シュリーフェン・プラン
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シュリーフェン・プラン(Schlieffen-Plan)は、19世紀後期のドイツ帝国の軍人アルフレート・フォン・シュリーフェンによって立案された、西部戦線におけるドイツ軍の対フランス侵攻作戦計画である。
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[編集] 概要
[編集] シュリーフェンによる原案
1890年のビスマルクの失脚後、フランスを孤立に追い込むことを目的としていたドイツの外交政策の中心であったロシアとの再保証条約が延長されなかったために、対フランス・ロシア二正面作戦の可能性が高まった。ドイツの参謀総長シュリーフェンは、二正面戦争解決の手段として、フランスを全力で攻撃し、対仏戦争を早期に終結させ、その後反転してロシアを全力で叩こうと考えた。
こうして立案された「シュリーフェン・プラン」は、フランス軍が主力を置く独仏国境地帯を直接攻撃するのを避け、まずは弱小の軍が防備している中立国ベルギーに侵攻し、イギリス海峡に近いアミアンを通過。その後は反時計回りにフランス北部を制圧していき、独仏国境の仏軍主力を背後から包囲し殲滅するというものであった。作戦の所要時間は1ヵ月半とされた。
ただ、このシュリーフェンプランは、実行する前提としてロシアとフランスの総動員終了までの時間差を考慮している。つまりロシアはその広大な国土から動員せねばならず、総動員終了まで時間がかかる。その間にフランスの野戦軍を殲滅し、侵入してくるロシア軍に反転させる、が骨子である。そのためロシアが総動員を発令した時点でこの計画を実行に移さなければ計画そのものが成り立たなくなる。ドイツは7月31日のロシアの総動員令を受け8月2日対露宣戦布告を行った。
[編集] 小モルトケによる翻案
1906年にシュリーフェンの後を継いで参謀総長に就任した小モルトケは、「シュリーフェン・プラン」に修正を加えた。シュリーフェンによる原案の問題点は、最右翼を進撃するドイツ第1軍の行軍距離があまりにも長くなり、補給が追いつかなくなる可能性が大きいということであった。小モルトケによる翻案では、第1軍はイギリス海峡に至るずっと手前で南方へ旋回し、パリ近郊のマルヌ川を目指すとされた。また原案では攻勢正面を広く取るためにマーストリヒトでオランダの中立を侵犯するとされていたが、小モルトケの案では中立侵犯は避けるとされた。第一次世界大戦緒戦におけるドイツ軍のフランス侵攻作戦はこの小モルトケの案に沿って実施された。
[編集] シュリーフェン・プランへの批判
シュリーフェン・プランの問題点は、いざ戦争がはじまるならば、戦争遂行のために純軍事技術的側面を徹底的に追及し、政治的側面をそれに従属させている点であった。その意味においてかつてカール・フォン・クラウゼヴィッツがいみじくも述べたように、「戦争とは、他の手段をもってする政治の延長である」というかの格言と相反する性質を持っていた。特に、ベルギーの中立侵犯がベルギーの反発を招く事、英国の対独宣戦を連鎖する事、国際的汚名を被る事、これらを無視して、軍事的要請から押し通したことはその最たる例である。シュリーフェン・プランが実行されたときベルギー国王アルベール1世が言った「ベルギーは道ではない。国だ。」、そしてジョルジュ・クレマンソーが述べた「まさか、ドイツはベルギーに侵攻したなどとは思ってもいなかっただろう」という感想は、シュリーフェン・プランが政治的要請、ベルギーの中立を侵犯する事の危険性を全く無視していた事を如実に現している。
また、小モルトケによってシュリーフェン・プランが「改悪」され、その結果ドイツが敗北に至ったという説は、1920-50年代ごろによく述べられた説であるが、現在では軍事技術や補給の問題からシュリーフェンの原案の現実性は否定されている。第一次世界大戦では、マルヌ川に到達した時点でドイツ軍は疲労しきっていた。もし原案に沿って作戦を進めていたら、セーヌ川のはるか以前でドイツ軍は停止のやむなきに至っていたであろう[1]。
[編集] 第二次世界大戦におけるフランス侵攻作戦
独ソ不可侵条約締結で、対ロシア戦の必要が無かった第二次世界大戦においても、対仏作戦はシュリーフェン・プランが踏襲される予定だったが、飛行機事故(ベルギーに墜落)により作戦計画が連合国側に漏れてしまい、一から練り直すはめになった。
様々な検討がされた結果、ヒトラーの後押しでマンシュタインの作戦計画が採用された。その作戦も「主力はベルギーから攻め込み、イギリス海峡に達する」という点では、シュリーフェン・プランそのままであったが、攻め込むのはベルギー北部の平野部ではなく、南部からルクセンブルクにかけての森林地帯である点が異なっていた。戦車隊の通過が不可能と考えられていた森林地帯を抜ければ、連合軍に対して完全に奇襲となり、より容易に作戦が進むと考えられ、事実その通りに展開した。
[編集] 近年の研究
近年の研究では、上記のような「シュリーフェン・プラン」像を見直す見方も出てきている。冷戦終結後のテレンス・ツーバーによる新史料の発掘によって、従来言われていた「シュリーフェン・プラン」の決定稿と思われてきた覚書が必ずしもドイツの二正面戦争克服の唯一の手段として提案されてきたものではなく、軍備予算獲得のための口実として提示されていたことが明らかとなった。二正面作戦解決の唯一の処方箋としての「シュリーフェン・プラン」像は「作られた」ものであるか否かが現在論争中である[2]。ただ、ひとつ明らかであることは、シュリーフェンが作成した計画と小モルトケが作成した計画とがまったく異なるものであるということが、現在の研究では定説となっているということである。
[編集] 脚注
- ^ マーチン・ファン・クレフェルト(著), 佐藤佐三郎(訳), 『補給戦―何が勝敗を決定するのか』, 中公文庫BIBLIO (2006/5), ISBN 4122046904
- ^ 石津朋之, 『「シュリーフェン計画」論争をめぐる問題点』, 戦史研究年報第9号(2006年3月), 防衛研究所