T-10 (戦車)
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T-10M | |
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性能諸元 | |
全長 | 9.87 m |
車体長 | 7.25 m |
全幅 | 3.38 m |
全高 | 2.43 m |
重量 | 51.5 t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 53 km/h |
行動距離 | 250 km |
主砲 | 122 mm M-62-T2 |
副武装 | 14.5mmKPVT重機関銃×2 |
装甲 | 砲塔前面 200 mm 車体前面 120 mm |
エンジン | V-12-6Bディーゼルエンジン 750 hp |
乗員 | 4 名 |
T-10は第二次大戦後にソビエト連邦が開発した重戦車。IS-3の発展型であり、重戦車としては世界最多の約8000輌という生産量を誇ったが、1980年代から退役が始まり、予備役として残っていた車輌も1993年までにはその全てが除籍された。
[編集] 概要
第二次大戦終了直後、ソ連軍の装備する重戦車はIS-2、IS-3、IS-4と三種類も存在していた。1948年末、これらの後継となる重戦車の開発が指示され、J.Y.コーチン技師の設計チームによりチェリヤビンスク・キーロフスキー工場でオブイェークト730が完成した。これはIS-3を拡大し改良を加えた発展型で、IS-8(スターリン8型)として採用されたが、エンジンの生産の目処がたたないなど量産化に手間取り、コーチンは改良型と称してIS-9、IS-10を計画し、その不手際を誤魔化していた。また死亡したスターリンに代わりフルシチョフが最高指導者となったのを受け、結局本車は1953年にT-10と改名され量産開始された。従来のソ連重戦車より重装甲でありながら機動性が高く車内も広く、実用性が改善されていた。優れた強火力と重防御により、従来どおりの陣地突破用として独立重戦車連隊に装備されていたが、火砲と対戦車ミサイルの発達の前に優位が失われ、主力戦車にとって代わっていった。
[編集] 活躍
T-10シリーズはソ連軍のみで運用され、同盟国への供与は無かった。作戦参加は1968年のチェコ動乱の時のみで、しかも本車による戦闘は記録されていない。
[編集] バリエーション
- T-10
- 最初の生産型。122mmDT-25TA戦車砲と12.7mm DShKM機関銃を2挺、700馬力のV-12-5エンジンを搭載し、最大速度は43km/h。
- T-10A
- 主砲の縦軸安定装置「ウーラガン」と排煙器を装備した。試作名オブイェークト267-sp-1。1956~1957年の生産。
- T-10B
- 主砲の縦横軸安定装置「グロム」を装備した。試作名オブイェークト267-sp-21。T-10Mの登場により少数生産。
- T-10M
- (右上の画像参照)主砲を多孔式マズルブレーキを持つ発展型のM-62-T2に、機銃を14.5mm KPVT機関砲に変更。装填補助トレイの装備で重い砲弾の再装填が楽になった。また、ルナ赤外線暗視システムと赤外線サーチライトが標準装備されている。二種類が同時生産され、レニングラード製のオブイェークト272はターボ付きのV-12-6Bエンジンと渡河装備を備え、チェリヤビンスク製のオブイェークト734はV-12-6エンジンのみを搭載。1957年から前者は1966年、後者は1962年まで生産された。
第二次世界大戦後のソ連・ロシアの装甲戦闘車両 | |||
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主力戦車 | |||
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重戦車 | 水陸両用戦車 | ||
IS-3 | IS-4 | T-10 | PT-76 | ||
空挺戦車 | |||
BMD-1 | BMD-2 | BMD-3 | BMD-4 | ASU-57 | ASU-85 | 2S9ノーナ-S | |||
歩兵戦闘車 | |||
BMP-1 | BMP-2 | BMP-3 | BTR-T | BMP-T | |||
自走砲 | |||
2S1グヴォズジーカ | 2S3アカーツィヤ | 2S5ギアツィント | 2S7ピオン | 2S19MSTA | 2S25スプルート-SD | |||
自走式対空砲 | |||
ZSU-57-2 | ZSU-23-4シルカ | 2S6/2K22ツングースカ | |||
装甲兵員輸送車 | |||
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