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三浦知良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三浦知良
名前
愛称 カズ、キング・カズ
カタカナ ミウラ カズヨシ
ラテン文字表記 MIURA Kazuyoshi
基本情報
国籍 日本
誕生日 1967年2月26日
出身地 静岡県静岡市葵区
身長 177cm
体重 72kg
血液型 A型
選手情報
在籍チーム 横浜FC
ポジション FW
背番号 11
利き足 右足
代表歴
キャップ 91(国内歴代3位)
得点/失点 56(国内歴代2位)
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

三浦 知良みうら かずよし1967年2月26日 - )は、日本現役最年長プロサッカー選手センターフォワードとして見られることも多いが、本職のポジションは左WG。『ストライカー』と言うよりは『チャンスメーカー』的プレーを本領としている。静岡市葵区出身。身長177cm。体重72kg。血液型はA型。横浜FC所属。 最優秀選手賞1度、得点王1度、ベストイレブンを2度受賞した。

目次

[編集] 経歴

[編集] 幼年期~ブラジル時代

1967年もんじゃ焼き店の次男として生まれる。両親の離婚により母に引き取られ、三浦姓を称する。1973年、静岡市立城内小学校に入学する。小学時代には、静岡市のゴールというスポーツショップを経営する伯父の納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。その関係で小学校時代は、納谷姓を名乗っていた。1982年私立静岡学園高校を、1学年修了を待たずして中退。ブラジルに単身渡航、CAジュベントスへ留学。その後ブラジル中を渡り歩くことになる彼の出発点であった。
1985年、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)に、日本人として初出場。SBSユースに、キンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋。当時静岡高校選抜のDF中山雅史、FW武田修宏らと試合を行う。1986年2月、サントスFCカンピオナート・ブラジレイロ=ブラジル全国リーグの古豪)とプロ契約。1部リーグ2試合に出場し、5月にはパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップで凱旋帰国を果たす。
その年の10月にはパラナ州リーグのソシエダージ・エスポルティーバ・マツバラへレンタル移籍。1987年2月、マツバラと正式契約を結ぶ。10月、アラゴアス州リーグのクルベー・デ・レガッタス・ブラジルに移籍。1988年、サンパウロ州リーグのキンセ・デ・ジャウーへ移籍。日本人として、リーグ戦初ゴールをコリンチャンス戦で記録した。1989年2月、パラナ州リーグのコリチーバFCに移籍。1990年2月、サンパウロ州リーグのサントスFCへ再移籍。

[編集] 日本への凱旋~欧州挑戦

1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、プロサッカー選手の代名詞の様な存在として帰国を果たす。日本リーグ読売クラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディ1969の前身)に移籍した。クラブではラモス瑠偉北澤豪武田修宏ビスマルク柱谷哲二らその他多くのチームメイトに恵まれ、ヴェルディの黄金期を築いた。1993年、日本人最高の20得点を記録しヴェルディ川崎を初代チャンピオンに導き、Jリーグ初代MVPを受賞した。
プロとして築いた数々のキャリアを引っ提げて、1994年にはイタリアセリエAジェノアに期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。ACミランとのセリエAデビュー戦において、フランコ・バレージとプレー中に激突。その際に鼻骨を骨折してしまい、一ヶ月戦線離脱を余儀なくされた。復帰後も、日本代表の招集により、ジェノアを後にしなければならない事情も重なり、シーズンで1ゴールを記録するに留まった。それは「カルチョは日本人には無理」という固定概念を植え付けられる原因にもなった。そして帰国後に発した『今後のビジネスに影響が出る』というサッカーファンには残念な発言も。
シーズン終了後はスポルティング・リスボンなどの欧州クラブからのオファーもあったが、当時ヴェルディの実質的オーナー読売新聞社長渡邉恒雄との「一年限定」という密約もあってか(本人がインタビューで語っているが、ただレンタル移籍期間を示唆していた事であるだけの可能性が高い)、1995年夏にはヴェルディに復帰。なおジェノアとの契約は当初から、チームの戦力補強として合意に至ったというよりも、ジェノアのユニフォームスポンサーとなったケンウッドの後押しで実現したもの。そしてセリエAという個の力よりも戦術を重んじるリーグにおいて、日々得られる経験を、ピッチで発揮するには1年間は短すぎた。時間的制約による焦燥感もあり、カズを取り囲むマスコミ陣をもストレスに感じてしまったと語っている。
「ジャパンマネー」を経営戦略上の計算に入れて日本人選手を獲得しようとするクラブ側、日本人選手をプロモーションすることで利益を上げたいスポンサー、純粋に高いレベルでプレーする環境を求めて欧州挑戦を志すプレーヤー。三者の意識の齟齬は現在では少しずつ解消されつつあるものの、ジェノアへの移籍は『カズがクラブの戦力として必要』とは言いがたいものであり、ジャパンマネーの功罪と言われた。
1998年末、ヴェルディは親会社の撤退で大幅な経営縮小と、カズを含む高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、カズに対しても年俸ゼロ円提示がなされる。多くのスター選手が所属先探しを余儀なくされる中、カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブ(現ディナモ・ザグレブ)へ会長の強い希望に心を動かされ移籍を決意した。クロアチアの若くハングリーな選手と一緒に練習に励むなど、サッカーに取り組む気持ちをリフレッシュさせたいカズだったが、リーグでのゴールは挙げられず、結果が残せなかった。1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国する。

[編集] Jリーグへの復帰~現在

1999年7月、当時元日本代表監督の加茂周が監督を務めていた、京都パープルサンガに移籍。2000年には17得点を記録し、降格争いをするチームにもかかわらずストライカーの役割を十分に果たした。しかしシーズン終了後、「カズを2部チームに在籍させるのは失礼である」という不可解な理由で自身二回目であるゼロ円提示を受ける。事実、記者会見では怒りを露わにするカズが見受けられ、一方的な不要扱いであった事は想像出来た。
2001年からはヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。しかし、目立った活躍は一年目のみであった。カズを含め、兄である泰年コーチが不透明な選手起用(カズ自身も含めた)の進言を行うなどし、度重なる監督交代が行われるなど、迷走していた神戸。シーズン途中より兄泰年コーチがチームを追われ、カズ自身もチームキャプテンの座もシーズン途中で剥奪されるなど事実上の戦力外として扱われる様にまでなる。尚、ヴィッセル神戸の現社長である安達貞至は、具体名こそ明かさなかったものの、自身のリーダー育成講演会にて、組織にとっての害とはという項目で、『コーチが監督のように振る舞う』『ベテラン選手が監督指示を無視』という事柄を具体例として挙げる事でも事実と思われる。2005年7月、神戸でやり残したものを抱えながらもカズは出場機会を求めてJ2横浜FCに移籍する。
その後間もない11月2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFC期限付き移籍。シドニーFCには元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。
カズはゲストプレイヤー枠で起用され、リーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残す。FIFAクラブ世界選手権では2試合にスタメン出場し、得点には絡まなかったものの、シドニーFCは5位(出場チームは6)に貢献した。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では若返った11番を着けてピッチに立った。なお同大会の前身であるトヨタカップを含め、日本人の出場はカズが初めてである。余談ながら後年の大会では既に事実上の現役引退をしていた岩本輝元選手が、ニュージーランドオークランドと共に大会に参加しているが、カズ同様に客寄せパンダ感は否めず、また欧州出場予定チームより出場拒否宣言が毎年のように行われており、大会自体の価値が問われている。
2006年2月からは横浜FC選手兼任の監督補佐に就任するが、登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が、監督・コーチを兼任することが出来ない)。ちなみに現役にこだわる姿勢のため、Jリーグの監督に必要な指導者ライセンスを所持していない。このシーズン、J2の過酷な日程をものともせずに39試合に出場し6得点を記録。「予想外の躍進」と言われた横浜FCのJ1初昇格に貢献した。2007年現在、J1初挑戦となる横浜FCのプレーヤーとして、そして精神的主柱として、40歳を迎えてなお精力的にピッチを駆け回っている。

[編集] 日本代表

[編集] 代表デビュー~エースとして

日本代表としても数々の輝かしい実績を残す彼のA代表デビューは1990年9月バングラデシュ戦。その後もハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップアジアカップ1992では「魂込めました、足に」の名セリフで知られる後半終了間際のゴールを決めたイラン戦での活躍もあり優勝等に貢献する。
1993年ワールドカップ米国大会予選はカズの独壇場となった。1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げ不動のエースとして活躍。中でも韓国戦での決勝ゴールは本大会出場を引き寄せただけでなく、日本サッカーが韓国を40年間超えられなかった壁であったワールドカップ予選のアウェー戦で初めて破ったという意味でも値千金であった。
しかし2次予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、彼は「右足を目一杯伸ばしたが、相手選手にセンタリングを上げられてしまい、『決められるんじゃないか…』という、かなり嫌な予感がした」と語っている。

[編集] フランスW杯に向けて

その後パウロ・ロベルト・ファルカン加茂周と監督が変わる中でも彼はコンスタントにゴールを決め続け、エースの座を保持し続けていた。だが、1997年ワールドカップフランス大会最終予選、初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後の試合では尾てい骨骨折という怪我を押して出場するものの1ゴールも挙げられず、カズ代表不要論が高まり、国立競技場でのUAE戦の後には暴徒化した一部サポーターに監禁される事件もあった。
その後ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表を決めるイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことは現在でも語り草となっている。
この時、サブメンバーでウォーミングアップを行っていた呂比須ワグナーがベンチに呼ばれてユニフォームに着替え、ピッチ内へは中山の交代だと伝えられていた。だが岡田武史監督はその時ベンチに座っていた城彰二にも声をかけ、同時に交代することを決断した。城はベンチに座っていたため、無論ウォーミングアップは行っておらず、正に急な交代となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴンなのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)一般的には『まさか俺を交代させるのか?』と言うアピールだとマスコミに勝手に解釈をされてしまい、ファンの間で誤解を受ける切っ掛けとなってしまった。
1998年、ワールドカップ本大会のためスイスでの直前合宿に臨む。しかし北澤豪市川大祐と共に、本大会出場メンバーの選考から惜しくも漏れ、苦渋の帰国となった。発表会見での岡田監督の弁は以下の通り。

「外れるのはー、えー市川、えーカズ、三浦カズ、それから北澤、3選手です。
…チームのために残すのは得策じゃないと判断して、カズと北澤に関しては僕の判断で(日本へ)帰しました。」

1990年に帰国した折、「日本代表をW杯に出場させるために帰ってきました」とコメントしたとおり、この舞台を切望していたカズが落選した発表はマスコミで大きく報じられ、世間を二分する大論争になった。その後、日本代表はアルゼンチンクロアチアジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断に批判が集中した。
発表に至るまでは前述のサポーターによる監禁事件に象徴されるようなマスコミによるカズ不要論が連日のように新聞紙面を賑わせていたり、またカズ本人のコンディションが最終予選に負った怪我を押して出場していた影響から大きく落ちていた為に、コーチ陣とのミーティング内でカズを外すべきという声が既に挙がっていた。
岡田は前日夜遅くまで悩み、当日も朝早く目が覚めて

「明日死ぬとしたらどういう決断をするだろうか、私心のない決断はどうなるだろうか、代表の監督としてどうするべきか、子供の前で父として自分が信じた決断をできたと言えるためにはどうするべきだろうか」

と考えをめぐらせ、自身が描いていた試合のシミュレーションを行った結果、その中に出てくる回数の少ない人間から、3人を選んだという。

W杯参加国全ての監督がしなければならなかった決断に過ぎず、カズがその対象になったということでしかない…と言う声もあるが、他にも日本代表に残りながら出場のチャンスが全くなかった選手がいたことや、同じくベテランながら不調で本大会でのプレーが疑問視された、リーガ・エスパニューラのレアル・マドリード所属であり、スター選手でもあったクロアチアダヴォール・シューケルが大活躍し、クロアチアを3位に押し上げた結果を見た一部ファンからは「こんなことならば、カズをメンバー入りさせていれば結果が変わったかもしれない。」と論議が起った。また、メンバー入りしながら全く使われなかった選手がいたことも非難の要因の一つであった。とにもかくにも格下とされていたジャマイカにまで負け、さらに一点しか奪えずに惨敗してしまったことが結果的にはJリーグと、欧州トップリーグのレベル差を考慮しない不毛な論議を醸す結果となった。

[編集] フランスW杯後

フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからも、1999年末から2000年までは代表に召集されることもあった。しかし2000年6月のハッサン2世国王杯でのジャマイカ戦を最後に、代表の試合に出ることはなくなった。
トルシエはかつて率いたブルキナファソでの、同国代表選手引退記念試合にも「ここにカズを連れてきたかった」と述べ、雑誌『Sports Graphic Number』でもカズに宛てて敬意の籠った文章を寄せるなど、その人格面を高く評価していた。そのため、2002年のワールドカップではコーチ格としてカズをチームに加えたい意向を持っており、カズもその打診があったと認めている。しかし「スーツを着てベンチにいるのは」と、あくまで現役選手としての代表にこだわるカズはこれを固辞した。
2002年・2006年のワールドカップでも代表入りの願望は持ち続けていたが叶わず、W杯出場の夢破れた選手の象徴となっているが、本人は未だワールドカップ出場の夢を諦めておらず、同世代のサラリーマンなどから「希望の星」「勇気の象徴」などと言われている。

[編集] プレースタイル

ブラジル時代は細身の体を生かして、キレのあるドリブル突破でウイングとして活躍。ファンの間では、カズのブラジル代表への帰化を望む声もあったほど。ブラジルより帰国後は、フィジカル面で一皮剥け、カズ・フェイント(リベリーノというブラジル代表選手のフェイントをアレンジしたもの)と称された独特のフェイントを駆使したドリブル突破はサポーターを魅了した。
しかし現代サッカーが、ラモス瑠偉に代表されるゲームメーカーが個人技を駆使して局面を打開するブラジル様式から、少ないタッチ数でボールを回し、組織で局面を打開することを基調とするヨーロッパ様式へと変化したことにより、彼の個人技をアピールする場は減ってしまった。

代表やクラブで全盛期を迎えていた頃からのメンタリティの強靱さは健在。現在Jリーグでベテランらしい読み、熟練した体の使い方等は若手選手の模範と言える。得点の減少により出場時間は大幅に減ったものの、本職であったチャンスメーカー的な役割を担い前線で積極的にプレスを掛け守備を安定させる役割を務めている。

クロアチア・ザグレブ在籍時にチームメイトだったユーリッチ選手を真似て、それ以降公式戦では冬場でも半袖でプレーする(親善試合や練習試合、オールスター戦などで長袖だけしか用意されていない時を除く)。長袖だと相手DFにシャツを引っ張られる面積が増える為と言うのが理由だが、多くのファンやマスコミは『気合を入れるため』と思い込んでいた。

[編集] 人物

[編集] パブリック・イメージ

通称は「カズ」「キング・カズ」など。彼を指す場合、一部のサッカー専門誌ではフルネームではなく「カズ」と表記し、一般人や民放だけでなくNHKでも「カズ」とのみ呼称することが多く、「三浦カズ」と呼ばれることもあるが、同姓の選手が多いこともあり、ファミリーネームの「三浦」のみで呼ぶことは少ない。愛称の「カズ」で呼ぶ事が定着している。40歳を超えても現役でプレーし続け、そのストイックな選手生活や波乱に富んだキャリアから、日本プロサッカー界におけるパイオニア的存在として名高い人物。
兄は三浦泰年(通称ヤス)、1993年8月1日タレント三浦りさ子(旧姓:設楽理佐子)と結婚。伯父の納谷義郎は城内FC(地元の少年団)の監督、実父の納谷宣雄は、静岡FCGMとなっている。

[編集] サッカー選手として

世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在。特に若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識にある。40歳を迎えてもその意識付けは全くブレることがなく、彼の存在そのものが「活きた手本」として同じピッチでプレーする選手達へプロ意識の種を蒔く事になっている。
練習量も多く常に先頭に立って声を出し、精力的に動く。『カズさんがやってるんだ、俺たちがやらなくてどうするんだ!』と練習を共にする選手の意識を変え、チームの根底から「カズスタイル」とも言うべきプロ意識を植え付けている。食生活、トレーニング、筋肉の管理、全ての面においてサッカーに捧げる生活に身を置いており、専門家も「40歳の筋肉じゃない」と絶賛する節制ぶり。彼より若くして引退した選手達の多くが、自分たちの若い頃のプロ意識の至らなさを、カズを見て反省すると言う。
若手選手と食事を共にするなどして馴染む努力もしており、それが若手選手に気を使わせストレスになることや、正しい栄養管理をされた食生活の妨げになる場合もあるが、チームプレイが基本のサッカーにおいてコミュニケーションの重要性を誰よりも理解しており、それを率先して実行している数少ないベテランである。
最近では、ボランチとしてのプレーも考えているらしい。これは、高木監督より2006シーズン終了後に冗談で言われた物らしいが、経験が生かされるポジションだけに、本人もこのポジションに本気で意欲を持っていることが近年のインタビューから窺い知れる。2007年シーズンは得点を期待されないサイドで攻撃を活性化すべく、左ウイングに近いポジションでチャンスメーカー的な役割を担うことになりそうだ。
また、2004年12月ブラジルサンパウロ州のクラブチームで同州一部リーグに所属するウニオン・サンジョアンの球団買収に乗り出していることが明らかになった。現役選手の視点から、クラブ運営や自分を育ててもらった人材の宝庫と言われるブラジルで、後進の育成にも携わっていく構想を持っているようだ。

[編集] スター選手として

カズ加入後、横浜FCは以前より観客動員数が大幅に増え、アウェイの試合でも注目を集めてJ2の観客動員に貢献した。またこのシーズンの横浜FCのレプリカユニフォームは、カズ加入後に爆発的に売り上げを伸ばし完売した。同チームとしては異例とも言える追加発売を行ったが、またも完売するという盛況ぶりであった。
また、本人や一部ファン共に日本代表復帰を熱望し、今なお日本代表の背番号11には「KAZU」のネームを入れたユニフォームを注文したり代表Aマッチには着用して応援するファンも多い。ちなみにデザインは彼がもっとも活躍していた93年の"ドーハモデル"と言われている物や炎を象った96-97モデルにはじまり、代表に選出されなくなった年代の物を含め最新モデルにも11・KAZUのネームナンバーを取り付けたユニフォームなど様々である。
通常、ユニフォームを取り扱う店には代表に選ばれていない選手のネーム在庫は置かないが、カズの物だけは特別に製作されており(日本代表以外ではイタリア代表の最新モデルのロベルト・バッジョのネームナンバーを用意しているお店もある)、世代を越えた人気を持つ選手である。
アジアを代表するFWとして、その経験を買われ、シドニーFCよりオファーを受ける形で期限付き移籍もしている。

[編集] ファッション

今でこそ短髪を通しているが、かつては様々なヘアスタイルでも人々を魅了している。
はじめはごく普通のサラサラヘアだったが、1993年Jリーグ戦開幕直前にパーマを掛け、後部分を刈り込むという奇抜なヘアスタイルに。しかし、開幕当初の不調から『髪型がチャラチャラしているからだ』などと非難され、試合中にPKを外した反省から短髪に。それ以降復調し、Jリーグ初代MVPを獲得する。そのゲンを担いでいるのかは不明だが、この年以降KAZU=短髪と言うイメージが出来上がる。
1994年、セリエA(当時)ジェノアへの移籍が決まった頃、髪を伸ばし始めるようになり、一時は耳が完全にかぶさるほどにまで伸びた。
1995年ヴェルディ川崎復帰時はまた元の短髪に戻す。また、シーズン終了後のJリーグ・アウォーズでは、巨大なアフロで登場。ベストイレブン表彰後にそのアフロを外すと、中からは非常に明るい(白に近い)金髪になっており、場内を2度驚かせた。このエピソード以降、彼にはキングと並ぶ2つ目の称号、『お祭り男』を得ている。
1998年、ワールドカップフランス大会直前に代表から落選した際、北澤豪とともに傷心の帰国。この時、頭髪は銀色に染められていた。
Jリーグ初代MVPの表彰式で、派手に登場した時着ていた真赤なスーツは、6歳上の大親友田原俊彦のアドバイスによるものである。

[編集] エピソード・語録

自身が注目を浴びてきたスター選手という意識は強く、それ故のエピソードや語録は枚挙に暇がない。また記者会見や挨拶など、マイクを使う時は一礼と共にマイクを頭にぶつけて場を和ませると言うベタなギャグがお気に入りらしい。

[編集] カズ語録

  • 「ブラジルでプロ選手になって、いつかW杯に出たい」(高1/1982年地元静岡の新聞インタビューに答えて)
  • 「日本代表をW杯に出場させるために帰ってきました」(1990年読売サッカークラブと契約し帰国した時の会見)
  • 「魂込めました、足に」(1992年アジアカップ広島大会1次リーグ対イラン戦でゴールを決めて)
  • 「悲しみはいつか癒えていくのかもしれない。でも、傷って消えることは無いんです」(1997年フランスW杯アジア地区最終予選開始前、「ドーハの悲劇について今どう思いますか?」と質問され)
  • 「成功した時にスポーツ紙の一面になるのは普通の選手。失敗した時にスポーツ紙の一面になる選手は限られている。一面で失敗を取り上げられ叩かれることに誇りを持てばいい」(1998年柔道の田村亮子選手が、イチロー選手との対談で「KAZUさんに言われたこの話を思い出すと心強くなる」と語った)
  • 日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こう(フランス)に置いてきた」(1998年6月フランスW杯メンバーから漏れての会見で)
  • 「僕は自分自身に対して悔しかった…」(1998年フランスW杯での代表落選を振り返って)
  • 「嬉しさは一瞬喜べば消える。でも、悔しさは後から胸が痛むんだ」(同上)
  • 「日本代表から外されたからといって、サッカーをやめる理由にはなりません」(同上)
  • 「点を取ってこそKAZUだから」
  • ドイツでお会いしましょう」(2006年ドイツW杯への出場が決まった時に)
  • 「大好きな神戸、ありがとう!!」(神戸退団の際)
  • 「これで皆、オレが引退すると思っているのかな? サッカーは世界中でやっているんだぜ」(神戸在籍時の2005年7月に5戦続けてベンチを外れた時に)
  • 「10年後か、まだまだ現役をやっていたいね」(26歳頃に記者から「10年後はどうしたいですか」と聞かれた時の返答)
  • 「10年後。そうですね…現役でいれたら、一番良いですね」(38歳。横浜FCに移籍した時のインタビューで。奇しくも、26歳の時と同じ答えをしていた)
  • 「勝ち負けに関係なくボールと仲良くなれ」(横浜市内の小学校で訪問授業を行った時に小学生に語った言葉)
  • 「30歳は小僧だね」
  • 「日本も世界なんですよ」(記者の「日本は世界を相手に戦えますか?」との質問に対して)
  • ジーコ、一度でいいから(代表に)呼んでくれねぇかな」(2005年12月放送のテレビ番組にて)
  • 「次は2010年目指して頑張ります」(2006年ドイツW杯のメンバー発表後)
  • 「俺よりも若い」(城彰二の引退にて)
  • 「(洋服の)生地を選ぶ時間は練習時間よりも長い」(2007年1月放送のテレビ番組で最近の洋服の買い物について聞かれて)

[編集] エピソード

  • ブラジルから帰国した頃、ラッシャー板前の家に居候していたことがあると浅草キッドがTVで語っていた。(著書では契約金で日本を選んだとも)
  • 朝、コーヒーを一杯飲みに行く為だけにスーツに着替える(帰宅後にまた着替えて寝た)。前述のように、近年はジャージで出歩くことも多いようだが、当時も今も外出時は夜中であろうとサングラスはかける。
  • 武田修宏と会う約束をしていた時に、武田が待つ場所へ全身白(帽子、スーツ)にサングラスの出で立ちで現れ、武田がうろたえた。
  • 城彰二がW杯でフランスから帰国した際空港で水をかけられたのを友人からの口コミ(あるいはテレビを見た)で知ったカズが電話で「水をかけられたということはお前(城)が日本人全員にエースと認められたということなんだぞ。俺(カズ)だってブラジルでファンにドラム缶を投げられたんだゼ」と激励の言葉をかけたという。
  • ロッカールームでは常にバスローブを着用していたため、サッカー番組で神戸時代のチームメイトによって、ロッカー内にあった赤いバスローブが披露された。
  • ブラジルの少年たちに200個のサッカーボールを寄贈した際、ひとつひとつに「夢をあきらめるな カズ」と自筆のサインを入れていたおかげで、現地の少年たちはずっと、そのサッカーボールのメーカーが「カズ」であると思い込んでいたというエピソードがある。
  • 移動バス内では常に一番後ろの左側を定位置、練習用ビブスは11番を手放さないことに執着。
  • 週刊サッカーマガジンベースボール・マガジン社刊)の「選手評価点」において、日本代表史上初の「10点満点」(通常は「6」が平均で、最低1~最高10までの0.5刻みで評価される)と評価された(他にJリーグでは、ジーコゴンが満点を出している)。
  • 中学3年生の時、進路指導の紙の志望高校を書く欄に『ブラジル』と書き、先生に怒られた。この件について「当時既にブラジルに行く以外考えていなかったので、高校名を書くわけにはいかないと思ったから」と『ジャンクSPORTS』にて語っている。
  • 2002年W杯の日本対ベルギー戦の直前まで、カズは一人黙々とグラウンドで練習を続けてコンディションを整えていた。ある記者がカズにその理由を尋ねると、カズは「試合直前だけど試合が始まるまでは何が起こるかわからないよね。もしかしたら集団食中毒が起こるかもしれないし、代表に選ばれたFWが怪我するかもしれない。そして、もしかしたら誰かの代わりに自分が選ばれるかもしれない。もし、そうなって自分が日本代表に選ばれた時、恥ずかしいコンディションでピッチの上に立つなんてことは、自分には絶対にできない。日本代表というのはそういうものじゃないんだ。後悔だけは絶対に残したくないんだ」と答えた。周知の通り、補欠としても選ばれる要素はほぼ皆無だったが、カズの日本代表に対する誇りや熱意が伝わるエピソードである。
  • 2007年開幕前の40歳の誕生日に、2004年にドクターから「(現役は)残り50試合が限度」と「余命宣告」をされていた事を告白。しかし、その言葉に奮起したのか現在では「余命宣告」から70試合以上をこなしている。本人も、「いつ限界が来てもおかしくない」状況である事を言いつつも、私生活まで徹底した体調管理の下、今年も開幕戦を現役で迎える。ちなみに、横浜FCの高木監督より歳(学年)が上である。

[編集] エピソード(プライベート編)

りさ子夫人とは10代からの付き合いで、「良いも悪いも互いに全て知っている男女を越えた戦友のような間柄」だというが、互いの仕事や子供の教育の都合から別居婚形式を採っている。

  • 93年8月1日のサレジオ教会での結婚式での媒酌は、当時自身が主将だったヴェルディの親会社読売新聞社長渡辺恒雄夫妻
  • 新婚当初、カズが筋トレを始めると、夫人が自分も負けないと「腹筋対決」「自転車対決」を挑んできて勝負をしていた(しかしお互い手加減しないので大抵ケンカになる)
  • 夫人によると、長男はおっとりしており、次男はかなりヤンチャ。
    • 2004年頃、長男は映画『NIN×NIN忍者ハットリくん』に夢中になり「大きくなったら忍者になりたい」と言ったという。
    • 息子は2人ともサッカーをしているが、カズ自身はほとんどその姿を見たことがない。2005年、初めて長男のサッカー試合・練習を見に行ったカズは、その最中は黙ってみていて何も言わなかったのだが、終わって家に帰る際りさ子夫人に一言「いつもこんな調子なのか?」とだけ聞いたそう。
  • 中山雅史生田智子夫妻のキューピッド役になったのもカズ・りさ子夫妻。カズ主催の食事会で、当時まだ無名だった中山と、りさ子夫人と親しかった生田を引き合わせたのが縁だったという。この事例からしても、サッカー界・芸能界などでの交友関係は広いと思われる。
  • ブラジルの永住権を今でも更新している。
  • 9歳になる長男に「日本代表の伝説的な背番号11番は誰か知ってるか」と聞いたら、冗談まじりに「!」と言われたという。
  • 都内に服保存用のマンションを購入。スーツ好きで、起き抜けに出掛ける時もスーツに着替えるが、最近は所属する横浜FCの空気がそうさせたのか、ジャージで外に出ることも。しかし、サングラスとマフラーは忘れないらしい。
  • SMAP×SMAP出演時に、1度服を処分した事を告白。保存用のマンションを購入したにも関わらず処分せざるえない程所有していたようだ。
  • 熱狂的な『ゴッドファーザー』好きで、奇抜なファッションはその影響が基準。日本サッカー界屈指の「伊達男」だと自認する。有名な服好きであり、都内に洋服保存用マンションを購入したほどである。
  • 好物は彼の自著の名前にもなっているおはぎ
  • 本名「知良」の『知』は通常『かず』と読むことはなく、以前ビートたけしとんねるず石橋貴明ダウンタウン浜田雅功からからかわれた事がある(区役所に提出する時に父親が酔っ払っていて間違えた、など)。

[編集] カズダンス

本人が得点を決めた時にするポーズ。 近年ではなかなか披露しない為、このパフォーマンスが飛び出すとそれだけでスタジアムが否応に盛り上がる。

カレカがやっていたポーズを参考に、田原俊彦がアレンジを加えた。カズ本人によればサンバのつもりだったのだが、これを見た当のカレカは「あれはサンバじゃないな」と言ったそうである。 しかし、『ゴール後のパフォーマンス』を日本に定着させたのはこのダンスであり、Jリーグ開幕直後、小中学生はこぞってゴール後に踊っていた。

セリエAジェノアからヴェルディ川崎復帰後に「年齢も年齢なので封印した」と言いつつも、「ここぞ」と言う場面で披露。ここ最近では京都在席時のJリーグ通算100得点達成後、神戸在籍時も2002年アウェーのガンバ大阪戦、北澤豪引退試合での得点後などで披露した(ラモス瑠偉引退試合でも、得点はならなかったが試合後のセレモニーで披露)。横浜FCに移籍してからは、J2リーグ2005シーズン第32節徳島戦(移籍後3得点目)で逆転ゴール後に吉武剛と共にカズダンスをした(試合はその後再逆転され2-3で敗戦)。

また、様々なJリーガーもこのダンスを披露している。 城彰二が一時期カズダンスをしていたが、そのことを知人から聞いたカズは城を呼び出して説教をした(それ以来城はカズダンスをしていない)。カズ本人はこの件について、2007年1月7日放送の『ジャンクSPORTS』にて「真似をしてもらうのはうれしい。でも城のダンスが変だったので、やるならちゃんとやれ、と言った」と語っている。 また須田興輔も「次に点を取ったらカズダンスします」と2005年水戸在籍時に言っている(2007年現在実現はしていない)。 2005年にはコンサドーレ札幌に所属する相川進也が34節徳島戦にて披露している。

なお日本のテレビで初めてカズダンスが放映されたのは、1989年頃にテレビ朝日系列で放送されていた『ビートたけしのスポーツ大将』内のサッカー対戦で、助っ人として出演しゴールを決めた時である。もっとも後に披露されたカズダンスに比べてシンプルなものであった。

1995年のキリンカップでは新パターンのカズダンスを披露したが、あまり使わなかった(実は1993年度チャンピオンシップでも披露しているが、あまりにいつもと動作が違うためにカズダンスと気付かなかった)。

とんねるずの生でダラダラいかせて!!の木梨vsヴェルディと言う企画では、ロベルト・バッジョと考えたと言う今までのカズダンスとまったく違う奇抜なダンス(何かを混ぜるような動作で腕を回し、その後に頭も回す)を披露したが、公式戦などでは披露しなかった。

[編集] 所属チーム

[編集] 個人成績

年度 チーム リーグ 背番号 リーグ戦 カップ戦 天皇杯
J・J1 J2
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1992年 ヴ川崎 J - - - 2 0 2 1
1993年 ヴ川崎 J - 36 20 - 1 0 3 3
1994年 ヴ川崎 J - 22 16 - 0 0 0 0
1995年 ヴ川崎 J - 26 22 - - 2 0
1996年 ヴ川崎 J - 27 23 - 6 3 5 4
1997年 ヴ川崎 J 11 14 4 - 0 0 2 1
1998年 ヴ川崎 J 11 28 5 -
1999年 京都 J1 36 11 4 -
2000年 京都 J1 11 30 17 -
2001年 神戸 J1 11 29 11 -
2002年 神戸 J1 11 17 3 -
2003年 神戸 J1 11 24 4 -
2004年 神戸 J1 11 21 4 -
2005年 神戸 J1 11 12 3 -
横浜FC J2 11 - 16 4 -
2006年 横浜FC J2 11 - 39 6 - 0 0
2007年 横浜FC J1 11 2 0 -
通算 299 136 55 10

[編集] タイトル

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 91試合 56得点(1990-2000)
(91試合出場はJFA/FIFA認定歴代3位。井原正巳(123試合)、川口能活(更新中)に次ぐ記録)
(国際Aマッチ通算56ゴール(日本代表ではFIFA認定歴代1位、JFA認定歴代2位、釜本邦茂に次ぐ記録(オリンピック予選および本選の得点を除外しない場合もしくはAマッチ以外の全得点も含む場合))
年度 試合 国際Aマッチ
出場 得点
1990年 (6) 3 0
1991年 (2) 2 0
1992年 (11) 11 2
1993年 (16) 16 16
1994年 (9) 8 5
1995年 (16) 12 6
1996年 (13) 12 6
1997年 (24) 21 19
1998年 (11) 1 0
1999年 (7) 0 0
2000年 (18) 5 2
通算 91 56

[編集] 著書

[編集] 関連書籍

  • 『KAZU-十五の旅立ち 三浦知良物語』(綾野まさる 著)
  • 『足に魂こめました』(一志治夫 著)
  • 『たったひとりのワールドカップ 三浦知良、1700日の闘い』(一志治夫 著)
  • 『ズバリ、一流のストライカーに育てる本 - カズ、ヤスの母親に学ぶ』(三浦由子(三浦兄弟の母)著)

[編集] 外部リンク

横浜FC - 2007
1 小山健二 | 2 早川知伸 | 3 アンデルソン | 4 和田拓三 | 5 室井市衛 | 6 山口素弘 | 7 吉野智行 | 8 アドリアーノ | 9 久保竜彦 | 10 内田智也 | 11 カズ | 12 滝澤邦彦 | 13 鄭容臺 | 14 奥大介 | 15 坂井洋平 | 16 薮田光教 | 17 シウバ | 18 小野智吉 | 19 難波宏明 | 20 玉乃淳 | 21 菅野孝憲 | 22 秋葉陽一 | 23 岩倉一弥 | 24 根占真伍 | 26 太田宏介 | 27 中島崇典 | 30 小村徳男 | 31 岩丸史也 | 監督 高木琢也 | クラブ |    編集
先代:
金鋳城
アジアカップMVP
1992
次代:
アジジ
先代:
金鋳城
アジア年間最優秀選手賞
1993
次代:
サイード・オワイラン
先代:
-
Jリーグ年間最優秀選手
1993
次代:
ペレイラ
先代:
福田正博
Jリーグ得点王
1996
次代:
パトリック・エムボマ
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