ヒジャーズ鉄道
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オスマン帝国によって建設されたヒジャーズ鉄道(ひじゃーずてつどう、Hejaz railway)は、シリアのダマスカスから現在のサウジアラビアの聖地マディーナ(メディナ)までの区間を、シリア、ヨルダン、およびアラビア半島西部のヒジャーズ地方を縦断して連絡した鉄道である。総延長は1,308km、軌間は1,050mmで、オスマン帝国の鉄道網の一部をなしており、当初の計画では聖地マッカ(メッカ)を終着駅にしていた。
その敷設目的は、ムスリムたちの聖地であるマッカやマディーナへ向かうハッジ(大巡礼)の巡礼者たちの交通のためだとされたが、真の目的は、オスマン帝国の宗教に対する支配やヒジャーズ地方に対する軍事支配を強め、またダマスカスとヒジャーズ地方との交易を強化しようとしたことであるとも考えられる。
鉄道は1900年に建設開始され、1908年に完成し多くの巡礼や兵士を南へ運んだが、第一次世界大戦時にイギリスの支援を受けたアラブ勢力に破壊され、路線のほとんどは以後再建されることはなかった。
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[編集] 建設
ヒジャーズ鉄道は1900年、オスマン帝国の第34代スルタン、アブデュルハミト2世の命令で建設が開始され、出資はゲオルク・ジーメンスの率いるドイツ銀行が行い、主にトルコ人がドイツ人の指導や支援を受けながら敷設作業を進めていった。同時期に建設が進められていた鉄道にはベルリンからバグダードまでの鉄道もあり(3B政策)、ドイツ帝国の中東への進出の意思がうかがわれる。
この鉄道は、完成時に負債がゼロだった点と、海面下の陸地(ヨルダン川周辺、死海沿岸)を走る部分が長かった点の二つが特筆される。建設当初に宣言された終着地点であるマッカまでの全路線は結局完成しなかった。マディーナ以南へは到達せず、マッカまではあと400kmを残していた。ダマスカスからマディーナまでは約1,300kmあり、途中ヨルダン川沿いの谷を進みアンマンを経由し、ヨルダン南部からヒジャーズでは内陸部をまっすぐマディーナまで進んでいた。また本線のほか、途中のデラ(現在シリア領)から地中海岸の港湾都市ハイファ、アッコン(両者とも現在はイスラエル領)まで出る支線、およびヨルダン南部のマアーンから紅海のアカバ湾にあるアカバの港へ出る支線があった。全区間には1,532ヶ所の橋、2個のトンネル、96ヶ所のレンガ造りの駅が建設された。またこの建設過程で大量の枕木が必要とされ、レバノン地方から多くのレバノン杉が伐採されたが、これがわずかに残っていたレバノン杉の森に止めを刺す結果となった。
[編集] 開通
鉄道はスルタンの即位記念日である1908年9月1日、マディーナまで開通した。この日になんとしても間に合わせるため、いくつかの区間ではワジ(涸れ川)を渡る路線が仮の土手の上を通されるなどの妥協があった。1913年にはダマスカス市街中心部に、新駅ヒジャーズ駅が竣工し、始発駅がようやく完成した。ダマスカスではスエズ運河開通以来ベイルート経由の船便に奪われたハッジの巡礼者や、アラビア地域の商取引・貨物運送をダマスカスに取り返す期待が高まった。
最初は、鉄道は地元のアラブ人やベドウィン各部族の襲撃対象となった。しかし列車も装甲をしたり兵士を乗せたりと武装していたため破壊には成功しなかったものの、オスマン帝国も鉄道沿線の両側1マイル以内を支配することがやっとであった。また地元民が枕木を引き抜いて燃料や薪に使うことがあったため、いくつかの区間では鉄の枕木が用意された。
[編集] 破壊
ヒジャーズ鉄道は第一次世界大戦中、オスマン帝国軍の重要な兵站・物資供給ルートとみなされ、アラブの反乱で立ち上がったアラブ人との戦いで何度も破壊された。特にトーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)に率いられたゲリラ部隊が鉄道を襲い破壊し続けた。オスマン帝国の崩壊・分割にともない、ヒジャーズ鉄道は沿線の政府がおのおの運営することとなった。特に、ヨルダン・サウジアラビアの国境より南は誰も運営する意思がなく、サウジ領ヒジャーズにおける路線は再開することなく廃線となった。またハイファへの支線もイスラエル建国の際の戦争で破壊され廃線となっている。
1960年代半ば、ヒジャーズ鉄道の再開が企図されたが、1967年の第三次中東戦争(6日間戦争)で話は流れてしまった。
[編集] 残存部
ヒジャーズ鉄道では、かつての線路のうち二区画が、レールは繋がっているが運行主体がばらばらの状態で運行されている。
各鉄道の従業員たちは、建設当初に製造されたドイツ製蒸気機関車を改修している。このうちシリアには9両の、ヨルダンには7両の蒸気機関車があり、それぞれダマスカス-アンマン間やアンマン-アカバへの団体観光客などのために利用されている。ヨルダンのアブドゥッラー2世就任以来、ヨルダンとシリアの関係は改善し、両国を結ぶ鉄道に対する興味がよみがえりつつある。ダマスカス側の始発駅はもはやヒジャーズ駅ではないが、郊外のカダム駅から列車は出発している。2004年、ヒジャーズ駅駅舎は閉鎖され、一方で再開発計画も中止されている。
サウジアラビア側では、もはや運行していない路線敷、廃駅、鉄道車両の残骸などがいまだにそのままになっており、観光の対象となっている。ロレンスが破壊した列車は、今でも転落地点に転がっているのが見える。
2005年、サウジは3,000kmの鉄道を建設するランドブリッジ・プロジェクトを発表した。サウジ各地の鉱山、街、港を結び、隣接国の鉄道への接続も必要とされている。現在の計画では国境を越えて隣接国へ向かう新線は設定されていないが、いくつかの計画路線は国境近くに達する予定であり、その先は需要の多そうな各国都市に向けられている。これがヒジャーズ鉄道のサウジ部分の再建にもつながるのではないかという見方もある。
[編集] 参考文献
- Hedjaz Railway, R. Tourret, Tourret Publishing, 1989, ISBN 0-905878-05-1.
[編集] 外部リンク
- BBC: 『ある鉄道の歴史』
- BBC: 『巡礼鉄道、再開へ向けて』
- Extensive Hejaz Railway site at Nabataea.net
- ヒジャーズ鉄道写真集
- 衛星画像でヒジャズ鉄道の支線を見る(日本語)
- ヒジャーズ鉄道 探訪記(日本語)
- アル・ウラに残る鉄道の残骸(日本語)
- 中東和平とヒジャーズ鉄道再開計画の噂と(日本語)