ジョホールバルの歓喜
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ジョホールバルの歓喜(ジョホールバルのかんき)は、1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルで日本代表がW杯フランス大会のアジア第3代表をかけイラン代表と戦い、劇的な逆転勝利によりW杯初出場を決めたサッカーの試合の日本における俗称である。
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[編集] 背景 - 日本(B組)
日本は、ダブルセントラル方式の1次予選第4組で5勝1分けとし、オマーンを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。
W杯アジア地区の出場枠は3.5。最終予選は10チームがA組・B組の2組に分かれ、それぞれホーム&アウェー方式にてリーグ戦を行い、各組1位および各組2位同士による第3代表決定の勝者が本戦出場を決め、敗者(アジア4位)がオセアニア1位との大陸間プレーオフに回る事とされた。
なお、当初は、アメリカ大会予選と同様、最終予選はセントラル方式が予定されていた。
しかし、日本協会をはじめとする東アジアの国はマレーシア開催を主張し、西アジアの国はバーレーンでの開催を主張し対立が起きたため、アジアサッカー連盟が最終予選直前に急遽、ホーム&アウェー方式に変更された。
日本は、予選の終盤までもたつくも、強豪UAEを逆転してグループ2位に滑り込んだのであるから、これが吉と出た形である。
日本はB組に属した。当初、強敵が韓国しかいない楽な組と言われた。
しかし日本は、最終予選全期間を通じ、UAEと熾烈な2位争いをすることになる。経過は以下のとおり。
節 | 対戦チーム | 結果 | 勝 | 分 | 負 | 日本の勝点 | UAEの勝点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
第1節 | v. ![]() |
○ 6 - 3 | 1 | 0 | 0 | 3 | (試合なし) |
第2節 | (試合なし) | - | 1 | 0 | 0 | 3 | 3 |
第3節 | v. ![]() |
△ 0 - 0 | 1 | 1 | 0 | 4 | 4 |
第4節 | v. ![]() |
● 1 - 2 | 1 | 1 | 1 | 4 | 7 |
第5節 | v. ![]() |
△ 1 - 1 | 1 | 2 | 1 | 5 | 7 |
第6節 | v. ![]() |
△ 1 - 1 | 1 | 3 | 1 | 6 | (試合なし) |
第7節 | (試合なし) | - | 1 | 3 | 1 | 6 | 7 |
第8節 | v. ![]() |
△ 1 - 1 | 1 | 4 | 1 | 7 | 8 |
第9節 | v. ![]() |
○ 2 - 0 | 2 | 4 | 1 | 10 | 9 |
第10節 | v. ![]() |
○ 5 - 1 | 3 | 4 | 1 | 13 | 9 |
初戦を大勝し、続く困難なアウェー戦を引き分けた日本は、このグループ最大のライバルとされた韓国をホームに迎えた。日本は、山口素弘のループシュートで先制。ループシュートが飛んでいる際、国立霞ヶ丘陸上競技場もTV前もあまりの美しさに静まった。そして韓国撃破、予選通過の夢が膨らむも、その後試合終了間際2失点。逆転負けを喫し、この時点で早くも1位通過が絶望的になった。
続くアウェーのカザフスタン戦は、先制するもロスタイムに同点ゴールを決められ、引き分け。ここで加茂周監督は更迭され、ヘッドコーチの岡田武史が監督に就任した。(この試合は「アルマトイの絶望」、また後のカザフスタン戦も含め「中央アジア死のロード」と呼ばれている)
岡田監督初戦のアウェーのウズベキスタン戦では、先制されるも終了間際に、井原正巳のロングボールをロペスが頭でつなぎ、それが相手ゴールに入り追いついて引き分け。なかなか2位UAEに追いつけない中、次につながる結果ともいえた。
しかし、続くUAEをホームに迎えた2位攻防の直接対決。日本は何としても勝って2位に浮上したかったが、痛恨の引き分け(終始UAE寄りのジャッジと、異様に短いロスタイムが問題になった。なお、この試合の結果、韓国の1位通過でW杯本戦出場が決まった)。またこの試合後国立周辺でサポーターが暴れる事態になった。日本の自力2位が消滅し、かつアウェーの韓国戦を残す状況で、本戦出場に絶望感が漂った。
しかし日本は、そのアウェー韓国戦を、名波浩と呂比須ワグナーのゴールで快勝(2 - 0)。翌日、UAEがホームで最下位ウズベキスタンにまさかの引き分けを喫し(0 - 0)、日本は2位に浮上した。
日本は、最終戦のカザフスタン戦も5-1のスコアで快勝しB組2位が確定、第3代表決定戦への出場権を手に入れた。
最終予選B組の最終順位は以下のとおり。(韓国がアジア最終予選A・B組通して、最高成績アジア1位でW杯出場。)
順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ![]() |
19 | 6 | 1 | 1 | +12 | 19 |
2 | ![]() |
13 | 3 | 4 | 1 | +8 | 17 |
3 | ![]() |
9 | 2 | 3 | 3 | -3 | 9 |
4 | ![]() |
6 | 1 | 3 | 4 | -5 | 13 |
5 | ![]() |
6 | 1 | 3 | 4 | -12 | 7 |
- (勝ち点は勝利3、引き分け1、敗戦0。勝ち点が同じ場合、まず得失点差、次いで総得点の優劣で順位を決した。
- なお2006年ドイツ大会の予選では、勝ち点が同じ場合、まず直接対決の結果、次いでリーグ戦全体の得失点差、総得点の優劣で順位を決する。)
[編集] 背景 - イラン(A組)
一方、A組には前大会ベスト16のサウジアラビアとアジアの強豪イランが所属していた。イランが長くA組で首位を走っていたが、第9節にて最下位のカタールに 0 - 2 の痛恨の敗戦。最終節の第10節に試合のないイランは勝ち点12にて全日程を終了し、第10節のサウジアラビア(勝点11) - カタール(勝点10)戦の結果待ちとなった。
そして、この試合は 1 - 0 でサウジアラビアが勝利。サウジアラビアが首位となり、イランは2位に転落した。
A組2位が決まるまでの間、日本では、第3代表決定戦の相手としてはサウジアラビアの方が与し易いとの論が主流であったが、最強の敵イランを迎えることとなってしまったのである。
最終予選A組の最終成績は以下のとおり。(サウジアラビアがアジア2位でW杯出場)
順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ![]() |
14 | 4 | 2 | 2 | +2 | 8 |
2 | ![]() |
12 | 3 | 3 | 2 | +5 | 13 |
3 | ![]() |
11 | 3 | 2 | 3 | -3 | 11 |
4 | ![]() |
10 | 3 | 1 | 4 | -3 | 7 |
5 | ![]() |
8 | 2 | 2 | 4 | -1 | 7 |
[編集] 背景 - 開催地の決定
日程的に第三代表決定戦をホーム・アンド・アウェー方式で2試合開催することは難しく、中立地で一発勝負の実施が前提とされた。B組の展開から、UAEがB組2位になることが想定され、第3代表決定戦はバーレーンで開催されることとなっていた。しかし移動距離や気候などで著しい不利を被ることになる日本協会はこれに猛反発。AFCに、西アジア勢同士ならバーレーン、東アジア勢同士(中国vs日本という対戦があり得た)なら韓国、西アジア勢対東アジア勢の対戦ならマレーシア(イスラム教国であり、かつAFC本部がある)で開催するという案に落ち着いた。
結果的には、マレーシアには日本が先に第三代表決定戦に出場決定した事もあり、日本のサポーターが押し掛けて日本のホーム同然となり、かつイランは時差の点で不利を受けたのであり(日本とマレーシアの時差1時間、イランとマレーシアの時差4時間半)、会場決定も日本に有利に働いた。
[編集] 試合展開
W杯出場をかけた試合は、両チームの気迫のぶつけあいだった。前半39分日本は中山雅史のゴールで先制に成功、前半を1-0とリードして折り返す。
後半に入るとイランの激しい反撃が日本を待っていた。後半開始早々(開始25秒)にアジジが同点ゴールを奪うと、後半14分にはイランのエース アリ・ダエイに逆転ゴールを浴びて1-2となり、日本のW杯初出場に黄信号がともる。
後半18分、後のない日本の岡田監督は大きな賭けに出る。エース三浦知良と最終予選終盤の日本の勢いの象徴であった中山のツートップを同時に交代(その際三浦は補助審判が中山の交代しか示唆しなかったため、「オレも?」と大きなジェスチャーでベンチに確認)、2人に代え城彰二・呂比須ワグナーを投入する。この交代は功を奏し後半31分に城が起死回生のヘディングを叩き込み2-2の同点に追いつく。日本はこの勢いで90分以内に試合を決めたかったが同点のまま後半を終了、ゴールデンゴール方式の延長戦に突入。
延長戦開始と同時に日本は、北沢豪に代えて日本最速といわれるアタッカー岡野雅行を切り札として投入。岡野は最終予選においてそれまで1度たりとも出場機会を与えられていなかったが、その快速は中田英寿からのパスに何度も決定的なチャンスをつかむ。しかしGKとの1対1において力ないパスを味方に送ったことでチャンスをつぶし、中田も思わず“何故?”と目を瞑り空を仰いだシーンは印象深く、この時、テレビカメラも岡田監督が必死の形相で「岡野ー!自分で行けー!!」と叫ぶシーンを捉えている(音声は届いていない)。また次のチャンスもシュートはゴールのはるか上に打ち上げてしまう。
イランも切れ味鋭い反撃を見せるが、選手の消耗は尋常ではなく両チームとも決定的なチャンスをものにできず延長は進み、延長後半も残りわずか。もはや決着はPK戦でかと誰もが思い始めたそのとき、ツートップではなく自分が試合を決めることを決意したかのように中田が突然のドリブルでイランのディフェンスを切り裂きシュートを放った(中田はこの試合で2得点ともアシストしていた)。イランのGKアベドサデがはじいたそのボールは猛然と走りこむ岡野のもとへ。岡野はそのボールを右足で押し込み、日本は劇的なゴールデンゴールでついに悲願のW杯初出場を決めた。その瞬間、BSとフジテレビの解説者(清水秀彦)は「やったー!」という歓声をあげ、ラジオは「岡野!岡野!」と絶叫、岡田監督は諸手を挙げて岡野へ全力で駆けていった。翌日の新聞・ニュースには「日本中が歓喜した」との言葉が躍り、日本のサッカーファンにとって永遠に忘れられない試合となった。岡野はこのシュートについて「これを外したらもう日本に帰れないと思った」と後に語っている。
この試合は地上波ではフジテレビが生中継し、放送が日曜日の深夜にもかかわらず平均視聴率47.9%だった(NHK-BS1でも同時中継していたため、実際は数字以上の視聴率と言える)。
その後、敗れたイランもオーストラリアとのホーム&アウェーのプレーオフで出場を決める。(メルボルンの悲劇)
[編集] 試合データ
日本 3 - 2 イラン
- 得点
- 前半39分 中山雅史(日本)
- 後半01分 アジジ(イラン)
- 後半14分 ダエイ(イラン)
- 後半31分 城彰二(日本)
- 延長後半13分 岡野雅行(日本) ※ゴールデンゴール
- 警告
- 日本 - 井原正巳
- イラン - オスタド・アサディ、ハクプール、マハダビキア、アベドザデ、ミナバンド、アジジ
- 日本代表
- イラン代表
- スタジアム
- ラルキン・スタジアム (マレーシア・ジョホールバル)
[編集] 両監督の再会
2007年2月3日長野市サッカーフェスティバルの講演会で、97年当時日本代表を率いていた岡田氏とイラン代表を率いていたバドゥ・ビエイラ氏が、ジョホールバルでの試合以来約9年ぶりに再会し対談を行った。バドゥ氏は現在長野市の社会人サッカークラブAC長野パルセイロで監督を務めており、その縁もあって長野での対談が実現した。対談の内容はやはりジョホールバルに関する話題が殆どで、采配についての裏話なども語られた。
[編集] 関連項目
- 1998年 フランスW杯
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
- ドーハの悲劇 (1994 FIFAワールドカップ・アジア地区最終予選 「日本vsイラク」)
- マイアミの奇跡 (1996年 アトランタオリンピック 「日本vsブラジル」)
- メルボルンの悲劇