中田英寿
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中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日 - )は元サッカー選手である。元日本代表。山梨県甲府市出身。イタリア・セリエAなどでプレーした。愛称はヒデ。身長175cm。体重72kg。血液型はO型。2006年7月3日、自身のウェブサイトにて現役引退を表明。その引退メールは大きな反響を呼んだ[1]。現在世界各地を旅している[2]。
目次 |
[編集] 人物紹介
小学3年、8歳でサッカーを始める。幼少期から高校まではFWとしてプレー。
甲府市立甲府北中学校3年生時にU-15(15歳以下日本代表)に選出され、アジアユース選手権(U-16)で世界への第一歩を踏み出す。以後は全ての年代別世界大会(U-17世界選手権、ワールドユース、アトランタオリンピック、シドニーオリンピック)に出場し、存在感を見せる。
また韮崎高校時代、2年時に高校選手権に出場している。そこで圧倒的な存在感を放った中田は1995年、Jリーグ全12クラブ中ヴェルディ川崎以外の11クラブからオファー[1] を受け、ベルマーレ平塚に入団。翌年、ゲームメイク能力を買われてトップ下にコンバートされる。
各年代の日本代表において主力として戦ってきた中田は、1997年、前園真聖の離脱により日韓親善試合で日本代表デビュー。ワールドカップ・アジア最終予選で苦しむ日本代表をワールドカップ初出場へと導く原動力となっていく。
1998年、弱冠20歳で日本代表選手としてのポジションを不動のものとし、日本初出場となるフランスワールドカップではチームの核としてグループリーグの全3試合にフル出場。そのプレーは海外のクラブに認められ、11クラブからオファー[2]を受け、同年7月、21歳の若さでイタリアのセリエA・ペルージャに移籍した。
開幕戦でユベントス相手に2ゴールを奪い、セリエAでの鮮烈なデビューを飾ると、このシーズンはリーグ戦合計10得点を挙げる活躍をし、ミッドフィルダーとして、当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立てた。
1999-2000シーズン途中に、名門・ASローマに移籍。これは当時監督であった、ファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされる。当初は中盤の底で起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などにトップ下で出場し、本来のトップ下で出場した試合では高いパフォーマンスを発揮した。しかし、生粋のローマ育ちであり、チームの象徴的存在になりつつあったトッティとポジションが重なっていたため、トッティが復帰すると再び中盤の底で起用された。シーズン半ばからは途中出場が多くなり、トッティの交代要員としてトップ下でプレーした。このような状況下でも、腐らずに与えられた時間の中で質の高いプレーを見せてトッティにプレッシャーをかけ続け、出場時間を徐々に増やしていった。中でも2000-2001シーズン終盤の第29節ユヴェントス戦での途中出場ながら引き分けに持ち込んだ試合の活躍は、ロマニスタに称えられ、語り草となっている。この試合をきっかけに、一時は遠ざかりかけた優勝を再び手繰り寄せたローマは、その年のスクデット(セリエA優勝)を獲得。中田は日本人で初めてスクデットを握った人物となった。
2001年、アジア人最高額の移籍金となる32億円でパルマに移籍。レンツォ・ウリヴィエリ監督の信頼の下、トップ下でプレーしたが、高いパフォーマンスを発揮したとは言いがたく、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリ監督の更迭後は指揮官が次々と変わり、出場機会も減っていった。その後2002-03シーズンから指揮を執ったチェーザレ・プランデッリ監督は、中田を右サイドハーフでレギュラーとして起用した。プランデッリによるアドリアーノとアドリアン・ムトゥを生かす徹底したチーム戦術は、中田を加えて「トリデンテ」と呼ばれ奏功した。しかし中田の動きを厳しく制約したため、確執が生まれた。
2002年、記念すべき地元開催の日韓ワールドカップで決勝トーナメントに進出。中田は25歳で、精神的にもチームを牽引する中心選手として全4試合を戦った。予選リーグのチュニジア戦では、ヘディングによる自身ワールドカップ初ゴールを記録している。
2003-04シーズンの冬のマーケットで、中田に甚大な信頼を寄せるカルロ・マッツォーネ監督率いるボローニャに半年のレンタル移籍。センターハーフを任され、かつての輝きを取り戻す。セリエAと日本代表戦の過密日程でグロインペインを発症するも、セリエA残留に貢献した。マッツォーネは中田の完全移籍を熱望したが、レンタル元のパルマ側が要求した高額な移籍金をボローニャ側が払えず頓挫した。
2004-05シーズン前にフィオレンティーナへ完全移籍。合宿の直前まで日本で治療に専念するが、今まで大きな故障をしてこなかった中田は、グロインペイン回復の目算を見誤り思ったようなプレーが出来ず、現地ファンから酷評される。回復には1年を要し、その間に出場機会を失っていった。また、2005-06シーズンより新監督としてパルマ時代に確執があったプランデッリが就任することになり、移籍を決意する。
2005年、28歳で7年間住んだイタリアを離れ、イギリスのFAプレミアリーグ・ボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、フリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。加入後すぐにレギュラーとして出場していたが、チームがロングボール主体のサッカーであったことから彼本来のプレーがあまり出来ず、加えて日本代表戦の度に長距離移動・フル出場を重ねていったためにコンディションが落ちるなどでサム・アラダイス監督の信頼を失い、リーグ戦の途中出場とカップ戦に起用されるようになる。しかし、そこでのパスを繋ぐプレーが徐々に認められてリーグ戦の終盤にはレギュラーを勝ち取り、5試合連続出場してチームの勝利に貢献。ドイツワールドカップに向けての試合勘に対する不安視を払拭した。
2006年6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツワールドカップのグループリーグ全3試合にフル出場。1分2敗で決勝トーナメントへの進出を阻まれたが、第2戦のクロアチア戦では灼熱の試合の中で抜群の運動量を見せてチームを牽引、引き分けながらマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。グループリーグ敗退国から選ぶベストイレブンにも選出された。
2006年7月3日、自身の公式HP上で現役引退を電撃表明。サッカーの恩恵に感謝しており、「今後の発展を願っているし貢献もしたい」と語っている。世界中を回って見聞を広げ、その上で自分は何ができるのか―新しい自分の可能性を探して世界各国を旅している。
[編集] 略歴
- 1991年 4月・14歳中学3年 - 甲府市立甲府北中学校3年生時にU-15に選出
- 1992年 5月・15歳高校1年 - U-17アジアユース選手権出場
- 1993年 8月・16歳高校2年 - U-17世界選手権 3試合中2試合出場、ベスト8
- 1994年 1月・16歳高校2年 - 全国高等学校サッカー選手権大会出場、2回戦敗退
- 1994年 9月・17歳高校3年 - U-19アジアユース選手権 全6試合出場、準優勝
- 1994年・18歳高校3年 - 山梨県立韮崎高等学校時代、Jリーグ12チーム中11チームから獲得オファー
- 1994年12月・18歳高校3年 - ベルマーレ平塚と仮契約
- 1995年 2月・18歳高校3年 - 東京ドームカップ・対ジュニオール戦 プロデビュー(途中出場)
- 1995年 4月・18歳 - U-20 FIFAワールドユース選手権 全4試合出場、ベスト8
- 1996年 7月・19歳 - アトランタオリンピック(U-23)3試合中2試合出場、2勝1敗でグループリーグ敗退(初戦のブラジルに対する勝利は『マイアミの奇跡』と呼ばれている)
- 1997年 5月・20歳 - ワールドカップ日韓共催記念試合 A代表デビュー
- 1997年11月・20歳 - フランスワールドカップアジア地区最終予選 イラン戦に3-2の逆転勝利、全得点をアシスト、第3代表に決定(ジョホールバルの歓喜)
- 1997年12月・20歳 - ワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜
- 1998年 6月・21歳 - フランスワールドカップ 全3試合フル出場、3戦全敗
- 1998年 7月・21歳 - セリエA・ACペルージャに移籍
- 1998年 9月・21歳 - シーズン開幕戦(ユべントス戦)で2得点
- 1998年12月・21歳 - イタリアサッカー協会100周年記念試合 イタリア代表対世界選抜
- 2000年 1月・22歳 - ASローマに移籍
- 2000年 8月・23歳 - 世界選抜チャリティーマッチ フランス対世界選抜
- 2000年 9月・23歳 - シドニーオリンピック ベスト8
- 2000年10月・23歳 - ジュビレオ杯(イタリア聖年記念試合) イタリア対セリエA外国人選抜
- 2001年 6月・24歳 - コンフェデレーションズカップ5試合中4試合出場(豪戦では豪雨を計算に入れ地を這うFKでゴールをあげ決勝戦に導く)
- 2001年 6月・24歳 - セリエA優勝(ASローマ 日本人として初)
- 2001年 7月・24歳 - ACパルマに移籍、イタリア杯優勝
- 2002年 6月・25歳 - 日韓ワールドカップ ベスト16、1得点
- 2002年12月・25歳 - レアル・マドリード創立100周年記念試合『世界選抜対レアル』レアル・マドリード対世界選抜
- 2003年 6月・26歳 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝2敗でグループリーグ敗退
- 2003年12月・26歳 - 貧困撲滅の慈善試合『ロナウド&フレンズvsジダン&フレンズ』 ロナウドチームで出場
- 2004年 1月・25歳 - ボローニャに期限付き移籍
- 2004年 7月・27歳 - フィオレンティーナへ完全移籍
- 2004年11月・27歳 - 世界エイズデー 国際慈善試合 バルセロナ対世界選抜
- 2005年 2月・28歳 - スマトラ沖地震チャリティーマッチ 世界選抜対欧州選抜
- 2005年 6月・28歳 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝1分1敗でグループリーグ敗退
- 2005年 8月・28歳 - イングランド・FAプレミアリーグボルトン・ワンダラーズへ1年契約の期限付き移籍
- 2006年 6月・29歳 - ドイツワールドカップに出場、1分2敗でグループリーグ敗退
- 2006年 7月・29歳 - 引退を表明
[編集] プレースタイル
- ウイング、トップ下、ボランチなど、中盤ならどこでもこなすことができるが、本人はトップ下でのプレーを好んでいた。
- 相手ディフェンスを切り裂くラストパスが最大の武器で、そのスピードとコースの正確性からキラーパスと称される。
- フィジカルの強さ、ボディバランスの良さにも定評があり、少々のタックルでは倒れず、相手との体の入れ方が上手く簡単にはボールを失わない。
- 視野の広さ、創造性には優れたものがあり、中田の正確なパスを生み出していた。
- 戦術理解・状況分析と修正・コーチング・スペースメイキングなど、目に見えないプレーのクオリティの高さも特徴でチームを引率しながら攻撃を組み立てることができる。
- インサイドから出されるスピードと正確性の両方を兼ね備えたパスは、世界でも数人しか出来ない高レベルのプレーであった。
- 悪質なファウルを受けても淡々とプレーを続けるが、チームメイトには大声で指示を出して要求するタイプ。特に日本代表の試合では、常にチームメイトを鼓舞し、叱責し、檄を飛ばす姿が目立っていた。
- 日本代表では、トルシエ監督時代(1999年-2002年)3-5-2のトップ下で司令塔としてプレー。
- ジーコジャパン初期(2002年)には、4-4-2の2列目で中村俊輔と並んでプレー。
- 2005年6月、ボランチ小野伸二の離脱により、小笠原満男が2列目、中田は3列目から攻守に関わるオールラウンダーのボランチとしてゲームメイクすることが多くなった。
- チームメイトからは「中田は銀行。中田に預けておけば安心」と賞賛された。
- ジーコ体制下の代表では中村俊輔や小笠原満男にプレイスキッカーを譲ることが多かったが、コーナーキックやフリーキックの名手であり、2001年のコンフェデレーション杯の豪州戦のFKでは壁の足元を抜け、地を這うような低い弾道のボールを蹴ってゴールを決めた。
[編集] 逸話
[編集] 個人として
- 高校生の時からセリエAへの移籍を考えてイタリア語の勉強をしており、今ではほとんどの訛りも分かる程イタリア語を身につけている。また、イタリアにいるころから英語の家庭教師に付き、英語のインタビューには英語で応対していたが、プレミアリーグへの移籍会見で初めて全て英語で応答している姿が放映され、いつの間に英語も習得したのかと驚かれた。さらに、映画『GOAL!』の主演男優とはスペイン語で話している映像も見られたが、スペイン語やポルトガル語・フランス語も簡単な会話が出来、ますます語学力を広げている。
- 彼が日本に帰国するたびに「成コレ」と呼ばれるファッションがファンやマスコミの注目を集めていた。
- 98年フランスワールドカップ時の一連の出来事(朝日新聞が「『君が代』ダサい」と発言したと報じたが中田側は「歪められた」と否定。これにより右翼から家族を巻き込んだ嫌がらせを受ける)を契機に「真実を伝えない」として、マスコミとの軋轢が絶えなくなった。そのため一時期は日本における生放送以外でのメディア出演は一切拒否する姿勢をとり、自身のホームページで情報・メールを発信。スポーツ選手のホームページの先駆けとなった。ワールドカップ日韓大会終了時あたりからは録画放送へも出演するようになった。さらにnakata.net TVという自身のテレビ番組も企画作成していた。
- メディアとの接触を極力避けるため無愛想な男に映るが、年下の者から声を掛けると心得ており年上から可愛がられる一面を持ち世界各国に人脈があり友人がいる。
- 右翼団体からの圧力を警戒し、国際空手道連盟極真会館の黒帯選手たちによるボディーガードが付いていた事がある。その中の一人は、2001年のK-1 JAPANで優勝した経験を持つニコラス・ペタス選手であった。
- 韮崎高校時代、「サッカーしか知らない人間になりたくない」とメディアのインタビューで答えたことがあり、30歳ぐらいには引退して他の道に進むのではないかという青写真をそのころから持っていた。
- 引退後、アジアの孤児院などを訪問して子ども達の心に触れたことで「結婚はしたくないが子どもは欲しい」と語った。
- 野菜は形が残っていると食べられず、中国の孤児院で子ども達と一緒に作った餃子も食べるマネをしてしのいだそうだ。
[編集] サッカー選手として
- 8年に及ぶ欧州でのプレー、様々な世界選抜試合、チャリティーマッチに出場し、社交的な性格もあって世界のスーパースター選手との交流がある。ドイツワールドカップでは、対ブラジル戦、試合前の入場通路でロナウド、ロナウジーニョ、カカらと談笑。また、試合後倒れている中田を元同僚のアドリアーノが慰めるシーンが見られた。
- 2001年のコンフェデレーションズカップは、日程と所属クラブASローマの優勝決定試合が重なったため、代表監督トルシエとの話し合いで「日本代表として準決勝までは同行。決勝には不参加」という条件で参加。準決勝では激しい雨の中、チームを決勝に導くフリーキックを叩き込んだ。その後決勝には参加せずイタリアに戻り、スクデット獲得の瞬間に居合わせた。[3]
- プランデッリ(ACパルマ時代)の元では中盤の右サイドで起用され無尽蔵の運動量を示した。しかし自分のスタイル(中盤で自由に動く)に戻ることを選択。ポジションを失ったため、出場機会を求めて中田に甚大な信頼を寄せるマッツォーネの元にレンタル移籍。ボローニャのセリエA残留にその力を発揮し期待に応えたが、年俸が高額なため完全移籍には至らなかった。
- サッカーに対する紳士な態度とそのひたむきさから、他チームに移籍後も古巣との試合では相手サポーターからも拍手が送られる。
- 2006年10月、フィリピンのスラム街を訪れ、そこに住む子供たちとともにサッカーを楽しんだ。
[編集] 実業家として
- 2005年ニューヨークにビルを購入。ここを拠点に世界を旅したいと語っている。
- その購入したビルのリフォームを手がけるのは建築における世界的権威、安藤忠雄である。
- 出身地の山梨県をホームとするヴァンフォーレ甲府のJ1昇格を祝福。スポンサーも紹介している。また、山梨県にユニフォームを贈呈するなど、故郷への思いが伺える。
- 個人的親交のあった「株式会社モック」の山田納生房代表取締役社長兼CEOと、なでしこリーグのスポンサー契約の橋渡し役となった。
- 2003年7月9日より、菓子メーカー株式会社東ハトの非常勤の執行役員CBO(Chief Branding Officer=チーフ・ブランディング・オフィサー)に就任。
- 2006年7月 東ハトが山崎製パンに買収されたが、山崎製パン側より「買収後も継続して中田を起用していく」との回答があった。
[編集] 所属チーム
- 北新サッカースポーツ少年団…1986年 - 1988年
- 甲府北中学校…1989年 - 1991年
- 山梨県立韮崎高等学校…1992年 - 1994年
- ベルマーレ平塚…1995年 - 1998年
- ACペルージャ…1998年7月 - 1999年12月
- ASローマ…2000年1月 - 2001年6月
- ACパルマ…2001年7月 - 2003年12月
- ボローニャ(レンタル)…2004年1月 - 6月
- フィオレンティーナ…2004年7月 - 2005年7月
- ボルトン・ワンダラーズ(レンタル)…2005年8月 - 2006年
[編集] 経歴
- 1995年3月25日 - プロデビュー(Jリーグ)- ジェフユナイテッド市原戦(市原臨海競技場)
- 1995年5月3日 - プロ初ゴール(Jリーグ)- 鹿島アントラーズ戦(平塚競技場)
- 1997年5月21日 - A代表初出場(ワールドカップ日韓共催記念試合)- 韓国代表戦(国立競技場)
- 1997年6月22日 - A代表初ゴール(ワールドカップ・アジア一次予選)- マカオ代表戦(国立競技場)
[編集] 個人成績
年度 | チーム | NO. | リーグ | リーグ戦 | リーグカップ | 他カップ戦 | UEFAカップ | CL予選 | 計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1995年 | 平塚 | - | J | 26 | 8 | 2 | 1 | - | - | - | - | - | - | 28 | 9 |
1996年 | 平塚 | - | J | 26 | 2 | 12 | 2 | 3 | 0 | - | - | - | - | 41 | 4 |
1997年 | 平塚 | 7 | J | 21 | 3 | 6 | 1 | 3 | 0 | - | - | - | - | 30 | 4 |
1998年 | 平塚 | 7 | J | 12 | 3 | - | - | - | - | - | - | - | - | 12 | 3 |
1998-1999 | ペルージャ | 7 | セリエA | 33 | 10 | 0 | 0 | - | - | - | - | - | - | 33 | 10 |
1999-2000 | ペルージャ | 7 | セリエA | 15 | 2 | 2 | 1 | - | - | - | - | - | - | 17 | 3 |
1999-2000 | ローマ | 8 | セリエA | 15 | 3 | 1 | 0 | - | - | - | - | - | - | 16 | 3 |
2000-2001 | ローマ | 8 | セリエA | 15 | 2 | 1 | 0 | - | - | 6 | 1 | - | - | 22 | 3 |
2001-2002 | パルマ | 10 | セリエA | 24 | 1 | 3 | 0 | - | - | 6 | 1 | 2 | 1 | 36 | 3 |
2002-2003 | パルマ | 10 | セリエA | 31 | 4 | 2 | 1 | - | - | 4 | 0 | - | - | 37 | 5 |
2003-2004 | パルマ | 7 | セリエA | 12 | 0 | 0 | 0 | - | - | 3 | 1 | - | - | 15 | 1 |
2003-2004 | ボローニャ | 16 | セリエA | 17 | 2 | 0 | 0 | - | - | - | - | - | - | 17 | 2 |
2004-2005 | フィオレンティーナ | 10 | セリエA | 20 | 0 | 3 | 0 | - | - | - | - | - | - | 23 | 0 |
2005-2006 | ボルトン | 16 | プレミア | 20 | 1 | - | - | 2 | 0 | 6 | 0 | - | - | 28 | 1 |
J通算 | 85 | 16 | 18 | 3 | 8 | 1 | - | - | - | - | 101 | 20 | |||
セリエA通算 | 182 | 24 | 12 | 2 | - | - | 25 | 3 | 2 | 1 | 227 | 30 | |||
プレミア通算 | 20 | 1 | - | - | 2 | 0 | 6 | 0 | - | - | 28 | 1 |
[編集] 受賞
- 1997年 Jリーグベスト11アワード
- 1997年 AFC Player of the year
- 1997年 内閣総理大臣賞/プロスポーツ賞
- 1998年 AFC Player of the Year
- 1998年 AFC All Star Team
- 1998年 セリエA 外国人選手MVP
- 1999年 AFC All Star Team
- 2004年 FIFA 100に選出
- 2006年 イタリア連帯の星勲章受章
- 2006年 カヴァリエーレ勲位(ナイト)
- 2007年 朝日スポーツ賞
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 1992年 U-16アジアユース
- 1993年 U-17世界選手権(ベスト8)
- 1994年 U-19アジアユース
- 1995年 ワールドユース(ベスト8)
- 1996年 アトランタオリンピック(グループリーグ敗退)
- 1998年 フランス ワールドカップ(グループリーグ敗退)
- 2000年 シドニーオリンピック(ベスト16)
- 2001年 コンフェデレーションズカップ(準優勝)
- 2002年 日韓ワールドカップ(ベスト16)
- 2003年 コンフェデレーションズカップ(グループリーグ敗退)
- 2005年 コンフェデレーションズカップ(グループリーグ敗退)
- 2006年 ドイツワールドカップ(グループリーグ敗退)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 77試合 11得点(1997-2006)
年度 | 試合 | 国際Aマッチ | ||
---|---|---|---|---|
NO. | 出場 | 得点 | ||
1997年 | (24) | 8 | 16 | 5 |
1998年 | (11) | 8 | 10 | 1 |
1999年 | (7) | 8、28 | 3 | 0 |
2000年 | (18) | 8、7 | 4 | 0 |
2001年 | (13) | 7 | 7 | 1 |
2002年 | (13) | 7、27 | 8 | 2 |
2003年 | (16) | 7 | 11 | 1 |
2004年 | (22) | 7 | 2 | 0 |
2005年 | (20) | 7 | 10 | 0 |
2006年 | (19) | 7 | 6 | 1 |
通算 | 77 | 11 |
[編集] 関連作品
[編集] VHS
- 中田英寿 イン・セリエA 1998-99 Vol.1
- 中田英寿 イン・セリエA 1998-99 Vol.2
[編集] DVD
- NAKATA
- Grande NAKATA-グランデ・ナカタ-
- HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 1
- HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 2
- HIDETOSHI NAKATA 2004-2005 FIORENTINA VOLUME.7
- HIDETOSHI NAKATA 2005-2006 BOLTON VOLUME.8
- HIDETOSHI NAKATA-THE JOURNEY2枚組
- HIDETOSHI NAKATA [THE JOURNEY] Vol.3 ベルマーレ平塚
[編集] 書籍
[編集] 執筆書籍
- 1999年 中田語録(文藝春秋社、小松成美編集、ISBN 4167272229)
- 2000年 nakata.net―98‐99(新潮社、ISBN 4104359017)
- 2001年 nakata.net〈2000〉(新潮社、ISBN 4104359033)
- 2002年 nakata.net〈2001〉(新潮社、ISBN 4104359041)
- 2002年 中田英寿・洪明甫 TOGETHER-2002ワールドカップBook(講談社、洪明甫共著、ISBN 4061793519)
- 2003年 nakata.net〈2002〉(新潮社、ISBN 410435905X)
- 2003年 文体とパスの精度(集英社、村上龍共著、ISBN 4087475719)
- 2003年 nakata.net〈2003〉(新潮社、ISBN 4104359068)
- 2003年 nakata.net ITALY WALK(角川書店、サニーサイドアップ編纂、ISBN 4048536273)
- 2004年 nakata.netTV 2003-2004(扶桑社、ISBN 4594047718)
- 2004年 お菓子を仕事にできる幸福(日経BP社、東ハト(編集)、木曽健一共著、ISBN 4822244083)
- 2005年 NAKATA 1998-2005 ~ 中田英寿 イタリア セリエAの7年間 ~(エクスナレッジ、ISBN 4767804965)
- 2005年 nakata.net Italy walk (2005) (角川書店、サニーサイドアップ編纂、ISBN 4047215252)
- 2005年 ドイツW杯への道 nakata.net(新潮社、小松成美編集、ISBN 4104359076)
- 2006年 教えて! ヒデ(小学館、nakata.net kids監修、ISBN 4092532660)
- 2006年 すべてはサッカーのために nakata.net 05-06(新潮社、ISBN 4104359084)
[編集] 関連書籍
- 1998年 中田英寿 鼓動(幻冬舎、小松成美、ISBN 4877282785)
- 1998年 戦いの前の素顔―Keibun Miyamoto photographs(マガジンハウス、宮本敬文)
- 2002年 悪魔のパス 天使のゴール(幻冬舎、 村上龍、ISBN 4344001893)
- 2003年 Amore Pace(講談社、宮本敬文、ISBN 4063086542)
- 2005年 ナカタ ノ ナカミ(マガジンハウス、ナカタ ノ ナカミ製作委員会、ISBN 4838715684)
- 2005年 NAKATA 1998-2005~中田英寿 イタリア セリエAの7年間(エクスナレッジ、ISBN 4767804965)
- 2007年 中田英寿日本代表全試合―1991-2006(幻冬舎、ISBN 4344012720)
- 2007年 In His Times 中田英寿という時代(光文社、増島みどり、ISBN 4334975143)
[編集] 出演
[編集] CM
- キヤノン
- コカ・コーラ
- Nike
- TOYOTA
- SKY PerfecTV!
- 「ほっとけない 世界のまずしさ」キャンペーン
- 日清ラ王
- 国際連合
- アサヒ飲料
- 資生堂
[編集] テレビ・ラジオ番組
[編集] 脚注
- ^ 鹿島アントラーズ、浦和レッドダイヤモンズ、ジェフユナイテッド市原、横浜マリノス、横浜フリューゲルス、ベルマーレ平塚、清水エスパルス、ジュビロ磐田、名古屋グランパスエイト、ガンバ大阪、サンフレッチェ広島
- ^ 以下の11クラブ
- ^ セリエAでは90年代からACミランとユべントスの2強がスクデットを独占していたが、ASローマに移籍した00-01シーズンではASローマが18シーズンぶりにスクデッドを獲得した。
[編集] 関連項目
- フォルツァ!ひでまる
- サニーサイドアップ (マネジメント会社)
- 村上龍
- 湘南ベルマーレの選手一覧
- 日本国外のリーグに所属する日本人サッカー選手一覧
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
- 2002 FIFAワールドカップ日本代表
- 2006 FIFAワールドカップ日本代表
- 山梨県出身の有名人一覧
[編集] 外部リンク
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日本代表 - 2006 FIFAワールドカップ | ![]() |
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1 楢崎正剛 | 2 茂庭照幸 | 3 駒野友一 | 4 遠藤保仁 | 5 宮本恒靖 | 6 中田浩二 | 7 中田英寿 | 8 小笠原満男 | 9 高原直泰 | 10 中村俊輔 | 11 巻誠一郎 | 12 土肥洋一 | 13 柳沢敦 | 14 三都主アレサンドロ | 15 福西崇史 | 16 大黒将志 | 17 稲本潤一 | 18 小野伸二 | 19 坪井慶介 | 20 玉田圭司 | 21 加地亮 | 22 中澤佑二 | 23 川口能活 | 監督 ジーコ |
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日本代表 - 2002 FIFAワールドカップ | ![]() |
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1 川口能活 | 2 秋田豊 | 3 松田直樹 | 4 森岡隆三 | 5 稲本潤一 | 6 服部年宏 | 7 中田英寿 | 8 森島寛晃 | 9 西澤明訓 | 10 中山雅史 | 11 鈴木隆行 | 12 楢崎正剛 | 13 柳沢敦 | 14 三都主アレサンドロ | 15 福西崇史 | 16 中田浩二 | 17 宮本恒靖 | 18 小野伸二 | 19 小笠原満男 | 20 明神智和 | 21 戸田和幸 | 22 市川大祐 | 23 曽ヶ端準 | 監督 トルシエ |
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日本代表 - 1998 FIFAワールドカップ | ![]() |
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1 小島伸幸 | 2 名良橋晃 | 3 相馬直樹 | 4 井原正巳 | 5 小村徳男 | 6 山口素弘 | 7 伊東輝悦 | 8 中田英寿 | 9 中山雅史 | 10 名波浩 | 11 小野伸二 | 12 呂比須ワグナー | 13 服部年宏 | 14 岡野雅行 | 15 森島寛晃 | 16 斉藤俊秀 | 17 秋田豊 | 18 城彰二 | 19 中西永輔 | 20 川口能活 | 21 楢崎正剛 | 22 平野孝 | 監督 岡田武史 |
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