スバル360
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スバル360 | |
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製造期間 | 1958年 – 1971年 |
ボディタイプ | 2ドア セダン |
エンジン | 強制空冷2サイクル2気筒 自然吸気 356cc |
全長 | 2995mm |
全幅 | 1300mm |
全高 | 1335mm |
車両重量 | 385kg |
後継 | スバル・R-2 |
同クラスの車種 | スズキ・スズライト スズキ・フロンテ 三菱・ミニカ マツダ・R360クーペ マツダ・キャロル ホンダ・N360 |
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スバル360(SUBARU 360)は、富士重工業が開発した軽乗用車である。1958年から1970年までのべ12年間に渡り、約39万2,000台が生産された。
目次 |
[編集] 概要
航空機技術を応用した超軽量構造を採用し、また限られたスペースで必要な居住性を確保するための斬新なアイデアが、数多く導入された。その結果、量産型の軽自動車としては、史上初めて大人4人の乗車を可能とすると共に、当時の水準を超える走行性能を実現した。
比較的廉価で、なおかつ十分な実用性を備えていたことから、1960年代の日本において一般大衆に広く歓迎され、モータリゼーション推進の一翼を担った。ゆえに日本最初の「国民車(大衆車)」と評されると同時に「マイカー」という言葉を誕生・定着させた車であり、日本の自動車史を語る上で欠かす事のできない「名車」である。
コンパクトにまとめられた軽快なデザインから、「てんとう虫」の通称で庶民に広く親しまれた。
[編集] 歴史
[編集] スバル以前
スバル360発売以前の1950年代中期、日本における国産乗用車は複数の大手メーカーから発売されていた。しかしその価格は、小型の1000cc級であっても当時で100万円程度であり、月収が僅かに数千円レベルであったほとんどの庶民にとっては縁のないものであった。
軽自動車の規格自体は1949年から存在したが、もっぱら2輪車や3輪トラックを製造することを念頭に置いた規格であり、これに準拠して4輪の乗用車を製作する大手メーカーはほとんど無かった。
史上初の4輪軽乗用車は、1952年に製作された250cc車「オートサンダル」と見られている。名古屋の零細メーカーである中野自動車工業が、三菱の汎用単気筒エンジンを用いて手作業で製造したもので、リアエンジン2人乗りのフリクション・ドライブ車であった。およそ通常の実用に耐えうる性能ではなく、1954年までに200台ほどを製作し、その後前輪駆動モデルの開発を行ったが量産化せずに生産中止したと言われている(中野自動車については零細企業のためほとんど資料が残されておらず、詳細は不明である)。
その後1957年頃までに、いくつかのメーカーが4輪軽乗用車の開発を行った。「NJ(のち『ニッケイタロー』)」(日本自動車工業 1953~1957)、「テルヤン」(三光製作所 1957)などは、何れも零細企業が技術的裏付けの薄いままに急造した粗末なもので、長続きはしなかった。
元日産自動車社員で、野心的な自動車技術者の富谷龍一は、大手織物メーカー傘下の自動車ボディメーカーである住江製作所で、超軽量4輪軽自動車「フライングフェザー」を開発した(1954~1955)。リアエンジンV形2気筒の350cc・2座席である。4輪独立懸架の採用はともかく、華奢な外観は商品性に乏しく、前輪ブレーキがないなど性能の不十分な面も多かった。数十台が作られ市販されただけで製造中止となった。
富谷は後輪を1輪としたFRP製フル・モノコック車体の125cc2座キャビンスクーター「フジキャビン」を、富士自動車(東京瓦斯電気工業の後身。富士重工の前身・富士自動車工業とは全く無関係なメーカー。のち小松ゼノアに吸収)で開発したが(1956)、こちらもパワー不足・操縦性不安の失敗作で、85台しか作られていない。
比較的まっとうな成績を収めたのは、自動織機メーカーから2輪車業界に進出していた鈴木自動車工業(現・スズキ)で、1955年に前輪駆動の360cc車「スズライト」を開発した。これは実質は、ドイツ・ヴォルグワルト社のミニカー「ロイトLP400」を軽自動車規格に縮小したような設計で、外観も酷似していた。乗用車・ライトバン・ピックアップトラックの3タイプがあり、乗用車タイプは名目上は大人4人が乗車できたが、実際は後部座席は子供が精一杯の広さだった。
だが乗用車・ピックアップの販売は不振で、1957年には後部を折り畳み式1座とした3人乗りのライトバン仕様のみとなった。このライトバン仕様「スズライト」も商業的に大きな成功は収められず、スズキの軽自動車生産が軌道に乗るのは改良型の「スズライト・フロンテ」に移行した1962年以降であった。
[編集] 富士重工業
富士重工業の前身で、旧・中島飛行機を前身とする富士産業株式会社は、群馬県太田市の呑竜工場と、東京都下の三鷹工場において、1946年からスクーター「ラビット」を生産し、実績を上げていた。また、群馬県の伊勢崎工場では1947年から軽量なバスボディの製作で好成績を収め、1949年にはアメリカ製のバスに倣ったモノコック構造(一体構造)のリアエンジンバスを、日本で初めて開発している。何れも、航空機メーカーとしてのエンジン技術や金属モノコック構造設計に関する素地があっての成功であった。
その後、1950年にはGHQ指令による財閥解体で富士産業は計12社に分社され、太田呑竜・三鷹の各工場は富士工業(株)に、また伊勢崎工場は富士自動車工業(株)に改組される。
これら12社のうち、東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車両の5社が協同出資して1953年に「富士重工業」が設立され、のち出資した5社が1955年に富士重工業に吸収合併されるという形で統合された。
[編集] P-1(スバル1500)
1950年、富士自動車工業専務取締役の松林敏夫は、普通乗用車の開発を企画した。伊勢崎でのバスボディ生産は好調だったが、当時の日本のバスボディ市場は過当競争状態でパイが限られ、これに頼り切ることは好ましくないと考えられたからである。石油供給の好転や、朝鮮戦争による特需景気も、新たな事業拡張の好機と考えられた。
1951年1月、富士自動車工業の設計係長であった百瀬晋六(ももせ しんろく、1919年2月20日-1997年1月21日)は、松林から乗用車開発を命じられた。百瀬は長野県塩尻市出身で戦時中に東京帝国大学(現、東京大学)工学部を卒業して中島飛行機に入社、航空エンジン用の排気タービン(ターボチャージャー)開発に取り組んだ経歴もあったが、戦後伊勢崎工場所属となり、専らバスボディの設計に当たっていた。
百瀬はバスボディ設計の傍ら、東京のGHQの図書館に通って海外の自動車に関する最新の資料を収集し、これを研究することで開発の素地を作った。その結果、当時の小型車規格一杯のサイズである1500ccのセダンを製作することになった。メカニズムは極力先進的な内容を志向した。
1952年6月、やはり中島飛行機時代からのベテラン技術者である小口芳門と、東大卒の新人であった室田公三が百瀬の下に配属され、彼らを中心とした小チームで、百瀬を主任設計者として1500cc級の乗用車開発を開始した。自動車開発は初めてであるだけに、関係者は「自動車を理解する」ことから開発を始め、苦心を重ねた。
1954年には試作車P-1(愛称「スバル1500」)が完成、翌年までに20台を試作し、うち、伊勢崎、太田、本庄でタクシー会社向けに6台のみを販売した。この4ドア車は、日本では初めて、世界でも早い時期のフル・モノコック構造の乗用車であった。前輪はウィッシュボーンとコイルによる独立懸架、また固定軸の後輪には低フリクションの3枚板バネを採用し、その性能は極めて優秀であったと言われる。
この車に当初積まれた4気筒の1500cc・48PSエンジン「FG4A型」は、富士精密がフランス製プジョー202のエンジンをベースに開発した製品で、本来はプリンス自動車工業の「プリンス」向けのエンジンで、その開発費もプリンス自動車工業が負担していた。結果、競合するプリンス側からの抗議もあり、富士精密からのエンジン供給は途絶した(富士精密は中島飛行機を前身とし、富士産業が分社した12社の1つだったが、富士重工業設立に参加せず、のちプリンス自動車工業と合併した)。
当時の富士自動車工業は、主に軽飛行機用大型エンジンと、スクーター用や汎用形の小さなエンジンしか作っていなかった。それでもこの事態に対し、大宮富士工業に依頼して4気筒OHV・1500ccエンジン「L-4型」を開発した。20%以上も軽量でありながら、富士精密FG4Aをしのぐ52PSの性能を達成している。
たが、先行メーカーが多数存在する1500cc級市場へ参入するのは勝算が薄いこと、またボディ、エンジンとも量産体制を整えるための投資が過大であることから、1955年12月9日、スバル1500の本格量産計画は正式に見送られた。この決定の影には、メインバンクである日本興業銀行の意向もあった。
ちなみに、「スバル」の愛称は、日本興業銀行から派遣されて富士重工業初代社長となった北謙治の手になるものである。北は銀行家出身ながら、「P-1」計画に対し積極的な推進の意向を持っていた人物である。
P-1の愛称は当初社内募集したが、投じられたのは車の印象に合わない外国名前や、「坂東太郎」などいささか見当外れな名称ばかりで、あきれた北社長は自ら「スバル」と命名した。清少納言の「枕草子」にも取り上げられた六連星「すばる」(プレアデス星団)に、富士重工業とその母体となった中島飛行機系5社のイメージを重ねたものとされる。 この名称はその後カタカナ表記の「スバル」となり、21世紀初頭の現在まで富士重工業のブランドとして用いられている。
[編集] スバル360の開発
スバル1500本格発売断念と同日に、富士重工業は、当時三鷹製作所で生産していた250ccのスクーター用エンジンの生産ラインを流用し、356ccの軽自動車用エンジンを製造することと、これを基にした大人4人乗りの軽自動車の生産を計画した。これは、当時の通商産業省が企画した、「国民車構想」を凌ぐ自動車である。ちなみにこの「国民車構想」は新聞社のスクープによって一般に明らかになったが、通商産業省は正式には発表していない。
- 「国民車構想」では、排気量500cc未満、定員は大人2人、子供2人で、軽自動車の規格内という規定は無かった。
当時の日本製自動車の品質・性能は決して高い水準にはなく、特に軽自動車は、上述のような不完全な製品がほとんどで、およそ乗用車としての実用レベルには達していなかった。しかし富士重工業は、大人4人を乗せ、路線バスの通る道はすべて走れる車というコンセプトの元、大胆な手法をもって軽乗用車の開発に挑んだ。
エンジンの設計は三鷹製作所が、また車体・シャーシの設計は当時バスの生産を行っていた伊勢崎製作所が担当し、スバル1500の設計チームがそのまま新型車の設計チームとなった。三鷹側のチーフは菊地庄治、伊勢崎側のチーフは百瀬晋六で、設計は主に伊勢崎側主導で行われた。
[編集] ボディ構造
日本の自動車業界において、独立したフレームを持たないフル・モノコック構造を実現した先駆的存在である。
当時の自動車用鋼板は、最低でも0.8mmの厚さが必要と見られていたが、これでは軽量化に支障があると判断された。そこで、それまで通常強度部材には用いられていなかった0.6mm厚の鋼板を採用することにした(ただし、フロアパネルについては強度上の問題もあって1.2mm厚とした)。極薄鋼板であっても十分な強度を得るため、車体は全体に「卵形」と表現される曲面で構成された。
屋根については、四辺の枠だけあればモノコック構造の強度は保てる。そこで天井部分は思い切って当時の新素材であったFRP(強化プラスチック)製とし、H断面のゴムで車体に固定する方式とした。これによって軽量化できただけでなく、全体の重心が下がり、また車内に響くエンジン騒音を車外に逃せる効用も生じた(もっとも生産形では、H断面ゴムのみで固定したせいで振動によってプラ屋根が外れる問題が起き、ネジ止めの補強が加えられている)。のちには屋根のふちにラジオ用アンテナ線を仕込むことも試されている。
ガラスは重量がかさむこと、またボディ開口部を小さくする目的もあって、フロントのウインドシールド及び側面窓は比較的面積が狭く取られている。ユニークなのはリアウインドウで、ここには安全規格上、ガラスを用いる必要がないことから、アクリル樹脂で代用することにした。軽量化の効果はあったが、長く使用すると変色が生じたという。
[編集] 車体デザイン
ボディ設計の担当者は室田公三であるが、車体のデザインは、社外の工業デザイナーである佐々木達三が当たった。佐々木は図面を書かず、模型を作るデザイナーだったため、デザインは佐々木の作った1/5倍粘土模型を拡大した等倍粘土模型を修正して石膏型をとるという方式がとられた(もっとも、佐々木の原デザインはやや鈍重なところもあり、等倍模型を製作する過程で、百瀬晋六と富士重工社内デザイナーによる手直しがかなりの部分で行われたという)。
[編集] 走行機器
懸架装置は前後ともトレーリングアームにトーションバーとセンターコイルスプリングを組み合わせた4輪独立懸架で、車体後部に横置きした空冷2ストローク直列2気筒・356ccエンジンで後輪を駆動するリアエンジン・リアドライブ方式を採っている。
省スペースと軽量化のため、トーションバー・スプリング(ねじり棒鋼ばね)と、10インチタイヤを日本で初めて採用した。
4輪車用の10インチタイヤは、日本で製造されておらず、ブリヂストンに新たに開発を依頼した。またトーションバーも、当時の日本に製造業者がなく、ばねメーカーの日本発条に要請して新たに製造を開始してもらった。
スバル360はこのように、それまでの日本車のような、既にある出来合いの部品を組み立てて製造する(町工場的な寄せ集めの)方式ではなく、目的達成のために部品1つ1つを最適化した形で新たに設計するという、レベルの高い手法を用いた。たとえば、ねじもスバル360用に独自に設計されており、純正のねじには、富士重工業のマークの「フ」の刻印がある。
- 現在では、トーションバーは補助的に用い、コイルスプリングで荷重を支えるのが一般的となった。軽自動車の規格も550cc、660ccと大型化してサスペンションを置く余裕ができたため、競合他社は従来形態のサスペンションを採用するようになった。しかし、スバルは以降も、軽自動車を含めた、OEM販売を除くすべてのスバルブランド自動車に4輪独立懸架を採用し、現在も堅持している。
[編集] ネーミング
スバル360という車名は、正式には誰も決定しなかった。デザイナーの佐々木が、以前の試作車の名が「スバル1500」であったと聞き、勝手に車にSUBARU360のロゴをつけたことから、自然と名称が決定した。
なお、この車につけられたスバルのエンブレム(六連星マーク)は、富士重工の社内募集案に佐々木が手を加えたもので、何度かのデザイン変更が行われているが、現在でも富士重工業のマークとして使われている。
[編集] 耐久試験
試作1号車は1957年4月20日に完成。その後、試作車は4台まで増産され、それぞれが過酷な試験走行を繰り返し、完成にこぎつけた。
当時の試験走行は、伊勢崎から高崎までの砂利道の国道を1日16時間600km連続で往復を繰り返す長距離連続走行テスト、そして伊勢崎から赤城山の山頂付近までエンストなしで往復する登坂テストであった。
試作車のエンジンは酷使されてほぼ毎日故障したため、三鷹製作所から伊勢崎に派遣された技術者が徹夜で修理・調整し、翌朝には再び、試験走行が繰り返された。
エンジンの排気ポートには、オイルの燃えカスが(カーボン)恒常的に詰まり、パワーを低下させた。様々な工夫が為されたが根本的解決にならず、最後はオイル添加剤の採用で長期間オーバーホールを要しなくなった。
パンクも頻発した。軽量化のため、補強コードを通常の4プライでなく半分の2プライにしたブリヂストン特製のタイヤであるが、「2プライで4プライ並みの強度を」という富士重工の要望は厳しいもので、ブリヂストン側も実用域に達するまで苦心を重ねたという。
赤城山登山道路の急勾配区間は、当時の普通乗用車でもオーバーヒート覚悟の過酷なコースであり、4名を満載してのスバルの登坂も、幾度となくエンジンの過熱に阻まれた。冷却対策をはじめとするこれらの問題が解決され、最終的に試作車が赤城山の上にノンストップで到着するのは1957年8月末であった。
運輸省の認定試験は1958年2月24日に箱根で行われた。テストドライバーは社員の福島時雄が担当した。負担となる重量を僅かでも減らすため、福島は2月の寒い最中でありながら、つなぎの下に薄い下着だけという非常な軽装で運転したという。その甲斐もあってか、認定試験でも好成績を収めた。運輸省の職員2人が認定試験のためスバル360に乗車しなければならなかったが1人の職員はその小ささの恐怖心から乗車を拒んだため、55kgの重りが乗せられた。
[編集] 発売後
1958年3月3日発表。5月発売。定価42万5000円(その後36万円に引き下げ)。 このようにして設計・生産されたスバル360は、価格のわりにきちんと走り、故障も少なく、4人乗りであったことから、一般家庭向けに急速に普及した。この車の発売により、当時の庶民にとっては高嶺の花だった「マイカー」が、より身近なものになった。販売1号車の顧客が松下幸之助であるというのも有名な逸話である。富士重工業は一般向けに自動車を販売したことがなかったため、東京地区の販売は主に伊藤忠商事が担当した。1958年型の販売台数は385台である。初年度の販売数が若干少ないのは、量産体制が整わず、従って、発売元の伊藤忠商事も思い切った販売活動ができなかったためである。しかし、量産体制が整うと、1961年度型は17000台を突破した。
しかし、1967年に高性能・低価格をうたったホンダ・N360が発売されると、しだいに販売が伸び悩み、1969年発売の後継車スバル・R-2と入れ替わる形で1970年に生産が打ち切られた。
[編集] 輸出仕様
スバル360はごくわずかであるが、左ハンドル仕様も生産され、当時米国領だった沖縄にも輸出された。また米国本土ではラビットスクーターを輸入していた実業家、マルコム・ブリックリン (w:Malcolm Bricklin) らによって販売されたこともあった。 輸出仕様の名前は、スバルマイア。ちなみに、この名前は3代目スバル・レオーネの特別仕様車にも使われた。
[編集] 文献・その他
- 『てんとう虫が走った日 スバル360開発物語』 桂木洋二 グランプリ出版 1987年
- 『先覚者 百瀬晋六 人と業績 -スバル開発物語』 百瀬晋六氏刊行会 太田タイムス社 1999年
- 『スバルは何を作ったか スバル360とスバル1000独創性の系譜』 影山 凪 山海堂
[編集] テレビ番組
[編集] 派生車種
- スバル360コンバーチブル
- スバル360コマーシャル
- スバル360カスタム
- 商用バンモデル
- スバル450
- エンジンを423ccにボアアップし、大型バンパーを装着した。主に輸出向けモデルだったが、日本国内でも販売された。
[編集] 外部リンク
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