ボブ・ディラン
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ボブ・ディラン(Bob Dylan, 1941年5月24日 - )は、アメリカの歌手・詩人・作曲家。本来の本名は、ロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)だったが、のちに本名もボブ・ディランに改名している。「ボブ・ディラン」の名前は、詩人のディラン・トーマスから取ったとも、また叔父の名前であるディロンから取ったとも述べている。
アメリカを代表するアーティストの一人として、デビュー以来多大な影響を同時代の人々に与えてきた。詩人としてはノーベル文学賞にノミネートされるほどであり、20世紀半ば以降の文化において極めて重要な位置を占めているといえる。ただし、ディラン本人も言っているようにミュージシャンというよりも、アーティストという言葉のほうが的確だと言われている。
英セント・アンドリューズ大学や、米プリンストン大学は、彼に名誉博士号を与えている。「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツやメルヴィルを読んだり、ウッディ・ガスリー、ロバート・ジョンソンを聴くべき。」と後進のアーティストに提言するなどの啓蒙によってもアメリカ文化を体現している。
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[編集] 経歴
[編集] 誕生~デビュー
ミネソタ州ダルースに生まれる。祖父母はリトアニアやロシア、ウクライナからの移民である。父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティ)は、ダルースの小規模だが絆の固いユダヤ人社会の一員だった。
幼少時より家にあったピアノを独学で習得。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ディランもまたエルヴィス・プレスリーにあこがれた少年としてロックバンドを組み、音楽活動を始める。また、ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしている。
また、ランボー、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴的な作風の詩人にも、表現技巧など創作上の影響を受ける。
大学を中退してニューヨークに出てきた彼はフォーク歌手ウッディ・ガスリーと出会い、その影響によりアメリカ土着のブルース、ヒルビリー音楽への傾倒を深める。ガスライトなどのコーヒー・ハウス等でアコースティックギターの弾き語りをしていたが、やがてジョン・ハモンドにその才能を見出され、キャロリン・ヘスターのレコーディング参加やタイムズ紙での好意的な論評をきっかけに、1962年にアルバム『ボブ・ディラン(Bob Dylan)』でレコード・デビューする。しかし、売上は5000枚にとどまり、コロンビアの期待していた3分の1というセールスであった。
[編集] 1960年代
当初はトラッド・フォークやブルースを中心に歌っており、自作曲は少なかった。やがて、プロテスト・ソングやトピカル・ソングなどメッセージ色の強い曲を作るようになり、「風に吹かれて(Blowin' In The Wind)」、「時代は変わる(The Times They Are A-Changin')」などの作品を発表した。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいて、ディランは「フォークの貴公子」として大きな支持を受け、時代の代弁者としてみなされるようになった。
- その頃、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱(Mixed-Up Confusion)」を発表しているが、あまりにイメージが違い過ぎたために早々に回収された。このシングルは1967年にベネルックス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)で公式リリースされているが、このバージョンではCD復刻されていない(『バイオグラフ(Biograph)』に別バージョンが収録)。(c/wの「コリーナ、コリーナ(Corrina, Corrina)」もアルバム未収録の別バージョン)
- 『Bob Dylan In Concert』も発売見送りとなった(2005年に数曲が新譜の特典として配布された)。
- 2枚目のアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン(The Freewheelin' Bob Dylan)』も数曲が差し替えられた。アウトテイクのいくつかは『ブートレッグ・シリーズ1~3集(The Bootleg Series Volume 1-3)』に収録されたが「Rocks And Gravel」は日の目を見ていない。
- フォークウェイズ・レーベルから"Blind Boy Grunt"なる変名で「Only A Hobo - Talkin' Devil」、「John Brown」を発表している。
- ニューポート・ブロードサイドでは「Ye Playboys And Ye Playgirls」が発表された。日本では中川五郎がカバー。
- なおシングルでは「ライク・ア・ローリング・ストーン(Like A Rolling Stone)〈Single Edit.〉」がキャッシュボックス誌でNo.1を獲得し(ビルボードは2位)、「雨の日の女(Rainy Day Woman #12&35)〈Single Edit.〉」がビルボード、キャッシュボックス誌で共に最高2位となった(これはドラッグソングのNo.1を避けるための意図的な順位操作と言われている。他の例としてはドノヴァンの「メロー・イエロー(Mellow Yellow)」、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンの「ファイアー(Fire)」、ナポレオン14世の「狂ったナポレオン、ヒヒ、ハハ・・・(They're Coming To Take Me Away, Ha-Haaa!)」などがいずれも2位止まり)。「寂しき4番街(Positivery 4th Street)」が7位、"アイ・ウォント・ユー(I Want You)」が20位を獲得した。
カバーでは、ザ・バーズによる「ミスター・タンブリンマン(Mr.Tambourine Man)」がビルボード で1位となる。ピーター、ポール&マリーによる「風に吹かれて」は2位、マンフレッド・マンによる「マイティ・クイン(Quinn the Eskimo (The Mighty Quinn))」が10位を獲得した。「悲しきベイブ(It Ain't Me Babe)」「はげしい雨が降る(A Hard Rain's A-Gonna Fall)」「くよくよするなよ(Don't Think Twice, It's All Right)」「見張塔からずっと(All Along The Watchtower)」「イフ・ノット・フォー・ユー(If Not For You)」「いつまでも若く(Forever Young)」などもよくカバーされる。
1965年頃から、後にフォークロックと呼ばれるスタイルに移行し、エレクトリック楽器を取り入れた演奏をするようになった。多くのフォーク・ソングの愛好者は、この行為を「フォークに対する裏切り」と見なした。 同年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ディランはバック・バンドを従えてステージに上がったが、従来のスタイルを希望するファンからブーイングを受けて、数曲演奏したのみでステージを降り、その後一人でアコースティック・ギターを持ってステージに戻ったというエピソードが残されている。しかし、これはあくまでサイ&バーバラ・リバコブの伝記に記述された、ややドラマティックな脚色がもたらした風説であり、 実際には歓声もあって、バンドで用意した曲だけでは時間が余ったため、アコギで再度ステージに戻って数曲を披露したに過ぎないという証言もある。
1965年から1966年にかけて『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム(Bringing It All Back Home)』、『追憶のハイウェイ 61(Highway 61 Revisited)』、『ブロンド・オン・ブロンド(Blonde On Blonde)』を矢継ぎ早に発表。それと平行して後にザ・バンドとなるバックバンド、レヴォン&ザ・ホークスを従え、ワールドツアーをこなす。折からの世界的な左翼的運動の思想潮流の影響も受けたラディカルな勢力から「商業主義的だ」と飛ばされるブーイングを、はねつけながら行った挑戦的なコンサートの模様は『ロイヤル・アルバート・ホール(Live 1966)』、映画『イート・ザ・ドキュメント(Eat The Document)』などに収録されている。なお、余りのブーイングの激しさに途中からレヴォンはツアーメンバーを抜け、ドラムはミッキー・ジョーンズに代わっている。
- この時期のアルバム未収録曲としては、「ビュイック6型の想い出(From A Buick 6)」のハーモニカバージョン、「窓からはい出せ(Can You Please Crawl Out Your Window?)」のアル・クーパー, マイク・ブルームフィールドによるセッション(当初、「Positively 4th Street」と誤記されたシングル盤が出回ったため回収。再発売され、後に『バイオグラフ』に収録された公式バージョンはザ・ホークスと録音し直したもの)などがある。
- 『ブロンド・オン・ブロンド』の日本版LPはキーボードがフィーチュアされた幻の「定本」ミックスとされる。
- 1998年に発売された『ロイヤル・アルバート・ホール』は、実際にはマンチェスター、フリー・トレード・ホールの公演が収録されている。間違えて表記したブートレグの名残がそのまま正規盤のタイトルに利用された格好である。ロイヤル・アルバート・ホールの公演の客席にはビートルズ、ローリング・ストーンズ、チャールズ皇太子がいたということから、当時の関心の高さが伺える。なお、ホール側の機材の不備により、ミュージシャン側がPAシステムを持ち込むようになったのはこのツアーが初めてである。
こうして最初の絶頂期を迎えていた1966年7月29日に、ニューヨーク州ウッドストック近郊でオートバイ事故を起こし重傷を負い、すべてのスケジュールをキャンセルし隠遁。死亡説や再起不能説まで流布する。当時、ドラッグとコンサートツアーに明け暮れていたディランにとってはいい休養となったようで、ウッドストックにこもってザ・バンドのメンバーと共に、レコード会社向けデモテープ(後に『ザ・ベースメント・テープス(The Basement Tapes)』と呼ばれる)の制作に打ち込む。ところがこのテープは口コミで広がり、「アイ・シャル・ビー・リリースト(I Shall Be Released)」、「ジス・ホイールズ・オン・ファイアー(This Wheel's On Fire)」などの普遍的な楽曲が様々なミュージシャンにカバーされると共に、副作用として『グレート・ホワイト・ワンダー』などの海賊盤が出回り始め、闇の一大市場となってしまった。なお『ザ・ベースメント・テープス』は1975年にロビー・ロバートソンの手により、新たにオーバーダブを加えた改良版として公式発表された。
1967年にはベネルックス三国のみで独自にコーラスをオーバーダビングされた「出ていくのなら(If You Gotta Go, Go Now)」がシングルリリースされた。1991年リリースの『ブートレッグ・シリーズ1~3集』に収録されたバージョンとは全く違う、ハーモニカなしのバージョンであった。
1968年にディランは前作に引き続き、ナッシュヴィル録音による『ジョン・ウェズリー・ハーディング(John Wesley Harding)』で復帰するが、弾き語り中心で徐々にダウン・トゥ・アースのような傾向が見られ始める。
1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、レコーディングが間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男(Everybody's Talkin')」に差し替えられるということがあった。その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ(Lay, Lady Lay)」は結局ノン・タイアップでリリースされたが、澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなった。ディラン最後のトップ10シングルである。この曲が収録された『ナッシュビル・スカイライン(Nashville Skyline)』はまさにカントリーといっていいアルバムである。このアルバムでの澄んだ歌声についてディランは、煙草を止めたら声質が変わったと述べている。
[編集] 1970年代
1970年、『セルフ・ポートレート(Self Portlate)』を発表。カントリー、MOR、インストを含む様々なジャンルの曲を無作為に並べた実験精神溢れるアルバムで、評価をとまどう声もあったと云われるがセールスは好調であった。その直後、レコーディング拠点をナッシュヴィルからニューヨークに戻し、『新しい夜明け(New Morning)』を発表する。
その後、ディランはオリジナルアルバムの制作を中断。
それ以降は「ザ・コンサート・フォー・バングラデッシュ」への出演、レオン・ラッセル、ハッピー・トラウム、アール・スクラッグス、デヴィッド・ブロンバーグ、ロジャー・マッギン、ダグ・サム等とセッションする以外は沈黙を守る。 1971年発表の『グレイテスト・ヒッツ第2集(Bob Dylan's Greatest Hits Vol.2)』にはレオン・ラッセルSessionから2曲、ハッピー・トラウムSessionから3曲、そして未発表初期音源としてカーネギーホールでのライブから「明日は遠く(Tomorrow Is A Long Time)」を一切の手を加えない状態で収録。ベスト盤にボーナス・トラックを加える先例となる。
また、暮れには久々のプロテストソングである「ジョージ・ジャクソン(George Jackson)」を発表。A面にはレオンラッセルSessionからのビッグバンドバージョン、B面には弾き語りバージョンが収録。当時のアメリカの放送局では歌詞に問題がある曲の場合は、そのシングルのB面をかけてお茶を濁すのが慣例であったが、このシングルはB面の方が歌詞がより鮮明に聴こえて逆に効果大であった。
1973年に映画「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」への出演をきっかけに活動を再開。挿入歌「天国への扉(Knockin' On Heaven's Door)」はディランにとって最も多くカバーされる曲となった。
- この頃CBSソニーから日本独自企画盤として『Mr. D's Collections #1』が特典として配布された。ソニーは以降も#2、#3、『傑作(Masterpieces)』、『武道館(Live at Budokan)』、『Dylan Alive!』、『Bob Dylan Live 1961-2000』といった企画盤を企画している。なお、『The NeverEnding Tour』『ディランがROCK!』という企画盤については、ディランの許可が下りていない。
- またこの年、ディランはアサイラム・レコードへの移籍を決断。CBSコロンビアは報復手段として所有する膨大な過去の音源をリリースすることにし、まずは『セルフ・ポートレート』のアウトテイク集である『ディラン(Dylan)』を発売する。ディランはアサイラムで二枚のアルバムを発表した後にコロンビアへ戻るが、その要因には過去の音源の権利関係があったためとも云われる。"Dylan"は本人の要望によりCD化は許可されていない。アサイラムの二枚のアルバム『プラネット・ウェイヴズ(Planet Waves)』『偉大なる復活(Before The Flood)』も1977年にコロンビアから再発売となった。
1974年、かつてのバック・バンドだったザ・バンドを従え、レコーディングした『プラネット・ウェイヴス』を発表。初のビルボードNo.1アルバムとなる。
引き続き、ザ・バンドと共に全米ツアーを行った。彼等との共演は'68年のウディ・ガスリー追悼コンサート、1969年ワイト島フェスティヴァル、1971年大晦日のザ・バンドコンサートのゲスト以来、5回目である。最後は1976年の『ラスト・ワルツ(The Last Waltz)』だった。)
しかし今やスターダムにのしあがったザ・バンドとの力関係は対等になり、バンドサウンドとしては完璧で非の打ち所のないものながらディラン自身は退屈さをも漏らしていたようである。
翌1975年には、『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドと『ナッシュヴィル・スカイライン』の透明感を併せ持つコロンビア復帰作『血の轍(Blood On The Tracks)』を発表。内省的で沈鬱な内容にも関わらず、これもまたNo.1を獲得。
ディランは当時、マリー・トラヴァース(Peter, Paul & Mary)のラジオ番組で「何故、このような暗いアルバムが好かれているのか理由がわからない」と述べている。
- 当初、ミネアポリスで録音されてプレス盤も出回ったが、ディラン本人がリリース直前にストップをかけ、ニューヨークで半数を取り直した。録音にはミック・ジャガーが立ち会った。ミックはオルガンも弾いたそうだが、採用されたかは不明。ミネアポリス音源からは「リリー、ローズマリーとハートのジャック(Lily, Rosemary And The Jack Of Hearts)」だけが日の目を見ていない。
また1975年10月~12月と1976年4月~5月の2つの時期にかけて「ローリング・サンダー・レヴュー」と銘打ったツアーを行った。
これは事前の宣伝を行わず、抜き打ち的にアメリカ各地の都市を訪れて小規模のホールでコンサートを行うというもので、かつてのフーテナニーのリヴァイヴァルないし、巨大産業化したロック・ミュージックに対する原点回帰の姿勢を提示した。このツアーでは、ディラン自身が監督をつとめた映画『レナルド&クララ』の撮影もあわせて行われた。
このツアーの模様は『ローリング・サンダー・レヴュー(The Rolling Thunder Revue)』、『激しい雨(Hard Rain)』、映画『レナルド&クララ(Renaldo&Clara)』、TV『ハード・レイン』などに収録されている。
このツアーメンバーを主として録音された異国情緒を漂わせる『欲望(Desire)』が1976年初頭には自身最大のセールスと共にNo.1に輝く。
1978年には映画『レナルド&クララ』が公開。内容が難解すぎると不評を買い、興行的には失敗。始めは4時間弱だったが、後に2時間の短縮版が編集され再度公開。だが結局評価は変わらずじまいであった。
封切りに先立ち『4 Songs From "Renald & Clara"』というプロモEPが業界内に配布された。サウンド・トラック盤からの抜粋であるが、オリジナル盤の公式発表は未だない。
この年は12年ぶりにワールド・ツアーを開始し、2月から3月にかけては初の来日公演を行ない、東京公演の模様が『武道館』に収録、リリースされた。 1971年のレオン・ラッセル・セッション以来の女性コーラス、ホーンセクションを含むビッグバンド編成である。ディランは1987年のツアーまで女性コーラスを導入していた。
- また来日記念盤としてアルバム未収録の「親指トムのブルースのように(Just Like Tom Thumb's Blues)(Live at Glassgo)」、「Spanish Is The Loving Tongue(Piano Solo Version)」、「George Jackson(Big Band Version)」、「リタ・メイ(Rita Mae)」を含む『傑作(Masterpieces)』が日本限定で発売された。後にオーストラリア、ニュージーランドでCD化されたが現在は入手不可能。
ツアー中に、ツアーメンバーと共にメンフィスサウンドへの傾倒を見せる『ストリート・リーガル(Street Legal)』を制作。来日時に作曲したという「イズ・ユア・ラヴ・イン・ヴェイン(Is Your Love In Vain?)」も収録されており、UKなどでマイナー・ヒットとなった。
このツアー終了後、ボーン・アゲイン・クリスチャンの洗礼を受けたことが明らかになった。
1979年発表の『スロー・トレイン・カミング(Slow Train Coming)』はディラン流のゴスペルで占められていた。 このアルバムはマッスルショウルズの専属スタジオミュージシャン達の手を借りて制作されたディラン初の“プロフェッショナル”なアルバムである。 このアルバムは旧来のファン離れを招いたものの、売れに売れてグラミー賞も獲得した。
- 「ガッタ・サーヴ・サムバディ(Gotta Serve Somebody)」はディラン最後のトップ40シングルである。B面の「Trouble In Mind」はアルバム未収録。また未発表の「No Man Righteous, No Not One」もレゲエ・アーティストにカバーされるなどこの時期の曲はわりと人気が高い。
[編集] 1980年代
前述の『スロー・トレイン・カミング』と1980年発表の『セイヴド(Saved)』、1981年発表の『ショット・オブ・ラヴ(Shot Of Love)』は「ゴスペル三部作」と呼ばれる。
この時期のコンサートでは当初、これらの作品群からの曲しか演奏せず、批判を浴び動員も伸び悩んだ。その結果を考慮して後期のツアーでは、初期のヒット曲も織り交ぜた折衷版として妥協の姿勢も見せた。ディランはこの当時のサウンドにはかなり誇りを持っていたようで、ライブアルバムの発表を望んだが、コロンビアに拒絶された。
- 『ショット・オブ・ラヴ』のアルバム未収録曲としては「Let It Be Me」、「デッド・マン、デッド・マン(Dead Man, Dead Man)(Live Version)」がある。後者は1989年「ポリティカル・ワールド(Political World)」のカップリングで発表された後、『Live 1962-2001』に再録。
1981年にはそれまでの代表曲、未発表曲を網羅したコンピレーションアルバム『バイオグラフ』の企画が持ち上がる。発売には4年を要したため、1982年以降の曲は収録されていない。
1983年には『スロー・トレイン・カミング』セッションに参加していたダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーをプロデューサーに迎えて製作した『インフィデル(Infidels)』を発表する。この作品は前数作までの福音色が薄れ、従来のファンから大いに歓迎された。しかし、ノップラーは制作途中で自身のワールドツアーに出てしまい、残されたテープをディラン自身がミックスしたこのアルバムにはノップラーも含め、選曲、アレンジなどに不満の声もある。
- 「スウィートハート(Sweetheart Like You)」は最後のトップ100ヒット。日本盤B面の「Angel Flying Too Close To The Ground」はアルバム未収録。
この頃から時代は多重録音の手法がメインとなり、即興性を重んじるディランもまた時代性との狭間で試行錯誤を繰り返すことになる。
そして、1985年、アーサ・ベイカーの手を借り、R&B、ヒップホップを彼流に取り入れた次作、『Empire Burlesque(エンパイア・バーレスク)』は「エモーショナリー・ユアーズ(Emotionally Yours)」といった名曲を含みながらもセールス、評価ともに同年発売のコンピレーションアルバム『バイオグラフ』の陰に隠れて見過ごされる事態となった。この結果により、ディランはスタジオレコーディングに精力を傾け商業的成功作を作ろうという気持ちを半ば諦めたともいわれる。その後の『ノックト・アウト・ローデッド(Knocked Out Loaded)』、『ダウン・イン・ザ・グルーヴ(Down In The Groove)』は消極的なアウトテイク集との批判も飛んだが、肩の力の抜けたアルバムであって悪くないという声もある。
1985年には大規模チャリティー・コンサートの「ライヴエイド」に、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズとロン・ウッドと共にトリで出演。しかしながらギターの調子が悪く、「風に吹かれて」の途中でロン・ウッドのギターと交換するアクシデントが発生(ロン・ウッドはエアギターとなった)。さらに、モニタースピーカーを取り払われ、ステージ裏では他の出演者が大トリの「ウィ・アー・ザ・ワールド」を練習し始めるなど最悪のコンディションで、キースとロンの2人となかなかかみ合わないなど彼自身にとって、そしてマスコミの評価も最悪の結果と終わった。
これに危機感を持ったディランは、次なるチャリティー・コンサート「ファーム・エイド」でバックにトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの援助を仰ぐ。このステージを縁として、翌1986年~87年の共演ツアーにつながって行く(そして、後に大きな話題となる「トラベリング・ウィルベリーズ」結成にもつながって行く)。
この理由として1980年代はセールスも下降気味でディラン独りでは大きなアリーナ、スタジアムでの公演が難しく、サンタナやグレイトフル・デッド等とパッケージを組むしかなくなっていた当時の窮状、という側面もある。
しかしながら、意思の疎通を図りながらバンドメンバーと音を作り上げていくことが苦手なディランにとってはディラン、共演者共に不本意な結果に終わる事もまた多かったといわれる。
『リアル・ライヴ(Real Live)』、『ディラン&ザ・デッド(Dylan & The Dead)』の2枚のライヴアルバムは最低の評価を受けており、ディラン自身に明確なサウンドメイキングの意思のあまり感じられないステージングでは、バンドメンバーもフォローのしようがなかったとも言える。
この当時、ディラン自身も自信喪失気味で、グレイトフル・デッドへの加入を打診したこともあったらしい。しかし、メンバーの反対により実現しなかった。 また、1987年に公開された出演映画『ハーツ・オブ・ファイヤー(Hearts Of Fire)』も不評と、ことごとく不運であった。
- ハートブレイカーズとの公式音源はビデオ『Hard To Handle』に収録。また"Bob Dylan with The Heartbreakers"名義で『Band Of The Hand』が発表された。
- トム・ペティつながりでユーリズミックスのデイヴ・ステュワートに「エモーショナリィ・ユアーズ(Emotionally Yours」「When The Night Comes Falling From The Sky」のPVディレクションを依頼する。ディランは数年後にジョン・メレンキャンプにも依頼しているが、ミュージシャンに何故映像ディレクションを依頼するのかは謎である。
- 『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』には南米のいくつかの国で「Important Words」が収録された。
- 『ハーツ・オブ・ファイヤー』のサントラにはディランの曲が三曲収録されたが、現在廃盤となっている。
- ディズニーの企画盤では、「This Old Man」が収録された。
- ウディ・ガスリーの追悼アルバムには「Pretty Boy Floyd」が収録された。
1987年に、ダニエル・ラノワプロデュースによる『ヨシュア・トゥリー(The Joshua Tree) 』を発表していた[[U2]のワールド・ツアーのロサンゼルス公演に飛び入り参加。ボノと「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「天国への扉」を歌った。ボノは当時、スタジオ録音に悩んでいたディランに「ラノワならディランを上手くプロデュースできるのでは?」と発言している。
1988年にはロイ・オービソン、ジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、トム・ペティと共にインスタント・ユニット、「トラベリング・ウィルベリーズ」を結成し、アルバムも発売した。
ツアーも予定されていたが、12月6日にロイ・オービソンが心臓発作で亡くなった事でツアーは幻に終わった。
その後、デル・シャノンを加えた新体制で続行という噂があったが、デル・シャノンは1990年2月8日に拳銃自殺してしまう。
この時期のバンドに関しては未だに詳細不明である。結局、残された4人で2枚目のアルバムを発表し、バンドは自然消滅した。公式発表のアルバムはVol.1とVol.3で、所在不明になったVol.2の発掘が待たれる。
1989年にはU2・ボノの進言で招聘したダニエル・ラノワの好サポートによる『オー・マーシー(Oh, Mercy)』を発表。
ディラン自身の性来持っている南部志向を存分に引き出し、1980年代の最高傑作と評されるものの、セールスは全盛期には遠く及ばなかった。2005年に発売された自伝には当時のレコーディングのことが詳細に記述されている。
- 「モスト・オブ・ザ・タイム(Most Of The Time)」のプロモーションビデオには別バージョンが使われた。
[編集] 1990年代
一連のスタジアムコンサートツアーを終えたディランは、1988年6月7日より小さなホールで最小限のメンバーで即興性を全面に押し出したショウを始めることにした。それぞれのツアーにはタイトルがつけられていたがいつしかファンの間で以降のディランのステージはおしなべて「ネヴァー・エンディング・ツアー」という名称で呼ばれるようになった。 当初はパンキッシュなアプローチも見せたが次第にアコギとハーモニカという従来のスタイルを捨て、メロディーラインもアンサンブルもかなぐり捨て、ひたすらリードギターを弾きまくるスタイルになり、ある評論家は「ボディ・ミュージック」とも形容した。
- ツアーメンバーにはSaturday Night Liveも手がけたG. E. Smith(30周年コンサートでもハウスバンドのギタリストとして事実上のコンサートマスターであった)、Winston Watson(John Bohnamばりのパワフルなドラミングで'90年代半ばのディランサウンドの象徴)、Charlie Sexton(元ソロ歌手)などが入れ替わり立ち代わり参加している。
1990年に『アンダー・ザ・レッド・スカイ(Under The Red Sky)』を発表後、ディランはしばらくオリジナル・アルバムを作らなくなった。その事に関してインタヴューで「過去にいっぱい曲を作ったので新曲を作る必要を感じない」との発言を残している。 その後、1997年までに発表されたものは2枚のトラディショナル・ソングのカバー・アルバム『グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー(Good As I Been To You)』と『奇妙な世界に(World Gone Wrong)』、未発表曲のコンピレーション、ベスト数枚、MTVライブであった。またWillie Nelsonのアルバムへのゲスト参加、映画「ナチュラルボーン・キラーズ」への楽曲提供(Paul Ankaのカバー「ユー・ビロング・トゥ・ミー」)などもあった。
1991年にはグラミー賞Lifetime Achievement賞を受賞。授賞式では対イラク戦争開始直後の好戦気分溢れる時期でありながら、「戦争の親玉」をハードロックアレンジで歌い、聴衆の度肝を抜いた。
また、この年にはそれまでの過去の音源からの未発表曲を網羅した『ブートレッグ・シリーズ1~3集』を発表した。「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「ブラインド・ウィーリー・マクテル(Blind Willie McTell)」、「夢のつづき(Series Of Dreams)」などの名曲集でディラン再評価の兆しになった。
1992年10月16日にはレコード・デビュー30周年を祝って、マディソン・スクエア・ガーデンで記念コンサートが開催され、多くのアーティストが一堂に会してディランの代表曲を歌った。ディランは当時、過去の人扱いにも似たこの「ボブ・フェスト(ニール・ヤング命名)」にはあまり嬉しそうではなく、ステージ上でも非常にナーバスな表情を見せていた。そのうえ、出演者が勢ぞろいして歌った「マイ・バック・ページ」はCDでディランのボーカルが差し替えられていたり、編集の後がみられる。しかしながらアコギ一本で鬼気迫るリードを弾く「イッツ・オールライト・マ(It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding))」は満場の観客を捉えるに充分の一撃であった。
1994年、2月に8年振りに来日コンサートを行う。4月には奈良市東大寺境内で行われたユネスコ主催の音楽祭「The Great Music Experience〈あおによし〉」のため再来日。東京フィルハーモニック・オーケストラをバックに3曲を披露した。そのうちの1曲「はげしい雨が降る」のシンフォニックバージョンがヨーロッパ、オセアニア等でシングルCD「ディグニティ(Dignity)」"のカップリング曲として収録されている。(国によっては「悲しきベイブ(Renaldo & Clara Version)」に差し替えられている。)
夏には「ウッドストック1994(Woodstock 1994)」にも出演。公式アルバムには、ディランの曲からは「Highway 61 Revisited」だけが収録された。 年末にはMTVの公開番組『MTVアンプラグド(MTV Unplugged)』に出演。1960年代の曲を中心とした選曲で、評判となる。翌年CD・ビデオに収録された。 同時期、自身が設立したとされるレーベルから、ジミー・ロジャースのトリビュートアルバムを発表。"My Blue Eyed Jane"はエミルウ・ハリス、ダニエル・ラノワとの久々の仕事であった。
1997年、2月に再び来日。1994年来日ツアーの評判がやや芳しくなかったため、前回より小さめのホールが主体となったが、今回は迷いのない気迫溢れる演奏で好評を博す。5月、心臓発作で倒れ、一時は危ぶまれたものの快癒し、復帰した。この時ディランは「エルヴィスに会えるかと思った」と発言している。その直後、三度ラノワと組み、7年ぶりにオリジナル・アルバムを発表することが明らかになり、新曲はもう聴けないと思っていたファンを狂喜させた。このアルバム『タイム・アウト・オブ・マインド(Time Out Of Mind)』は18年振りに全米トップ10に入り、グラミー賞「年間最優秀アルバム賞」を受賞した(アメリカのロック・バンド「ザ・ウォールフラワーズ」のフロントマンである息子のジェイコブ・ディランも同年にグラミー賞を受賞しており、親子揃っての受賞となった)。
[編集] 2000年代~現在
2001年2月から3月にかけて、5度目の来日公演を行う。直後の9月11日には43枚目となるアルバム『ラヴ・アンド・セフト("Love And Theft")』を発表。しかし、奇しくもアメリカ同時多発テロの発生と同日であった。21年振りのトップ5アルバムである。
2002年ツアーよりディランは殆どギターを弾かなくなり、もっぱらキーボードに専念するようになった。このことに関してディランは2004年のニューズウィーク誌のインタヴューで、ギターでは彼の望んでるサウンドを形にしきれないこと、専門のキーボードプレイヤーを頼むことも考えたが、そうはせず自分で弾くことにした、と答えている。
2004年3月17日にデトロイトで行われた公演で、ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトと共演し、ストライプスの曲をデュエット。また、この年の「Bonnaroo Festival」に出演。「入り江にそって(Down Along The Cove)」がCDに収録されている。
2005年7月16日にオンライン書店のアマゾン(Amazon.com)の創立10周年を記念したイベントでステージを披露。インターネットでストリーミング配信された。ノラ・ジョーンズと「アイ・シャル・ビー・リリースト」をデュエット。7月19日には、ディラン自身が筆をとった自伝第1弾『ボブ・ディラン自伝(Chronicles Volume1)』が菅野ヘッケルの訳によって日本で発売された(アメリカでは2004年10月に発売)。11月23日にはマーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム(No Direction Home:Bob Dylan)』がテレビで日本初公開(アメリカとイギリスでは9月下旬~10月初めに放映)。ディラン本人もインタビューで出演した。その後劇場上映され、翌年DVD化された。
2006年8月29日には、通算44枚目となる5年ぶりのアルバム『モダン・タイムス(Modern Times)』を発表。このアルバムは、9月16日付ビルボードアルバムチャートで30年半ぶりのNo.1を獲得。しかも自身初の初登場No.1を遂げた。
2007年2月のグラミー賞では『モダン・タイムス』と、このアルバム内の曲「サムデイ・ベイビー(Someday Baby)」で、2冠を獲得した。
[編集] ディスコグラフィ
- ボブ・ディランの作品を参照。
[編集] 日本公演
- 2月5日 仙台サンプラザ、7日 横浜文化体育館、8日,9日 日本武道館、11日 名古屋センチュリーホール、12日 大阪城ホール、14日,15日 九州厚生年金会館、16日 広島厚生年金会館、18日 浦和市文化センター、20日 NHKホール
- 5月20日,21日,22日 奈良・東大寺
- 2月9日,10日,11日 東京国際フォーラムホールA、13日 倉敷市民会館、14日 福岡サンパレス、16日 名古屋センチュリーホール、17日 大阪フェスティバルホール、18日 大阪厚生年金会館、20日 仙台サンプラザ、22日 秋田県民会館、24日 北海道厚生年金会館
- 2月25日 大宮ソニックシティ、27日 仙台サンプラザ、28日 秋田県民会館、3月2日 パシフィコ横浜国立大ホール、3日,4日 東京国際フォーラムホールA、6日,7日 大阪厚生年金会館、9日 福岡サンパレス、10日 広島厚生年金会館、12日 名古屋市公会堂、13日 アクトシティ浜松大ホール、14日 日本武道館
[編集] 外部リンク
- BobDylan.com – 公式ホームページ(英語のみ)
- Sony Music Online Japan : ボブ・ディラン - ソニーミュージックによる公式ページ
- Bob Dylan Lyrics
- Expecting Rain - 毎日更新のファンサイト(英語のみ)
- BobLinks - 関連リンク集、最新ツアー情報も掲載(英語のみ)