アベリー・ブランデージ
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アベリー・ブランデージ(Avery Brundage、1887年9月28日 - 1975年5月8日)はアメリカ合衆国のスポーツ選手であり、また論争の的となるスポーツ界の要人であった。
ミシガン州デトロイトで生まれたブランデージは、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で土木工学を学び、1909年に同大学を卒業した。 数年後、彼は自身の会社である「アベリー・ブランデージ社」を設立、1947年までシカゴ周辺で建設業を営んだ。
ブランデージは万能型のスポーツ選手で、1912年の夏季ストックホルムオリンピックでは近代五種競技と十種競技に出場、それぞれ6位と16位に終わった。 また彼は1914年、1916年、1918年に全米選手権で優勝した。
1928年、ブランデージは全米体育協会(AAU)の会長となり、翌1929年にはアメリカオリンピック委員会(USOC)の会長に就任した。 また1930年には国際陸上競技連盟(IAAF)の副会長の座に就いた。
1936年のベルリンオリンピックではユダヤ系ドイツ人が排除されたため、これをボイコットしようとする動きが盛んであったが、USOCの会長だったブランデージはそれらの動きをすべて否定した。 そして、選手に対して同オリンピックのボイコットを働きかけていたアーネスト・リー・ヤンキーが国際オリンピック委員会(IOC)理事会から放逐されると、ブランデージはその後釜となった。
同オリンピックの400mリレー競技では、当日の朝になって米国代表のマーティ・グリックマンとサム・ストラーがチームから外され、ジェシー・オーウェンズとラルフ・メトカーフに交代する事件が起きた(米国のトラック競技代表チームの中で、グリックマンとストラーの2人だけがユダヤ系であった)。 グリックマンは後年になって、その決定がブランデージの圧力によるものであった可能性を語っている。 ブランデージは後にナチス体制を賞賛する発言を行い、これがドイツ支持であるとしてアメリカ優先委員会から除名された。
第二次世界大戦中にIOC会長を務めていたアンリ・バイエ・ラトゥールの死後、1945年にブランデージはIOC副会長に就任した。 このときのIOC会長はジークフリード・エドストレームであったが、彼が1952年に引退すると、ブランデージが後任となった。
IOC会長在任中のブランデージは、いかなる形であれオリンピックにプロフェッショナリズムが持ち込まれることに強く反対した。 しかし、この態度は次第にスポーツ界からも、また他のIOCメンバーからも賛同を得られなくなっていった。 こうした変化はいくつかの議論を起こすような事件によって引き起こされたものであった。 そのひとつとして、1972年冬季札幌オリンピックでオーストリアのカール・シュランツが、プロであるとの理由で競技から排除された事件がある。 また、1968年の夏季メキシコシティオリンピックでは、トミー・スミスとジョン・カルロスがメダル授与式において、ブラックパワー運動への賛意として拳を突き上げるパフォーマンスを行った。 これに対してブランデージは、両選手を選手村から追放し、出場停止処分とした。
ブランデージの名を特に世間に知らしめた事件として、1972年の夏季ミュンヘンオリンピックにおける決定がある。 9月5日にパレスチナ過激派が選手村を襲い、イスラエル代表選手11人が殺害されたミュンヘンオリンピック事件の後、彼はオリンピック開催を継続する決定を下したのである。 彼への非難は多かったものの、オリンピックから去る選手はほとんどいなかった。 9月5日の競技は全て順延となり、翌日にはオリンピックスタジアムにおいて、80,000人の観衆と3,000人の選手たちによって追悼式が営まれた。 多くの聴衆の怒号が渦巻く中、ブランデージは追悼演説において殺された選手には一切言及せず、代わりにオリンピック運動の強さを賞賛した。 ブランデージは、アパルトヘイト政策を理由にローデシアがオリンピックから除外されていることに対して、強い反対を唱えていた。 ミュンヘン事件の後、ブランデージはイスラエル人選手が殺害されたことと、ローデシア人選手に門戸を閉ざすことは、同じレベルの犯罪的行為であると主張した。
ブランデージはミュンヘンオリンピック後にIOC会長を退いた。 彼は2006年現在に至るまで、IOC会長を務めた唯一のアメリカ人である。
スポーツ以外の分野においては、彼はアジア美術の蒐集家として名をはせた。 彼は健在な頃も、また死後にも遺産として、自身の膨大なコレクションをサンフランシスコ市に寄贈している。 これらの寄贈物を保存・展示する場所としてサンフランシスコ・アジアン・アート・ミュージアムが設立された(2003年の段階で、なお過半数が彼の寄贈物で占められている)。
IOC会長を退任して3年経った1975年、ブランデージは西ドイツ(当時)のガルミッシュ=パルテンキルヒェンで死去した。
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カテゴリ: オリンピック | アメリカ合衆国のスポーツ選手 | 1887年生 | 1975年没