エドガー・スノー
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エドガー・スノー(Edgar Snow、1905年7月17日 - 1972年2月15日)はアメリカのジャーナリスト。中国、特に共産党に関する作品により著名である。
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[編集] 来歴
エドガー・スノーはミズーリ州カンザスシティで生まれた。ミズーリ州立大学でジャーナリズムを専攻したが、父の学費負担を苦痛に感じて一年で退学、ニューヨークの兄の下に移り、コロンビア大学に入学した。その後、広告代理店勤務を経てルーズベルト汽船(セオドア・ルーズベルトの息子が経営)の船のデッキボーイになり、1928年から世界一周の旅に出かけ、日本に密航したりした。同年、大恐慌前の中国へ渡り、蒋介石ら国民党幹部らに会って記事を書く。
29年には『コンソリデーティッド・プレス・アソシエーション』の上海記者となってアジア各国を精力的に取材して回った。1932年にはジャーナリスト志望のアメリカ人女性ヘレン・フォスターと東京のアメリカ大使館で結婚した。彼女はのちに、スノーが考えたニム・ウェールズというペンネームでアリランの歌を著している。アジアへの進行旅行の最中にH・G・ウェルズやバーナード・ショーらのフェビアン主義に触れ、欧米の帝国主義および日本の帝国主義・軍国主義に反感を抱く(ただし、日本進出後の中国の事態は改善された、という結論に達していた)。
1933年には北京に行き、パール・バックやジョン・フェアバンクと交流。1935年の日本による中国北部侵攻に反感を抱き、抗日戦線の鍵は共産党にあり、と考えて党本部への取材を求める。1936年にスノーは宋慶齢から紹介状をもらい、長征後の共産党が本拠としていた延安に向かった。長征により兵力の大半を失い、抗日戦線のための中国人の団結を訴えたかった毛沢東の利害とが一致し、スノーはついに毛沢東ら幹部と出会う。
1941年に中国を離れるまで、ジャーナリストとして数多くの記事を書き、本を執筆している。この間、北京の中国政府にも仕え、北京大学で教鞭を執ったりした。1937年に彼は後に有名となる作品『中国の赤い星』を出版した。これは毛沢東を中心とした中国共産党を取り上げ、将来の共産党の隆盛を予見するものであった。
日中戦争が激しさを増した1941年にスノーはアメリカへ帰国し、『アジアの戦争(The Battle for Asia)』を出版。『赤い星』の愛読者だったフランクリン・ルーズベルトは、42年に面会した後にスノーを非公式な情報提供者に任命。しかし、『赤い星』はソ連・コミンテルン、中国にいた共産党シンパの欧米人、スターリニストだった宋慶齢らから非難を浴びた。
戦後になり、1949年に離婚して女優ロイス・ウィーラーと結婚。マッカーシズムが盛んな1950年代にはロイスの女優業が挫折したこともありアメリカを出国し、スイスに移り住んだ。その後1960年に中国へと渡り毛沢東、周恩来と会談した。そのときの記録『今日の赤い中国』では、大躍進による大飢饉を否定するなど、毛沢東の言うがままを書いたに過ぎないと批判され、スノー自身も自らの無知を認めている。その後64年から65年にも訪中したが、そのとき毛沢東はベトナム戦争へのアメリカ介入を国内の団結に役立っていると評価し、中国の革命成功には蒋介石だけでなく、日本の8年にわたる侵略が必要だったと語っている。
1970年から71年、妻を伴った最後の中国への旅では、ニクソン大統領は公私どちらの訪問であっても歓迎されるだろう、と述べている。しかしこの時、毛沢東の個人崇拝の強制(毛沢東は、スノーに『個人崇拝は政治的に必要であり、中国には皇帝崇拝の伝統がある』と言った)や、革命に参加した友人の息子が中国で逮捕・拷問された(周恩来の介入で彼は生還できた)ことなどにより、中国に対して幻滅の感を持つにいたる。
彼は1972年にジュネーヴでガンで死亡した。その62時間後にニクソンの中国訪問が行われている。遺灰の一部はアメリカ、そしてかつて教鞭を執った北京大学に埋葬された。
[編集] 評価
当時中国における小勢力にすぎなかった共産党に注目し、その詳細なレポートを行った彼の著作は現代中国史における古典的な作品とされている。しかし、実際には文化大革命における大粛清などに触れず(触れられず)共産党の言うがまましか書けなかったこと、真実を探ろうとしても中国政府から厳しい取材規制を受けたことなどが判明している。方励之は、スノーを毛沢東のプロパガンダの手先とまで言い切っている。
現在、中国では『スメドレー・ストロング・スノー協会』が組織されており、プロパガンダ映画も作られている。また、共産党に都合よく改竄した『赤い星』が出版されている。スノーは共産主義者ではなかったが、中国共産党を紹介する彼の著作物は、彼の死後も中国政府によってプロパガンダとして利用されている。ロイス夫人は2006年のインタビューで、『彼は今日の中国の姿を決して是認しなかったでしょう』と語り、中国政府のやり方を批判している。
スノーは中国共産党に出合う前から、満州事変などに直面して日本に反感を持っており、1934年の処女作『極東戦線』では、田中上奏文に触れて、日本政府や犬養毅が田中上奏文を偽造であるとしたことを紹介したのち、次のように満州事変頃の日本の侵略性について述べている。「もしにせものづくりがこの覚書をデッチあげたのだとすれば、彼はすべてを知りつくしていたことになる。この文書がはじめて世界に出たのは一九二八年だったが、それは最近数年間の日本帝国主義の進出にとってまちがいない手引き書となったのである。」(『エドガー・スノー著作集1』筑摩書房、p.36)その後、『アジアの戦争』において日中戦争における日本を批判的に取り上げたが、南京安全区国際委員会の委員長であったジョン・ラーベが示した算定として南京大虐殺において「日本軍は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した」、「10歳から70歳までのものはすべて強姦された」と記し(『エドガー・スノー著作集3』筑摩書房、pp.53~57)、成都で会ったL.C.スマイスが編纂した『南京地区における戦争による損害』を引用して日本軍による暴行を告発していた。「南京大虐殺」の元ネタはこの本ではないか、と鈴木明は主張している(『新「南京大虐殺」のまぼろし』、飛鳥新社、1999年)。
[編集] 参考資料
『夫、エドガー・スノーは毛沢東に騙されていた スノー未亡人の告白』(『諸君』2006年6月号、池原麻里子著)
[編集] 著作
- (松岡洋子訳)『中国の赤い星』(筑摩書房、1995年)ISBN 4480081925、ISBN 4480081933
- (松岡洋子訳)『目ざめへの旅—エドガー・スノー自伝』(筑摩書房、1988年…絶版)ISBN 4480013229
- 『アジアの戦争』(筑摩書房、1988年…絶版)ISBN 4480013210