ジャック・ブリスコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャック・ブリスコ(Jack Brisco)のリングネームでの活躍で最も知られるフレディ・ブリスコ(Freddie Joe Brisco、1941年9月21日 - )は、アメリカの元プロレスラー。オクラホマ州オクラホマシティ出身。ニックネームは「南部の麒麟児」。身長188cm、体重108kg。弟ジェラルド・ブリスコもプロレスラー。
目次 |
[編集] 経歴
NCAA全米学生選手権で1964年2位、1965年優勝をはじめ、アマチュアレスリング時代の戦績89戦87勝2敗という実績をひっさげてオクラホマのプロモーター、リロイ・マクガークにスカウトされ1965年プロレスデビュー。その後テキサス、オーストラリア、フロリダを転戦。同郷のダニー・ホッジとの連戦で力を付ける。
1967年には日本プロレスに初来日。1971年にはアントニオ猪木のUN王座に挑戦して敗れている。
最初から超大型新人だったこともあってドリー・ファンク・シニアに息子たちの売り出しの道具として利用されるが、次第にスター選手の地位を確立し、1973年7月20日、テキサス州ヒューストンでハーリー・レイスを破り第48代NWA世界ヘビー級王者となる。1974年12月鹿児島県立体育館でジャイアント馬場に敗れて王座転落も1週間後豊橋市体育館にて奪回。1975年12月テリー・ファンクに敗れて王座転落後は一度も返り咲いていない。1976年8月にはジャンボ鶴田と復活したUN王座の決定戦に出場するが敗れている。
1979年には新日本プロレスに登場し、猪木と再び対戦するが敗戦。最後の来日は1981年、全日本への参戦。
以降は主にジェリーとのタッグなどで活動し、第一線からは退いた。NWAジョージア地区の興行株を取得しており、弟ジェリー、オレイ・アンダーソンらと共に株主になっていたが、1984年4月に自らと弟ジェリー、他二人の興行株の持分合計51%をWWF(現WWE)のビンス・マクマホンに売却し、自分たちもWWFに移籍する。いわばNWAの衰退とWWFの全米侵攻を促進したわけで、そのため同業者のプロモーターからの激しい憎悪を買った。WWF(現WWE)移籍後しばらくは番組にも登場したりしていたが、1984年12月を最後に、引退試合を行わないままリングを去っている。本人いわく、以来一度もプロレスが行われるアリーナには出向いていないという。現在はフロリダで自動車修理工場を経営している。一方、弟ジェリーはWWEに残り、現在も重役の責を担っている。
[編集] 得意技
[編集] 獲得タイトル
- NWA世界ヘビー級王座
- フロリダ地区認定南部ヘビー級王座
- フロリダヘビー級王座
- ミズーリ州ヘビー級王座
- フロリダタッグ王座
その他含め13タイトルを合計45回獲得している。
[編集] 補足
- アマチュアレスリングのバックボーンを生かし、スマートなスタイルで人気を得たものの、その分力強さに欠け、また技にオリジナルなものが無かったため、同業者からの評価はあまり高くない。ジャイアント馬場は「逃げるレスリングをしていた」と評していて、ブリスコからならNWAベルトを取れると目論んでいたらしい(事実そうなった)。
- 生涯のライバルはドリー・ファンク・ジュニア。新人時代に噛ませ犬にされたことから始まり、キャリアを積んだ後もNWA王座を巡って何度も対戦している。
- レイス・モデルのNWAヘビー級ベルトを赤のベルベットから黒革に作り変えたのはブリスコである。また同ベルトを最初に使用したのもレイスではなくブリスコである。
- ネイティブアメリカンの血を受け継いでいる。
- NWA王者時代の超ハード・スケジュールから、「飛行機のシートが私のベッドだ。」という言葉を残した。