ペトロ
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ペトロ(シモン・ペトロ、ペテロ、ケファともいわれる。生年不明-67年?)は新約聖書に登場する人物、イエス・キリストに従った使徒たちのリーダー。カトリック教会はじめ多くのキリスト教派において聖人であり、その記念日(聖名祝日)は6月29日である。
本名はシモン(שמעון)であるが、イエスにより「ケファ」(アラム語で岩という意味)というあだ名で呼ばれるようになった。後に同じ言葉のギリシア語訳である「ペトロス」(主格。格変化語尾を除いて名詞幹のみにした慣用日本語訳表記で「ペトロ」となる。)という呼び名で知られるようになる。パウロも書簡の中で、ペトロのことをケファと呼んでいる。この名はイエスが「私はこの岩の上に私の教会を建てる。」(マタイ16:17-19)と言ったことに由来している。この一節は全ての共観福音書に見られるが、ただマタイのみが「天の国の鍵」をペテロが受けるだろうとしている。
また、「ペトロ」は聖ペトロにちなむヨーロッパ諸言語の一般的な男性名としても用いられ、現代言語では英語のピーター、仏語のピエール、独語のペーター、スペイン語のペドロ、露語のピョートル、イタリア語のピエトロなどのように発音される。
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[編集] 生涯
マタイによる福音書、マルコによる福音書によればペトロはガリラヤ湖で弟アンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。
ルカによる福音書ではイエスとの出会いはゲネサレト湖の対岸にいる群衆への説教に向かうイエスが彼の船を使った時とされる。伝承ではペトロはイエスと出会った時には既に比較的高齢であったという。共観福音書はいずれもペトロの姑がカファルナウムの自宅でイエスに癒される姿を記している。ここからペトロが結婚していたことが分かる。幾つかの伝承ではペトロに娘がいたとも伝えている。
ペトロは弟子のリストでも常に先頭にあげられており(マタイ10:2ほか)、イエスの問いかけに弟子を代表して答えていること(マタイ16:16)などから、イエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったことがうかがわれる。また、イエスの変容(姿が変わって神性を示した出来事)をペトロはヤコブとヨハネの選ばれた三人だけで目撃している。
イエスの受難においてペトロが逃走し、イエスを否認したことはすべての福音書に書かれている。また『ヨハネによる福音書』によれば、イエスの復活時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている。(ヨハネ20:1-10)
『使徒言行録』ではペトロはエルサレムにおいて弟子たちのリーダーとして説教し、イエスの名によって奇跡的治癒を行っている。やがてヤコブ (イエスの兄弟)がエルサレム教団のリーダーとして活躍しはじめると、ペトロはエルサレムを離れ、各地を巡回するようになる。カイサリアではコルネリウスというローマ帝国の百人隊長に教えを説いている。「コリントの信徒への手紙一」によれば、ペトロは妻を連れて各地の教会をめぐっていたようである。(一コリント9:4)
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聖書にそれ以上の記述はなく、史実的にも実証できないが、外典である「ペトロ行伝」にも見られる伝承ではローマへ宣教し、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされている。伝承では67年とされる。また同じ伝承によると、ペトロが迫害の激化したローマから避難しようとアッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくる。彼が「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「もう一度十字架にかけられるためにローマへ。」と答えた。彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。このときのペトロのセリフのラテン語訳「Quo vadis?(クオ・ヴァディス)」(「どこへ行くのですか」の意)はよく知られるものとなり、1896年にはポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチがローマにおけるキリスト教迫害を描いた同名小説を記し、ハリウッドでも同名タイトルで映画化されている。
[編集] ペトロとキリスト教
カトリックではペトロを初代のローマ教皇とみなす。これは「天の国の鍵」をイエスから受け取ったペトロが権威を与えられ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなすからである。一方東方正教会などではペトロが初代アンティオキア主教であり、のちにローマにいきその初代主教となったとするが、全世界の教会に対する権威をペトロがもっていたとは認めていない。さらに司教ないし主教という役職は、キリスト教が発展するなかで生じたものであり、ペトロの時代にはまだそのような意識はなかったはずだとする意見もある。
一方、カトリックから分離した経緯をもつプロテスタント諸教会では、ペトロの権威は継承されるものでなく、彼一代限りのものであるという解釈を示している。また多くのプロテスタント教会ではペトロを「聖ペトロ」と呼ぶことはしない。
新約聖書の公同書簡に属する「ペトロの手紙一」と「ペトロの手紙二」はペトロの書簡であるが、現在では彼自身のものではないという説もある。アラマイ語を母語とする漁師出身のペトロが、書簡に現れる一定の水準をもったギリシア語をつづる能力があったと考えることは困難であるとの理由である。しかし、その論理を採用するなら、ヨハネの福音書や手紙、黙示録、また、マタイの福音書の著者も誰なのか確定できなくなる。本文中に著者がペテロであることが明白に書き記されており、にもかかわらずペテロ以外の第三者の著作であるとするなら、キリスト教の教義そのものが成り立たないことが明白であろう。第三者の著作であるとの見解を持つ神学者の中には、第1書簡については、ギリシア語を話すペトロの同伴者のもので、比較的よくペトロの思想を反映している可能性を指摘する者もいる。第2書簡は、2世紀以後の著作である可能性が指摘される。第2書簡が正典視されたのは4世紀半ば以後であり、シリア教会では6世紀まで第2書簡を正典には数えなかった。
また新約外典のなかにも、「ペトロの黙示録」などペトロの名を冠した文書があるが、これらは初代教会の時代からペトロのものとは考えられておらず、正典におさめられることがなかった。
[編集] ペトロとサン・ピエトロ大聖堂
かつてローマの郊外であったヴァチカンの丘のペトロの墓と伝えられる場所に後世になって建てられたのがサン・ピエトロ大聖堂(聖ペトロの大聖堂)である。サン・ピエトロ大聖堂の主祭壇下にはペトロの墓所があるという伝承が伝えられていたが、実際はどうだったのかは長きにわたって謎とされていた。しかし1939年以降、ピウス12世は考古学者のチームにクリプタ(地下墓所)の学術的調査を依頼した。すると紀元2世紀につくられたとされるトロパイオン(ギリシャ式記念碑)が発見され、その周囲に墓参におとずれた人々のものと思われる落書きやペトロへの願い事が書かれているのが見つかった。さらにそのトロパイオンの中央部から丁寧に埋葬された男性の遺骨が発掘された。この人物は1世紀の人物で、年齢は60歳代、堂々たる体格をしていたと思われ、古代において王の色とされていた紫の布で包まれていた。1949年8月22日の「ニューヨーク・タイムス」はこれこそペトロの遺骨であると報じて世界を驚かせた。
[編集] 関連項目
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