ウィラード・ギブズ
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ジョシュア・ウィラード・ギブズ(Josiah Willard Gibbs, 1839年2月11日 - 1903年4月28日)はアメリカコネチカット州ニューヘイブン出身の数学者・物理学者・物理化学者で、エール大学(イェール大学)教授。
熱力学で相律を発見するなど、大きな功績を残した。他にもギブズ自由エネルギーやギブズ-ヘルムホルツの式等にその名を残した。ベクトル解析の創始者の一人として数学にも寄与している。
ギブズの科学者としての経歴は、4つの時期に分けられる。1879年迄、ギブズは、熱力学理論を研究した。1880年から1884年迄は、ベクトル解析分野の研究を行った。1882年から1889年迄は、光学と光理論の研究をした。1889年以降は、統計力学の教科書作成に関わった。
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[編集] 生涯
[編集] 少年/青年期
ギブズは、アメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブンで生まれ、同地で死亡した。同名の彼の父は、ニューヘブンにあったイェール大学の神学専門大学院で宗教文学の教授をしていたが、今日では、アミスタッド号 (Amistad)裁判に関与したことで最も良く知られている(父親のほうも「ジョシュア・ウィラード」と云う名だった訣だが、息子である彼自身が「ジョシュア・ウィラード・ギブズ・ジュニア」として言及されることは、余りない)。ギブズは、イェール大学のイェール・カレッジに就学し、数学とラテン語とで表彰され、クラスにおける学業優秀者として1858年に卒業した。
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- 訳注: イェール大学構内にある、グローブ・ストリート墓地(Grove Street Cemetery)に、ギブズ親子は共に埋葬されているが、少なくともそうした文脈などで、二人を同時に言及する場合には、区別するために「シニア」と「ジュニア」が付けられている。
[編集] 成人後
ギブズは、イェール大学で研究を続け、1863年には博士号を取得した。それは、アメリカ合衆国における最初の工学博士号だった。その後、ギブズは、イェール・カレッジ講師となり、2年間はラテン語を、そして1年間は、彼が当時自然哲学と呼んでいたものを教えた。1866年、ギブズは、研究のためヨーロッパに渡り、パリ、ベルリン、ハイデルベルクで、各1年ずつ過ごした。彼が、ニューヘイブン地域から離れたのは、生涯でほぼこの3年間だけだった。
1869年、ギブズはイェール大学に復帰し、1871年に数理物理学教授に任命された。これは、アメリカ合衆国における、最初の数理物理学教授職だったが、彼が全く論文を発表しないためもあって無給だった。
その後、ギブズは、熱力学理論の発展及び発表に取り組みはじめた。1873年、ギブズは、熱力学的物理量を幾何学的に表現する方法に就いての論文を発表した。この論文に感銘を受けたジェームズ・クラーク・マクスウェルは、自らの手でギブズの概念を説明する石膏模型を作成したのだった(この模型は、ギブズに贈られ、現在もイェール大学が大いなる誇りをもって所蔵している)。
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- 訳注: この石膏模型に就いては R.D. Kriz. "Visual Thinking" (Va. Tech College of Engineering Revised 02/11/95) も参照のこと。曰わく、"now gathers dust in a display case next to a trash bin. " 「今では、ゴミ箱の隣の展示ケースの中で埃を被っている。」
ついで、ギブズは、「不均一な物質系の平衡に就いて "On the Equilibrium of Heterogeneous Substances"」と云う論文を、1876年と1878年の2回に分けて、発表した。不均一系平衡に関する、このギブズ論文が扱っているのは:
- 化学ポテンシャル概念
- ギブズ自由エネルギー概念
- ギブズ集団のアイデア(統計力学分野の基礎)
- 相律
[編集] その後
1880年、ギブズは、メリーランド州ボルチモアに当時新設されたジョンズ・ホプキンス大学 (Johns Hopkins University)から 3000ドルの給与で招聘されたが、イェール大学側から2000ドルではどうかと提案されると、それで満足したらしく、ニューヘイブンに留まった。
1880年から1884年迄、ギブズは、アイルランドの数学者ウィリアム・ローワン・ハミルトン が考案した四元数 の考え方と、ドイツの数学者ヘルマン・ギュンター・グラスマン(Hermann Gunther Grassmann)の「広延論(Ausdehnungslehre)」の考え方を組み合わせて、ベクトル解析と云う数学分野を産み出した(ギブズとは独立して、オリヴァ・ヘヴィサイド -- Oliver Heaviside -- も、この分野の開拓した)。ギブズは、このベクトル解析を数理物理学の目的に沿うようにしている。
1882年から1889年迄、ギブズは、光学の研究を行ない、光の電気理論を新たに作り上げた。ギブズは、この時期に彼のベクトル解析理論を完成している。彼は、物質の構成を理論に持ち込むことを意図的に避けており、物質組成の種類によらない一般的な理論を組み立てた。1889年以降、ギブズは、統計力学の教科書の作成に取り組んだが、これは、イェール大学出版局により1902年に出版された。
ギブズは、生涯結婚せず、彼の姉及び義兄と暮らした。この義兄は、イェール大学の司書であり、Transactions of the Connecticut Academy of Sciences(「コネチカット州科学アカデミー紀要」)の出版人でもあったが、この雑誌に、ギブズの殆どの論文が発表されたのだった。
[編集] ギブズの死と、その後
ギブズは、1903年に亡くなるまで、イェール大学に留まった。
ギブズが死亡したのは、ノーベル賞が創設後間もなくのことであり、彼がノーベル賞を得ると云うようなことはなかった。しかし、ギブズは、英国王立協会のコプレイ・メダル(Copley Medal)を授与されており、これは、科学に関する国際的認知として当時では最も名誉なことであったとみなされている。
[編集] 科学上の評価
ギブズの死後、彼への敬意の一つとして、イェール大学は、「J.ウィラード・ギブズ記念理論化学教授職」を創設した。ノーベル賞受賞者ラルス・オンサーガー (Lars Onsager) は、そのイェール大学での経歴の殆どの期間この職にあったが、彼が、ギブズと同様、新しい数学上のアイデアを、物理化学(特に統計力学)に応用することに何よりも関わったことを思えば、これはオンサーガーにとり極めてふさしい職名であった。
18世紀中葉、米国の大学は、科学に殆ど関心を示さず、古典に偏重していたから、ギブズの講義は、学生の興味を殆ど引かなかった。彼の業績に興味を持ったのは、他の科学者、特に、スコットランドの物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルだった。ギブズが論文を発表したのが、ヨーロッパでは余り読まれていない無名雑誌であったため、評価されるようになるのは遅く、ギブズの考えがヨーロッパで広く受け入れられたのは、論文がヴィルヘルム・オストヴァルトにより書籍の形でドイツ語訳され(1888年)、アンリ・ルシャトリエによりフランス語訳されて(1899年)からだった。
[編集] ギブズの言葉
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- A mathematician may say anything he pleases, but a physicist must be at least partially sane.
- 「数学者は自分の好き勝手を言えるが、物理学者は、少なくとも部分的には分別がなければならない。」
- Mathematics is a language. (at a Yale faculty meeting)
- 「数学とは語学である。」(イェール大学学部集会にて)
[編集] 豆知識
本稿主題の「ジョシュア・ウィラード・ギブズ」に就いて:
- アメリカ合衆国海軍には、彼にちなんだ、同名の艦船があった(1944-1971)。
- 月の南緯 18.4度 東経 84.3 度には、彼にちなんだ 「ギブズ」と云う名のクレーターがある(直径76 km)。
- アメリカ合衆国郵政公社(United States Postal Service)は2005年中に、彼の記念切手(37セント)を発売する予定である。
[編集] 以下も参照
- 科学: 情報理論、情報エントロピー (Information entropy)、四元数
- 電気: マクスウェル方程式
- 数学: ギブズ現象 (Gibbs phenomenon)
- 物理化学: 相 (物性)、相律、統計力学、ギブズ自由エネルギー、ギブズ-デュエムの式、ギブズ-ヘルムホルツの式
- 人物: ギルバート・ルイス、ウィリアム・ローワン・ハミルトン 、ラルス・オンサーガー (Lars Onsager)、ルートヴィッヒ・ボルツマン、ウィリアム・スタンレー(William Stanley)、オリヴァ・ヘヴィサイド (Oliver Heaviside)
- [その他]: コプレイ・メダル (Copley Medal)、イェール大学、グローブ・ストリート墓地 (Grove Street Cemetery)
- リスト: 熱力学、統計力学、確率過程論関連の年表
[編集] 文献
日付順
- Bumstead, H. A., "Josiah Willard Gibbs". American Journal of Science, 4, XVI. 1903. (「ジョシュア・ウィラード・ギブズ」)
- Longley, W. R., and R. G. Van Name, "The Collected Works of J Willard Gibbs". 1928. (「J ウィラード・ギブズ論文選集」)
- Donnan, F. G., and A. E. Haas, "A Commentary on the Scientific Writings of J Willard Gibbs". 1936. ASIN 0405125445(J ウィラード・ギブズの科学上の著作への注釈)
- Rukeyser,M., "Willard Gibbs: American Genius". 1942. ASIN 0918024579(「ウィラード・ギブズ: アメリカの天才」)
- Gibbs, J. Willard, "The Early Work of Willard Gibbs in Applied Mechanics". 1947. ISBN 1881987175(「応用力学についてのウィラード・ギブズの初期の業績」)
- Wheeler, L. P., "Josiah Willard Gibbs, The History of a Great Mind". 1952. ISBN 1881987116 (「ジョシュア・ウィラード・ギブズ。偉大なる精神の歴史」)
- Gibbs, J. Willard, "Scientific Papers". 1961. ASIN 084462127 「J. ウィラード・ギブズ科学論文集」
- Crowther, J. G., "Famous American Men of Science". 1969. ISBN 0836900405(「米国人著名科学者」)
- Seeger, R., "Men of physics : J. Willard Gibbs, American mathematical physicist par excellence". 1974. ASIN 0080180132(「物理学者たち: 偉大なる米国人数理物理学者、J. ウィラード・ギブズ。」)
[編集] 外部リンク及び参考図書
- マックチューター数学史アーカイヴ "Josiah Willard Gibbs". School of Mathematics and Statistics. University of St Andrews, Scotland.(「ジョシュア・ウィラード・ギブズ」)
- AIP, "Josiah Willard Gibbs 1839-1903". 1976, 2003.(「ジョシュア・ウィラード・ギブズ」)
- Friel, Charles Michael, "J. Willard Gibbs".(「J. ウィラード・ギブズ」)
- Jolls, Kenneth R., and Daniel C. Coy, "Gibbs models". Iowa State University.(「ギブズモデル」)
- "Dr. J. Willard Gibbs".(「J. ウィラード・ギブズ博士」)
- Rukeyser, Muriel, "Willard Gibbs", Ox Bow Press, Woodbridge, CT, ISBN 0-918024-57-9 [Reprint of first edition published in 1942].(「ジョシュア・ウィラード・ギブズ」1942年初版のリプリント)
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