アルヴォ・ペルト
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アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt, 1935年9月11日- )はエストニアの作曲家である。しばしばミニマリスムの楽派に属する一人とされる。ペルトの音楽教育は7歳より開始され、14、5歳の頃には既に作曲をしていた。タリン音楽院(Tallinn Conservatory)で作曲の勉強をしているとき、彼について次のように言われていた:「彼は袖を激しく揺するものだから、ノートが落ちそうだったよ」。当時、ソヴィエト連邦外部からの影響は皆無に等しく、入手可能な物と言えば精々非合法のテープとスコア程度だった。
ペルトの生まれた頃、エストニアは独立共和国として黎明期であったにも関わらず、独ソ不可侵条約のため、1940年にはソヴィエト連邦の勢力下に置かれてしまう。その後、エストニアは54年間ソヴィエト連邦の一部のままにあった。(ナチの支配下になった一時期を除く。)
ペルトの全作品は、一般的に2つの年代に分けられる。初期の作品群は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチやセルゲイ・プロコフィエフ、ベラ・バルトークの影響下にある厳格な新古典主義の様式から、アルノルト・シェーンベルクの十二音技法やミュジック・セリエルにまで及ぶ。しかしそれはソヴィエト政府の憤怒を買うばかりでなく、独創性の発展において行き止まりである事を示していた。ペルトの伝記作家、ポール・ヒリヤーは次のように書いている。
- 「意思表示する方法は数多あるけれど、その中で作曲という行為が最も無能で役に立たないという究極的絶望に彼は辿り着いたんだ。音楽に対する信頼も、音符一つ書く力さえも失ったようだったよ。」
この記述は些か大げさかも知れない。というのは、この時期には過渡的作品である交響曲第3番が作曲されているからである。しかしながらペルトが深い難局を迎えていたことは明白であった。この袋小路を抜け出す術として、彼は「西洋音楽の根源への実質上の回帰」を見出し古楽に没頭した。単旋聖歌やグレゴリオ聖歌、ルネサンス期における多声音楽の出現などを研究すると同時に、宗教の探究やロシア正教会への入信をも行った。この事実は恐らく、ペルトがその局面を単なる音楽的な問題と受け止めず、自然に対する何か霊的な物が関与していると考えた事を示しているのだろう。
この時期以降に出現する音楽は、以前のそれとは根本的に相違するものであった。ペルトはそれをティンティナブリの様式(以下「ティンティナブリ」)と呼んでいる。(ティンティナブリは「鈴声」の意。)この音楽を特徴付ける性質として、簡素な和声がある。非装飾音符や三和音がしばしば用いられ、それらは西洋音楽の根柢を成すものである。この様式は、ティンティナブリという名前の所以である「鈴の鳴るさま」を髣髴させる。ティンティナブリはやはり単純なリズムを持ち、テンポは常に一定を保つ。古楽の影響は明瞭である。ペルトの後期作品のもう一つの特徴として、宗教的なテクストが作品中でしばしば用いられるものの、その殆どの場合において、彼の母国語であるエストニア語の代わりにラテン語又は東方正教会の礼拝式に使われる教会スラヴ語が用いられている。
ペルトはこれら後期の諸作品によって最もよく知られ、生涯中に絶大な人気を博した稀有の作曲家である。
ペルトは自身の作品について、「プリズムを通過する光によく似ている」と言っている。音楽が含有する意味は、聴取者によって僅かに相異が在るかも知れない。それ故に、音楽体験という「スペクトル」が創造されるのだろう。それは光が織り成す虹によく似ている。
[編集] 主要作品
- パルティータ(1959)
- 交響曲第1番「ポリフォニック」(1963)
- 無窮動(1963)
- ソルフェッジョ(1963)
- 交響曲第2番(1966)
- 賛と否(1966)
- クレド(1968)
- 交響曲第3番(1971)
- 私達はバビロンの河のほとりに座し、涙した(1976)
- アリーナのために――アリヌシュカの癒しにもとづく変奏曲(1976)
- パリ・インテルヴァロ(1976)
- トリヴィウム(1976)
- サラは90歳だった(1976)
- アルボス(1977)
- フラトレス(1977)
- カントゥス――ベンジャミン・ブリテンの思い出に(1977)
- タブラ・ラサ(1977)
- ミサ・シラビカ(1977)
- 鏡の中の鏡(1978)
- スンマ(1978)
- デ・プロフンディス(1980)
- ヨハネ受難曲(1982)
- 巡礼の歌(1984)
- スターバト・マーテル(1985)
- テ・デウム(1985)
- フェスティーナ・レンテ(1988)
- マニフィカト(1989)
- ミゼレーレ(1989)
- ベルリン・ミサ(1990)
- シルーアンの歌(1991)
- さて、あるパリサイ人が(1992)
- リタニ(1994)
- 水を求める鹿のように(1998)
- 東洋と西洋(2000)