ノロドム・シハヌーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ノロドム・シハヌーク (Preah Bat Samdech Preah Norodom Sihanouk Varman, 1922年10月31日 - )は20世紀のカンボジアの国王、政治家。シアヌークとつづられることもあるが、これは"h"の音を発音しないフランス語式の読み方である。ちなみに原音に一番近い読み方はノロードム・シーハヌである。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 即位
カンボジア王族ノロドム・スラマリットとシソワット・コサマック妃の息子としてプノンペンで生まれ、ベトナム・サイゴン(現ホーチミン市)に留学中の1941年、祖父のシソワット・モニヴォン国王(コサマック妃の父)の崩御に伴い、請われて帰国し、18歳で即位した。
カンボジアの王家はノロドム王(在位1840-1904年)を祖とするノロドム家とシソワット王(在位1904-1927、ノロドム王の弟)を祖とするシソワット家に分かれ、王位継承に当たって両家の間で争われたが、当時カンボジアの最高実力者であったフランス総督ドゥクーの裁定により、シハヌークの即位が決定した。この背景には、シハヌークがノロドム、シソワット両家の血筋をひいている(シハヌークは両国王の曾孫にあたる)ことと、まだ若年のため宗主国フランスの意向に沿うだろうという思惑があったためと見られている。
[編集] 独立宣言
1945年3月に、1941年12月の太平洋戦争勃発以降インドシナ半島にを占拠していた日本軍によってフランス植民地政府が解体させられると、国王シハヌークは3月22日、隣国ベトナム(バオ・ダイ帝)、ラオス(シーサワーンウォン国王)とともにカンボジアの独立を宣言した。
しかし、この独立はあくまでも日本軍の監視下で行われたものであり、シハヌークを初めとする政府要人は日本軍の監視下におかれてその権限は制限されたため、国民の支持を得られるものではなかった。結局、1945年8月15日の日本の敗戦後、10月にプノンペンはフランスによって再び制圧され、独立は無効とされた。しかし、それでもシハヌーク国王は諦めることなく、アメリカを始めとする諸外国を歴訪してカンボジアの現状と独立を国際世論に訴える戦法に出た。その結果、1949年にフランス連合内での独立が認められたが、警察権・軍事権は依然としてフランスの手に握られていた。
これに満足しないシハヌークは離宮に籠もり、「完全に独立が達成されるまで首都・プノンペンには戻らない」と宣言、国内でも都市部を中心に独立を求める反仏デモが大きく盛り上がった。国王の強硬な姿勢に驚いたフランスは遂にカンボジアの完全独立を認め、1953年11月9日、新生「カンボジア王国」が発足したのである。歓呼の声の中、プノンペンの王宮に凱旋したシハヌーク国王は以後、「独立の父」として国民の尊敬を集めることとなった。
[編集] 退位・政治家へ
独立運動を通じて自信を強めたシハヌーク国王は1955年3月3日に退位し、後継国王には父のノロドム・スラマリットが即位した。退位後のシハヌークは「殿下」の称号で呼ばれた。立憲君主国であるがゆえに権限に法的制限のある王位を離れたことで、活動範囲に制約のなくなったシハヌークは同年4月7日、政治団体「社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム)」を結成し、その総裁として更に政治へ取り組みを表明した。
サンクムは同年の総選挙で圧勝して国会の全議席を制し、いわば「シアヌーク翼賛体制」ともいえる政治環境の中でシハヌークは首相兼外務大臣に就任した。また、1960年3月にスラマリット国王が死去した後は王位を空位とし、シハヌークは新設の「国家元首」に就任して政治指導にあたった。
シハヌークの政策は「王制社会主義」と称されたもので、仏教の保護と王制による指導のもと、社会主義的な政策を打ち出していった。また、外交面では厳正な中立政策を守り、冷戦の続く中、東西両陣営から援助を引き出すことに成功するなど、隣国ベトナムやラオスが戦火に巻き込まれる中、国内は平和を維持していたが、政界では左派・右派の対立が絶えず、シハヌークが必要に応じて左派の重用と弾圧を繰り返したため、ポル・ポトやイエン・サリ、キュー・サムファンといった左派の指導者はジャングルに逃れ、武力闘争に走ることとなった。
[編集] 国外追放
ベトナム戦争中の1970年3月、首相兼国防相ロン・ノル将軍と副首相シソワット・シリク・マタク殿下(シハヌークの従兄弟)などが率いる反乱軍がクーデターを決行、議会は外遊中のシハヌーク国家元首の解任、王制廃止と共和制施行を議決し、国名は「クメール共和国」と改められ、ロン・ノルが大統領に就任した。
これはアメリカが、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にある「容共主義者」であるとして嫌っていたシハヌークを追放するために親米派のロン・ノルを支援して起こさせたものと言われている。このクーデター後には、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるクメール共和国軍と、ポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まった。
[編集] ポル・ポトへの協力
追放されたシハヌークは北京に留まり、そこで亡命政権「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、ロン・ノル政権打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国の毛沢東や周恩来、かねてより懇意だった朝鮮民主主義人民共和国の金日成らの説得により彼らと手を結ぶことになり、1975年には平壌から帰国し、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。
シハヌークは名目上、クメール・ルージュのトップではあったが、王制を始めとする封建体制の徹底破壊を目指すポル・ポトとその一派にとって、シハヌークは彼らの信念とは相容れない存在であり、両者の関係には最初から緊張をはらんでいたといえる。
1975年、クメール・ルージュは遂にカンボジア全土を制圧し、ロン・ノル政権は崩壊、ポル・ポト派はシハヌークを国家元首とする共産主義国家「民主カンプチア」の成立を宣言した。表向きは元の地位に返り咲いたかに見えたシハヌークだったが、実態は何ら権限を与えられず、クメール・ルージュがお膳立てした地方視察(そこでシハヌークは変わり果てた祖国の姿を目の当たりにする)以外はプノンペンの王宮に幽閉同然の身となった。同居を許されたのは第6夫人のモニク妃と2人の間に生まれた2人の王子(シハモニ、ナリンドラポン)及び僅かな側近、従者だけであった。他の家族のうち、国内に残っていた者は地方に追放され、その結果、5人の子供と14人の孫が虐殺された。当初は、シハヌーク自身も殺されそうになったものの中国政府が政治的理由からポル・ポトらに圧力をかけたために殺されずに済んだ。しかし、王宮内でもポル・ポト信奉者と化したナリンドラポンが両親を非難し続け、シハヌークは「いつ殺されるか」という強迫感も相まって、精神的に追い詰められていった。
シハヌークは病気療養を理由に海外出国を望んだがクメール・ルージュに拒絶された。それでも彼は懇請を続けた結果、1976年4月に国家元首の辞任が認められ(後任の国家元首〔国家大幹部会議長〕はキュー・サムファン)、以後王宮内に幽閉されたシハヌークは国際社会には消息が伝えられなくなった。
1979年、カンボジアに侵攻したベトナム軍がプノンペンに迫ると、ポル・ポト首相はシハヌークを呼び出し、国連安全保障理事会においてベトナム軍の不当性を訴えるよう要請した。シハヌークはようやく、家族や側近と共にカンボジアを出国したのである。(イエン・サリ、キュー・サムファンはシハヌーク単独での出国を主張したが、ポル・ポト自身が家族同行を許可したという)
[編集] 3派連合指導者として
[編集] 王制復活
1992年3月、国際連合による国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC 明石康事務総長)が平和維持活動を始め、1993年4月から6月まで国連の監視下で総選挙が行なわれ、9月に制憲議会が新憲法を発布した。新憲法では立憲君主制を採択し、ノドロム・シハヌークが国王に再即位した。1994年にクーデター未遂事件が発生したが、これを最後に国内はおおむね平定された。1998年4月には辺境のポル・ポト派支配地域でポル・ポトが死んだことが明らかとなり、この地も平定された。
[編集] 退位
2004年10月29日にカンボジア国王を退位し、カンボジア国会下院議長である長男のラナリット王子(母は第1夫人パット・カニョル妃)の異母弟のシハモニ王子(母は第6夫人モニニエット王妃)が国王となった。
[編集] 評価
カンボジアの混乱した歴史全体にわたって、彼は非常に多くの地位を占めたので、ギネスブックは彼を世界の政権で最も多くの経歴を持つ政治家であると認定している。これらは王としての二種類の用語、一種類の大統領、二種類の首相、カンボジアの職名のない国家元首、多数の地位と同様に様々な追放された政府のリーダーを含む。
[編集] 関連項目
|
|
|
|