ミハイル・スースロフ
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ミハイル・アンドレーエヴィチ・スースロフ(Михаил Андреевич Суслов, Mikhail Andreevich Suslov, 1902年11月21日 - 1982年1月25日)はソビエト連邦の政治家。フルシチョフ及びブレジネフ時代のソ連共産党のイデオロギー担当書記。「クレムリンの赤い枢機卿」の異名を持った。
1902年11月21日ロシア帝国のサラトフに小作農の家庭に生まれる。1921年共産党(ボリシェビキ)に入党した。1928年プレハーノフ名称国民経済大学を卒業する。さらに1931年共産主義アカデミーを卒業。同アカデミーでは、スースロフが後にソ連共産党の理論家として活躍する素地を形成した。1931年アカデミー卒業後、ソ連共産党中央統制委員会に入り、1930年代のスターリンによる大粛清に参画、トロツキー、ブハーリン、ジノヴィエフ派を抹殺した。1937年ロストフ州党書記、1939年スタヴロポリ地方党第一書記を歴任し、少壮党官僚として昇進を重ねる。第二次世界大戦時には、スターリンの指令の下、チェチェン人、イングーシ人などのカフカース地方の諸民族をカザフスタンに強制移住させた。1944年ナチス・ドイツから奪回したバルト三国のひとつ、リトアニアに共産党リトアニア議長として入り、再度の社会主義化に着手すると同時に、約6万人のリトアニア人を「リトアニア民族主義者」の烙印の下、シベリアに送った。
第二次世界大戦終了後は、スースロフは、再びイデオロギー分野に戻る。1946年ソ連共産党中央委員会宣伝部長、1949年ソ連共産党機関紙『プラウダ』編集長、1950年マルクス・レーニン主義研究所所長を歴任した。1947年のコミンフォルム結成や、1948年から1949年にかけてチトー率いるユーゴスラビアに対するコミンフォルムによる制裁に大きな役割を果たした。
1947年には党中央委員会書記、1952年に政治局員に選出された。1954年ソ連最高会議連邦会議外交委員長に選出された。
スターリンの死後、政治局員を解任されるが、1955年に政治局改め党幹部会員として復活した。スターリン後の権力闘争では、ニキータ・フルシチョフを支持した。スースロフは、1964年10月のフルシチョフ解任劇についてはアレクセイ・コスイギンとともに直前まで知らされていなかったことがピョートル・シェレストの回想録などから明らかになっている。フルシチョフ追放の計画を聞かされたスースロフは「君らは何を話しているのだ。それは内戦ではないか。」と絶句するが、にも関わらず「理論派」スースロフは直ちに自分の立場をわきまえ、フルシチョフ追放の臨時の中央委員会総会ではフルシチョフを非難する大演説を行い、強大な権力基盤を得た。スースロフ以降、イデオロギー担当書記は政治局員と最高会議連邦会議外交委員長を兼ねて「第二書記」と見做されるようになり、アンドロポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフの先例となった。
1956年のハンガリー動乱及び1968年のチェコスロバキアの「プラハの春」の弾圧や、1979年のアフガニスタン侵攻、1981年のポーランド軍政施行など、制限主権論に基づく「ブレジネフ・ドクトリン」を編み出し、ネオ・スターリニストとしてソ連外交をタカ派路線で唱導した。
1968年には日本共産党との関係正常化のため来日している。
1982年1月25日、心臓病のため、死去。79歳。
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