カール=ハインツ・ホフマン (軍人)
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カール=ハインツ・ホフマン(Karl-Heinz Hoffmann, 1910年11月28日 - 1985年12月2日)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の政治家、軍人。ドイツ社会主義統一党(SED)政治局員。東ドイツの参謀総長、国防相を務めた。上級大将。
ホフマンは1910年、マンハイムの労働者家庭に生まれ、義務教育修了後は1925年から1928年にかけて機械工としての訓練を受けた。1926年から1930年にかけてはドイツ共産主義青年連盟 (Kommunistischer Jugendverband Deutschlands) に所属し、1930年ドイツ共産党に入党。この間にデモ参加と暴力沙汰により、短期間の拘留を経験している。
1933年にはナチスが政権を掌握したため、共産主義者であったホフマンは弾圧を逃れるため潜伏。ゲシュタポにより手配され、1933年~1935年、ソ連に亡命。1935年にはスイスに逃れるが、同年再びソ連に移住した。1936年、リャザンの士官学校に入校し、中尉に任官。1936年~1937年、第2国際旅団ハンス・ボイムラー大隊の政治委員として、スペイン内戦に従軍し、1937年~1940年に第11国際旅団に配属された。1941年には内務人民委員部(NKVD)の要員となり、パルチザンの教練を担当し、独ソ戦勃発後は赤軍に入り、ドイツ軍と戦った。
1946年1月、東ベルリンに戻り、ヴィルヘルム・ピークおよびヴァルター・ウルブリヒトの個人的な協力者となる。その後、人民警察の副総局長。1950年から内務省の総局長、1952年7月1日には人民警察予備隊(KVP)隊長となり、中将(Generalleutnant)に叙された。1952年にはドイツ社会主義統一党中央委員に選ばれ、1957年ソ連軍参謀本部軍事アカデミーを卒業し、国防第一次官、国家人民軍参謀総長を歴任。
1959年、大将(Generaloberst)に昇進し、翌1960年、国防相に任命された。1961年には上級大将(Armeegeneral)に昇り、1969年にソ連軍参謀本部軍事アカデミー附属高等学術課程を修了。1975年、党政治局員に選出。1985年のその死まで国防相を務め、東ドイツ軍(国家人民軍)の頂点に立ち続けた。
1950年以来、人民議会代議員。
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