2007年3月30日の連盟の会見によると、55人中(内2人は無回答)36人の女流棋士が残留を希望[3]。しかし、翌日の4月1日には、「独立準備委員会」が連盟から独立[4]したことによって、女流棋界の分裂が決定的なものになった。なお、斎田晴子・谷川治恵など一部の有力な女流棋士は、独立に反対し将棋連盟残留を表明[5]、2007年4月2日には準備委員だった矢内理絵子が委員を辞任[6]している旨が準備委員会より発表された。
[編集] 関連項目など
- 春秋園事件 - 1932年、大相撲における日本相撲協会の改革を要求して協会を脱退した問題。
- 関西棋院 - 1950年、日本棋院から橋本宇太郎らが独立して設立。
- 日本女子プロゴルフ協会 - 1974年、日本プロゴルフ協会から独立して結成。
[編集] 主な主催イベント実績
[編集] 脚注
- ^ 女流棋士会の独立 (北海道新聞『もっと知りたい』)
- ^ 将棋年鑑などでは、これを初の女流プロとしている。ただし、当時「女流」の概念や呼称は存在しなかった。また、正しくは、四段からがプロ棋士である。この点について山下カズ子も「女流という肩書きはついていませんでしたよ」<中島一『女流棋界ヒストリー』(1) - (3)(『近代将棋』2004年1月号 - 3月号連載)>、と語っている。なお、本項では日本将棋連盟の定義を踏襲し、この呼称を使う。
- ^ 女流棋士、3分の2が連盟残留要望 独立問題 朝日新聞 2007年03月30日
- ^ 女流棋士の「独立準備委員会」が独立 日刊スポーツ 2007年4月2日
- ^ 女流棋士の独立闘争 将棋連盟、個々に「残留」確認書 朝日新聞 2007年03月17日
- ^ 女流棋士新法人設立準備委員会ブログ「新法人設立にむけて」 2007年04月02日
[編集] 参考文献
- 中島一『女流棋界ヒストリー』(1) - (3)(『近代将棋』2004年1月号 - 3月号連載)
[編集] 外部リンク
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