トーマス・エドワード・ロレンス
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トーマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence、1888年8月16日 - 1935年5月19日)は、アラビアのロレンスとして知られているイギリスの軍人・考古学者。オスマン帝国(トルコ)に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援し、その成功に貢献した。
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[編集] 生涯
1888年、ウェールズのトレマドックに生まれる。父はトーマス・ロバート・タイ・チャップマン(ロレンス)、母はセアラ・ロレンス。ロレンスは母方の姓で、1927年にはショーに改姓した。
1907年にはオックスフォード大学ジーザス・コレッジへ進学する。オックスフォード在学中から中近東を訪れて、1906年7月にはレバノンを旅して十字軍遺跡などを調査している。また、在学時代の恩師にもあたるデイビット・ホガース博士と1911年の卒業後にも大英博物館の調査隊に参加してトルコへ渡っており、若い頃からアラブ人と接触し、アラビア語も習得していた。1913年には帰国するが、シナイ半島の測量のため再びエジプト・トルコへ渡る。この時期のロレンスの活動には不明点が多く、測量以外の情報収集にも従事していることから、英国特務機関のメンバーであったとも考えられている。同年6月に帰国。
翌1914年7月に第一次世界大戦が勃発し、イギリスも参戦する。10月に召集されイギリス陸軍省作戦部地図課に勤務することになる。臨時陸軍中尉に任官され、同年12月にはカイロの陸軍情報部に転属となり、軍用地図の作成に従事する一方で、語学を活かした連絡係なども務める。1916年10月には、新設された外務省管轄下のアラブ局(局長はホガース)に転属され、同年3月には大尉に昇進。この間の休暇にアラビア半島へ旅行しているが、これはオスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者を選定する非公式任務であったと言われる。
メソポタミアのクトで籠城中の英軍を救援するため、オスマン帝国軍の買収工作に参加し、10月にはハーシム家当主、フサイン・イブン・アリーの3男ファイサル・イブン・フサインと会見。この年から1918年までは情報将校としてアラブの反乱を支援し、ヒジャーズ鉄道の破壊などを行う。1921年1月には植民省中東局・アラブ問題の顧問としてウィンストン・チャーチル(後の首相)から招聘されるが、1922年には偽名「ジョン・ヒューム・ロス」で空軍に二等兵として入隊し、1923年1月には除隊。同年2月には偽名「T・E・ショー」で陸軍戦車隊に入隊する。
1925年には空軍に復帰する。そして、1935年5月13日、オートバイを運転中の交通事故で意識不明となり、5月19日に死去、46歳。
墓所はドーセット州モートンの教会。
一般には映画『アラビアのロレンス』で描かれているような「アラブ独立に尽力した人物(アラブ人にとっての英雄)」として認識されているが、中東における行動は一貫してイギリスの国益のためのものだった(アラブ側を利用していた)、とする指摘もある。
[編集] 著書
- 智恵の七柱(1926)
[編集] 彼を扱った作品
- 『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia) 映画(1962年)
- 『ロレンス1918』(A Dangerous Man: Lawrence After Arabia) イギリスのテレビドラマ(1990年)
- 『T・E・ロレンス』 神坂智子による漫画(1985年~1988年)