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中山雅史 |
名前 |
愛称 |
ゴン、中山隊長 |
カタカナ |
ナカヤママサシ |
ラテン文字表記 |
NAKAYAMA Masashi |
基本情報 |
国籍 |
日本 |
誕生日 |
1967年9月23日 |
出身地 |
静岡県志太郡岡部町 |
身長 |
178cm |
体重 |
72kg |
血液型 |
O型 |
選手情報 |
在籍チーム |
ジュビロ磐田 |
ポジション |
FW |
背番号 |
9 |
利き足 |
右足 |
代表歴 |
キャップ |
53 |
得点/失点 |
21 |
|
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県志太郡岡部町出身のプロサッカー選手。ジュビロ磐田所属。ポジションはFW。Jリーグ選手協会会長。ゴンの愛称で知られる。他、中山隊長、隊長の愛称がある。妻は女優・タレントの生田智子で、2004年に第1子(女子)をもうけている。実父の中山儀助は元岡部町町議会議員。静岡県ローカルのテレビやラジオにはたびたび登場する。元日本代表で、最優秀選手賞1度受賞、得点王2回、ベストイレブン4度受賞。
[編集] プレースタイル
身体的にあっと驚くものはなく、足元の技術も高いとは言えない。しかしスピード、持久力、高さ、体の強さがバランス良く高いレベルにある。特にゴール際での反応速度は日本トップクラス。その一番の強みは諦めないプレースタイルである。ギリギリのボールにも反応してゴールしようと試み、少々のトラップミスも自らすぐに取りに行くプレーなど、世界では当たり前の事が出来るプレイヤー。オフ・ザ・ボールの動きが良く、ゴールへの嗅覚が鋭い。日本人の中では泥臭いゴールが最も良く似合う「何かをやってくれそうな」ストライカー。
戦術眼もあり、パートナーを選ばない適応力の高さを持ち、また自己管理に務めて数々の負傷を乗り越えて数々の記録を作ってきた。サッカー選手のフィールドプレーヤーの寿命は30代前半とよく言われるが、30代半ばを超えてもなおプロとして活躍する息の長さも魅力である。年齢を重ねるにしたがって若い頃のスピードはなくなったが、今度は巧みなポジショニング・動きでスペースを作り出したり、依然として強さを発揮する空中戦のポジショニングでチャンスを生み出すなど、プレーの奥深さは増していると言える。ただ、さすがに衰えもあるのか「フィールドを縦横無尽に駆け回る」と言われた運動量も近年は減った。また常にスタメンフル出場ということも少なくなり、途中交代での出場も増えた(カレン・ロバートや前田遼一といった若手の台頭もある)。
キャプテンシーの強さ、負けず嫌いな性格などチームを引っ張りつづけるだけのメンタル面の強さも特筆される。長く日本代表にとっても精神的支柱であった。そして、今でも名波浩が「中山魂」と言うようにジュビロの魂であり、ジュビロの精神的な柱である(なお、1996年からジュビロのチームキャプテンである。一時はゲームキャプテンも兼ねており、アジウソン体制になってからは、先発時は再びキャプテンマークを巻くようになった)。
2006年シーズン終了の時点で、Jリーグ年間得点王を2度(1998年・2000年)獲得したのは彼しかいない。また2005年5月1日・柏レイソル戦(柏の葉スタジアム)で史上初のJリーグ個人150ゴールを達成し、現在もJリーグ通算最多得点記録を更新中。なおチャンピオンシップでは8試合で7得点を記録しているが、Jリーグが1シーズン制に完全移行したため、この記録は永遠に破られることはない。
[編集] 所属チーム
[編集] 略歴
- 1984年 藤枝東高校のエースとして活躍し、全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進む。決勝は強豪の東海大学第一高等学校(現・東海大学付属翔洋高等学校)と対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制。3-1で勝利し第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にする。その大会では準決勝まで駒を進めるが、島原商業高校との対戦でPK負けしベスト4。しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍する。
- 1986年 筑波大学に進学。当初静岡県選抜でも経験のあったDFに回されるが、後に先輩の長谷川健太らの助言で本来のセンターFWに戻る。
- 1990年 ヤマハ発動機に入社、サッカー部に入部。当時はまだ実業団で、サラリーマン生活も経験。
- 1991年 Jリーグのスタートメンバーからヤマハ発動機サッカー部落選。清水エスパルスからオファーを受けるが固辞。
- 1992年 広島で行われたアジアカップに日本代表として召集。スーパーサブとして優勝に貢献する。
- 1993年 ヤマハ発動機サッカー部改め「ジュビロ磐田」が旧JFL1部在籍にもかかわらず、中山と吉田光範(現・ジュビロ磐田ユースコーチ)が1994年アメリカワールドカップ予選の日本代表に選抜、最終予選では途中からスタメンに定着して獅子奮迅の活躍を見せる。また予選中その陽気なトークや(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)熱意剥き出しのプレーがマスコミで話題となり、一躍全国区の人気者となる。またこの年、ジュビロ磐田は旧JFLで2位となり、一年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たす。
- 1994年 代表及びクラブでのフル稼働が原因で、前年から抱えていた恥骨結合炎及びスポーツヘルニア(現在は「グローインペインシンドローム」と総称される、サッカー選手に頻発する股関節障害)が悪化し4月末にリタイア。当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手も少なくなかったが、菊原志郎や福田正博らと同様に、この病気の専門医のいるドイツで手術。結果的に8ヶ月もの間ピッチから離れられることを強いられるが、再起を果たす。
- 1995年 怪我から復帰。元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビはJ最強とまで言われた。しかし日本代表では思うような活躍ができず、この年の6月(アンブロカップの英国遠征)を最後に一時期代表から遠ざかる。
- 1997年 ドゥンガや山本昌邦らとのトレーニングにより、「ボールを持たない時の動きの質」に開眼、前年からの不調から脱し第2ステージで活躍、自身Jリーグでは初のハットトリックも記録する。そして1998年フランスワールドカップ最終予選の最終局面で代表復帰して日本代表の予選突破に貢献。直後の鹿島とのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、ジュビロ磐田のリーグ初制覇に貢献する。
- 1998年 フランスワールドカップ日本代表に選出。予選リーグで敗退したものの、3試合全てで先発し、ジャマイカ戦で日本代表のW杯初ゴール・日本人初ゴールを決める。その直後、相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了まで走り続けた事は、日本代表としての誇りと魂の象徴として、今も語り草になっている。(但し「骨折していながらもゴールを決めた」「ゴールと引き換えに骨折した」というのは誤解)
- 1999年 Jリーグ選手協会副会長に就任。コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に眼窩底骨折で帰国し、手術。失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰。それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水とのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。
- 2000年 前期は故障もあって思うような活躍が出来ず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得。
- 2001年 井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。前年からの好調を続け代表にも復帰。クラブは第1ステージを圧勝。第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れリーグ勝利をのがす。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末敗れるなど、無冠に終わる。
- 2002年、当初は候補合宿に召集されるなど2002年日韓W杯代表入りが有力視されていたが、開幕からの不振(W杯の中断までリーグ戦ではわずか1得点)から直前の海外遠征のメンバーから外され、更に当時のトルシエ監督が落選をほのめかした事から、本大会代表入りはないと推測されていた。しかし、世論の後押しと、直前遠征で結果が出せなかった代表の精神的支柱としての意味もあり、2002年日韓W杯日本代表に選出される。日本代表のワールドカップ初勝利となったロシア戦では後半途中からピッチに立つ。クラブではリーグ得点王となった高原直泰とのコンビで再開後のリーグ戦ではゴールを量産。ジュビロ磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献、ベストイレブンに選出。
- 2003年 5月に10年前の恥骨結合炎が再発し戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰するが、リーグ戦の優勝は逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献。
- 2005年 5月1日の柏レイソル戦(柏の葉)前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。9月24日の柏レイソル戦(ヤマハ)では、Jリーグ15人目(FWとしては史上初)の300試合出場を達成。久々にほぼフルシーズン稼動した。
- 2006年9月17日の川崎フロンターレ戦(等々力)の後半32分に得点を挙げ、ジュビロ磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1のリーグ戦で13年連続ゴールという記録を打ち立てた(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮戦で達成)。この記録は過去に三浦知良、澤登正朗(引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録でもある。
[編集] 個人タイトル
[編集] 背番号
[編集] ジュビロ磐田
- 9 1997年-
- 固定背番号制になる前からほとんどの試合で9をつけている。Jリーグの公式戦での例外は以下の2試合のみ。
[編集] 日本代表
- 9 1998-2000年、2002-2003年
- 磐田ではおなじみの背番号。日本人初めてのワールドカップにおける得点などはこの背番号を背負って挙げている。
- 10 2002年
- 日韓W杯時の背番号。藤枝東高校時代以来だったというこの背番号を背負って、日本のW杯初勝利となったロシア戦のピッチに立った。
- 11 2001年
- 9番を西澤らに譲り、僚友カズの背番号だったこの背番号を背負った。
- 14 1995年
- 加茂代表時の背番号。1995年のイングランド遠征時もこの背番号だった。
- 16 1992-1993年
- オフト代表時の背番号。中山の名を一躍有名にした1994年アメリカW杯予選の際もこの背番号を背負っていた。
- 32 1997年
- 1998年フランスW杯予選の土壇場で2年ぶりに代表復帰したときの背番号。ジョホールバルの歓喜として記憶されるイラン戦で先制点を挙げたときの背番号である。
[編集] 経歴
[編集] 個人成績
年度 |
チーム |
リーグ |
背番号 |
リーグ戦 |
カップ戦 |
天皇杯 |
J・J1 |
J2 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
1994年 |
磐田 |
J |
- |
12 |
3 |
- |
0 |
0 |
0 |
0 |
1995年 |
磐田 |
J |
- |
45 |
18 |
- |
- |
0 |
0 |
1996年 |
磐田 |
J |
- |
27 |
9 |
- |
13 |
7 |
0 |
0 |
1997年 |
磐田 |
J |
9 |
27 |
18 |
- |
11 |
6 |
4 |
2 |
1998年 |
磐田 |
J |
9 |
27 |
36 |
- |
0 |
0 |
3 |
4 |
1999年 |
磐田 |
J1 |
9 |
23 |
6 |
- |
1 |
1 |
1 |
2 |
2000年 |
磐田 |
J1 |
9 |
29 |
20 |
- |
4 |
1 |
3 |
2 |
2001年 |
磐田 |
J1 |
9 |
30 |
16 |
- |
8 |
4 |
1 |
0 |
2002年 |
磐田 |
J1 |
9 |
29 |
16 |
- |
7 |
3 |
3 |
2 |
2003年 |
磐田 |
J1 |
9 |
12 |
3 |
- |
2 |
1 |
5 |
0 |
2004年 |
磐田 |
J1 |
9 |
19 |
3 |
- |
5 |
0 |
4 |
1 |
2005年 |
磐田 |
J1 |
9 |
29 |
6 |
- |
2 |
0 |
2 |
0 |
2006年 |
磐田 |
J1 |
9 |
13 |
1 |
- |
3 |
1 |
1 |
0 |
2007年 |
磐田 |
J1 |
9 |
|
|
- |
|
|
|
|
通算 |
322 |
155 |
- |
56 |
24 |
27 |
13 |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 53試合 21得点(1990-2003)
年度 |
試合 |
国際Aマッチ |
出場 |
得点 |
1990年 |
(6) |
1 |
0 |
1991年 |
(2) |
0 |
0 |
1992年 |
(11) |
6 |
3 |
1993年 |
(16) |
8 |
4 |
1994年 |
(9) |
0 |
0 |
1995年 |
(16) |
4 |
1 |
1996年 |
(13) |
0 |
0 |
1997年 |
(24) |
2 |
2 |
1998年 |
(11) |
10 |
4 |
1999年 |
(7) |
1 |
0 |
2000年 |
(18) |
7 |
6 |
2001年 |
(13) |
8 |
1 |
2002年 |
(13) |
3 |
0 |
2003年 |
(16) |
3 |
0 |
通算 |
53 |
21 |
[編集] エピソード
[編集] 幼少期~学生時代
- 雅史は長男とはいえ3人姉弟の末子。強い姉2人に対抗するため必然的に負けず嫌いの性格になっていった。
- 正式にサッカーを始めたのは小4で少年団に入った時だが、それ以前の遊びレベルでは幼稚園の頃からサッカー遊びをしていたし、野球もしていた。だがそれ以上に、子供の頃から故郷の山や川で遊び回っていた事が、後年中山の身体能力の高さの土台となったであろうことは想像に難くない。
- 中学時代の中山はサッカー部・合唱部・陸上部を掛け持ちしていたが、大会で一番最初に敗退したのはサッカー部だったという。一方合唱部では持ち前の高く、驚くほどよく通るその声を活かしてテノールのパートリーダーを務め、入賞した事もあるという。
- 地元の名門進学校でサッカーの名門校でもある藤枝東高校には一般入試で進学。一緒に受験した他中学のサッカー部員に「あの中山と一緒かよ?!」と恐れられたという。同級生にはスピッツのリーダーでベーシスト・田村明浩がいた。また彼らの2学年上に俳優の別所哲也がいた。
- 藤枝東高校では2年生の時点で背番号10を背負うエースだったが、静岡県高校選抜では武田修宏の存在もあり、DF(センターバックやサイドバック)としてプレーすることが多かった。なおサイドバックとしての経験のせいか、足元の技術が高くないと評されるにも関わらず、プロになってからもクロスボールの精度は比較的高く、味方へのアシストも多い。
- 筑波大学への推薦入学を決めた中山に父・儀助氏が付けた唯一の条件は、サッカーを辞めた後の人生のための教員免許取得だった。教育実習に行った茨城県内の中学校には、カレン・ロバートの兄がいた、という。
- 大学の同期生井原正巳は等身大のライバルにして同志。同じところでアルバイトをしたり、お互い相手には隠れてトレーニングを積んでいたという。彼によると、ゴンの愛称はTV番組「オレたちひょうきん族」で、タレント・ビートたけしが演じたキャラクター「鬼瓦権造」から来ているという。大学時代、海外遠征中の不摂生で太ってしまった中山の顔立ちが「鬼瓦権造」に似ていたというのがその由来だとされ、愛称は学生時代からのものということが分かる。中山が大学時代生活していた寮の狭い部屋には不釣合いに大きなタンスがあった(中山によれば、それ自体は事実)…という連想からゴンのあだ名が付いた、という異説もあるが、これは後付け的説らしい。
- ファンはしばしば中山隊長とも呼ぶが、これは筑波大学時代にユニバーシアード(サッカー競技)代表でキャプテンを務めた際に、チームメイト達が呼び出したことがきっかけだと言われている。
[編集] プロ入り後
- 下手なタレントやアナウンサーでは太刀打ちできない巧みな話術を持っており、場を盛り上げる技術の高さや軽快なトークはテレビなどでもおなじみである。多くの伝説的名言があるが、熟考した上での(まともな)コメントならともかく、世間が「ゴン中山的」だと思っている奔放な発言のほとんどはその場のひらめきで、本人はあまり覚えていないらしい。
- 世間一般のイメージとは裏腹に、中山の身近な人物たちによれば、素顔はむしろ寡黙で真面目で謙虚でシャイだとか。自身でも「普段はむしろ聞き役」だといい、「明るく強いお祭り男」キャラは営業用かつ自分の繊細な部分を隠す仮面でもある。「自分は下手だからこそまだまだ上手くなれる」と今も練習に励み、試合後は「まだまだです」とコメントするのもその表れだと言える。その真面目さ・ストイックな面を藤田俊哉は「他人にも厳しいけれども、自分にはもっと厳しい人」と評している。妻の生田智子曰く「ああ見えても普通の人間。意外とデリケートだし落ち込む時もある」が、それを決して表に出さない精神力には敬服するしかない。
- 俳優ばりの演技力を生かしCM出演は多数。本業のサッカー選手としてのキャラクターに留まらず、侍姿で殺陣を披露したり、紳士服モデルを務めるなど多様な才能と魅力を発揮し、他のCM出演著名アスリート達とは比較にならない実力を見せる。いかにもスポーツマンらしい情熱的かつ爽やかな印象を買われてか、2004年参院選など公的イメージキャラクターにも何度も起用されている。アニメ『ハングリーハート WILD STRIKER』では中山が登場するエピソードで自ら「中山雅史」を演じたが、これまたアフレコ初心者とは思えない演技が視聴者の間では話題になった。現役プロアスリートとしては異例だが、2003年放映の短期集中TVサイエンスバラエティ番組『ジュブナイル』ではメイン司会を務めた。
- 漫画『ホイッスル!』の作者樋口大輔も彼の大ファン(サイン入りキーパーグローブを持っている)であり、主人公・風祭将の性格、ゴール、エピソードなどには、彼のそれをモチーフとしたものが多く登場する。なお同作に登場する周防将大は、「本人を出すのはおこがましいので」と名前や設定はいじってあるものの、1975年「9月23日生まれ」と誕生日は中山と同じである。
- 中山自らゴールを決めてチームの勝利に貢献すると、試合後サポーターの応援歌に応えて「ゴンダンス」を披露したりもする。かつてのチームメート・ドゥンガ(元ブラジル代表主将。2006年現在、サッカーブラジル代表監督)は「私は中山ほどファンと喜びを共有しようとする選手は知らない」と彼をたたえている。
- 1997年ワールドカップアジア地区最終予選中には日韓戦でテレビレポーターも務めた。当時「その試合のチケットを持っていなかったのでつい仕事を受けてしまったが、現役の自分が何をやっているんだ、とかなり複雑な心境でいた」ことを後年告白している。その後窮地に陥った日本代表を救うべく代表に選出され、まともに食事も摂れないほどのプレッシャーに苦しみながらも(本人曰く「力石状態」)、結果的には大事な場面でゴールを決め、日本代表の救世主となる。
- 試合前に聴く「勝負曲」の好みは中西圭三のバラード。1998年のW杯初出場記念に中西圭三が中山への応援歌として製作した曲『SON OF THE SUN』では、中山自身が自慢のテノールを生かして(?)特別ゲストとしてコーラスに参加している。
- 日本で開催される代表試合において、メンバー交代で中山の出場がアナウンスされると異常な程の声援が起こり、彼を知らない相手の外国人選手は戸惑いを感じると言われている。2002年の日韓共催W杯のロシア戦において途中出場した際も同様の現象が起きた。
- ドーハの悲劇の後、彼のニックネームにかけて金鳥「タンスにゴン」のCMに出演した。この縁かどうかは不明だが、金鳥は長く磐田のスポンサーであり、1998年から2005年まではユニフォームの背中にもスポンサーロゴ(KINCHO)を出していた。
- 身体を投げ出すプレイスタイル故に、何度も大きな怪我をし、受けた手術は十数回、全身麻酔での手術も少なくない。が、全麻の度にいつまで意識を保てるか「勝負」し、1999年の眼窩底骨折の手術の時は目を見開いたまま意識を失ったという。
- 2006年のドイツW杯組み合わせ抽選会(2005年12月9日、ドイツ・ライプツィヒ)に招待ゲスト(ドローワー)として参加した。
- 2002年の日韓W杯のメンバー発表以前に発売された日本版ウイニングイレブン6のイメージキャラクターを務めた。その後、メンバー発表で土壇場のサプライズ選出が起こり、このソフトの売り上げが増大したという。なお、発売元のコナミは中山の起用を「狙ったわけでなく、まったくの偶然。」と話している。
- 2006年FIFAW杯ドイツ大会の代表には選出されなかったが、現地レポーターやゲスト解説として活躍。ウケ狙いか、訳のわからないことを言い妙なポーズをとったりして視聴者や共演者から笑いを誘う一方、自分達がW杯日本代表として闘った経験から身をもって残してきた教訓が全く生かされなかった苛立ちもコメントの端々から感じられた。どこまで本気かと思われつつも、エントリー変更のリミットまで連絡待ちしていたと言い、スタジオの日本代表歴のある選手達やコメンテーター達から「今からでもいいから代表に合流して選手達を一喝してやれ」と言われていた。
- 女優の長澤まさみの父親がジュビロ磐田初代監督の長澤和明であることがきっかけとなり、長澤とは家族ぐるみの付き合いである。また長澤まさみは中山の妻である生田智子の勧めでオーディションを受け合格した。
- 娘は人の名前を認識し始めた当初、父親の名前を「なかやまジュビロ」だと思っていた。
- 以前は切れ長の一重瞼の眼をチャームポイントだと自称していたが、なぜか最近二重瞼に変化した。プチ整形説もあるが、1999年の眼窩底骨折の影響や年齢と共に自然変化した可能性もあり(日本人には珍しくない)、真相は今のところ謎。中山は生田には風邪を引いたためだと主張していたが、そのまま戻らないので、生田は「摩訶不思議」「今度テレビで見たら注意して見てください」とコメントしている。
[編集] その他
B'zの大ファン。しばしばライブ会場に夫婦そろって目撃されている。また、稲葉とはプライベートでの付き合いもある。
[編集] CM
[編集] ゴン中山名(迷)言集
- 「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」('93年W杯最終予選の合宿中、テレビカメラに向かって放ったモハメド・アリの名文句)
- 「全然ですよ。カズさんのほうが、全然下です。あっ、そんなことないです」(「カズさんを超えたという話がありますが?」と聞かれて)
- 「勝ちたいんじゃなくて、負けるわけにはいかない」(93年のJリーグについて)
- 「本当に来ちゃったんだよね。サブにならないように、一生懸命ガンバリマス」(オフトのジュビロ監督就任を聞いて)
- 「Jリーグ!オレが行く前にファンをがっかりさせるなよ」(ジュビロがJリーグ参加した直後のインタビューで)
- 「オレが岡部の中山だ!」(ドーハの悲劇直後、出身地岡部町の慰労会で)
- 「僕がアンポンタンです!」(Jリーグの試合中、チームメイトの鈴木秀人選手が審判に対して「アンポンタンがっ!」と暴言を吐き、審判がカードを出そうとした時のとっさの機転の一言。思わず審判も笑ってしまい、カードは出さなかったという。セリフは「いかれポンチ」という異説あり)
- 「カズさんのユニフォームの下には嫁さんのブラジャーを…」('97年W杯アジア最終予選の土壇場で代表復帰した中山はカザフ戦でゴールを決め、自分のユニフォームの下に着込んでいた三浦カズ(この試合出場停止)の11番を見せた。この行為には賛否あり、本人も後に「やってしまった事は仕方ない」と語っている。無論、ブラジャー云々はウソ)
- 「来た!」「アルゼンチンかぁ」(W杯ドイツ大会の抽選会で、アルゼンチンとオランダが同組になった時思わず発したセリフがマイクに拾われ、そのまま配信されてしまった)
- 「彼のプレーする姿勢や練習する姿勢の中から学ぶものも多くありました」(中田英寿の引退を聞いて)
[編集] 外部リンク