ペトロパブロフスク・カムチャツキー
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ペトロパブロフスク・カムチャツキー(ペトロパーヴロフスク・カムチャーツキイ;Петропавловск-Камчатскийピトロパーヴロフスク・カムチャーツキイ;ラテン文字転写の例:Petropavlovsk-Kamchatsky)はロシア連邦極東部の都市である。
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[編集] 地理
カムチャツカ半島南東部にあり、太平洋に面している。アバチャ湾の奥にあり、天然の良港とされている。ただし、ロシアの他の都市と連絡する陸路はなく、生活物資の輸送や産業活動の展開は海路と空路に完全に依存している。
首都モスクワからの距離は約1万2千km、時差は+9時間。北海道からの距離は約1500km。日本との時差は+3時間で、夏時間採用時は+4時間。
[編集] 気候・地震
シベリアの大陸性気候と東アジアのモンスーンの双方の影響を受ける。夏の日中の平均最高気温が15度、冬の夜の平均最低気温が-20度と、夏は涼しく、冬はかなり寒い。一日の中での気温差は大きいが、周辺地域の内陸部と比較すると冬の寒さは比較的和らぐ。また、一年を通じて降水が観測される。
カムチャツカ半島は環太平洋造山帯の一部であり、巨大地震の頻発地域でもある。これを考慮し、ペトロパブロフスク・カムチャツキーではビルの高度制限が課せられているが、アバチャ湾のために津波の影響は少ないとされている。
[編集] 人口
市の人口は19万8千人(2002年の国勢調査)。ソビエト時代末期には27万人を超えたと言われているが、最近では再び人口増加に転じている。カムチャツカ州全体の人口のほぼ半分を占めている。
[編集] 行政
カムチャツカ州の州都として、カムチャツカ半島全体の行政の中心となっている。なお、半島の中北部はコリャーク自治管区として事実上自立している。
[編集] 産業
発見当初から天然の良港としての評価を受け、現在でもロシア海軍の太平洋艦隊の重要な軍港となっている。また、周辺海域の豊富な漁業資源を背景とした水産業も盛んで、特にサケやカニの水揚げ量が多い。カムチャツカ半島には未開発の天然資源が多く、その開発拠点としても期待されている。
最近では、世界遺産に登録されたカムチャツカ半島の火山群や、市周辺の自然や動植物を観光するための拠点となり、特にアラスカから来るアメリカの観光客が多く訪れている。
[編集] 交通
[編集] 歴史
カムチャツカ半島全体の歴史については、該当項目を参照のこと。
1697年にカムチャツカ半島の支配を宣言したロシア帝国は、デンマーク人海軍士官ヴィトゥス・ベーリングにシベリア最東部や北太平洋の調査を命じた。1740年、彼の第2次北東探検隊はカムチャツカ半島の太平洋岸を調査し、アバチャ湾を発見した。その時の2隻の探査船、「聖使徒ペトロ」号(スヴャトーイ・アポーストル・ピョートル;«Святой апостол Пётр»)と「聖使徒パウロ」号(スヴャトーイ・アポーストル・パーヴェル;«Святой апостол Павел»)にちなみ、その奥に「ペトロバブロフスク」という地名を付けた。
その後、カムチャツカ半島からチュコート半島、さらにアリューシャン列島からアラスカへと拡大し、さらに千島列島の南下をうかがうロシア帝国の極東部の軍事・行政中心地として、また毛皮の捕獲基地として、天然の良港であるペトロパブロフスク・カムチャツキーは繁栄した。1854年にはクリミア戦争によりイギリス・フランス連合軍の攻撃を受けたが、都市の防衛に成功した。
1858年のアイグン条約と1860年の北京条約により、ロシアが清からアムール川北岸や沿海州を獲得すると、極東経営の中心はウラジオストクに移り、1867年のアラスカ・アリューシャン列島のアメリカへの売却、乱獲による毛皮交易の衰退などにより、ペトロパブロフスク・カムチャツキーの重要性は低下した。しかし、カムチャツカ半島では群を抜く規模の都市として、その後も存在し続けた。
ロシア革命を経てソビエト連邦が成立すると、ペトロパブロフスク・カムチャツキーはソ連海軍太平洋艦隊が太平洋に出撃するための重要な軍港として、また太平洋やオホーツク海における北洋漁業の基地として栄えた。1945年にソビエトが第二次世界大戦で勝利し、周辺海域での日本の漁業権が消滅すると、外国人の立ち入りが禁止される閉鎖都市になった。冷戦時代には、アメリカや日本の沿岸で活動する潜水艦の基地となった。
しかし、1990年に開放が始まると、アメリカや日本などからの商用客や観光客が訪れるようになり、新たな産業の発展が期待されている。
[編集] 日本との関係
町の歴史で述べたように、18世紀の半ばから19世紀の半ばまでペトロパブロフスク・カムチャツキーはロシア極東部の中心であった。そのため、日本の江戸幕府との関係も比較的深かった。一例としては、1812年に交易商人高田屋嘉兵衛が捕らえられ、翌年までこの地で幽閉された事が挙げられる。
また、1787年にはフランスのジャン・フランソワ・ド・ラ・ペルーズの探検隊が寄港し、ここで下船させたレセップスに日本列島やサハリンの近海調査の結果をパリまで報告させた。その後、ラ・ペルーズ探検隊は遭難し全員が死亡したので、この町からヨーロッパにもたらされた地理的知識は非常に大きな価値を持った。
1905年に日露戦争が終結し、ポーツマス条約で日本が北洋漁業の操業権を獲得すると、日魯漁業の漁業基地が設置され、多くの日本人漁業労働者が現地の水産工場で勤務した。
第二次世界大戦後には日本との交流は途絶え、ソビエトの対日軍事拠点として機能したが、開放政策の開始で再び日本人がこの町を訪れるようになった。1998年には北海道釧路市との港湾友好都市(姉妹都市)協定が締結され、釧路空港などの日本国内のいくつかの空港からチャーター直行便が毎年夏に数便飛ぶようになっている。