ヤーコフ・ジュガシヴィリ
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ヤーコフ・ジュガシヴィリ(Яков Джугашвили;1908年3月18日 - 1943年4月14日)は、ソ連の軍人。上級中尉で、ヨシフ・スターリンの長男である。ヤーコフ・スターリンと表記されることもあるが、元の姓で兵籍登録されている。
[編集] 経歴
クタイスク県バジ村において、スターリンと彼の最初の妻エカテリーナ・スヴァニゼの間に生まれる。14歳まで叔母のA.モナサリゼの元で育った。1921年、勉学のためにモスクワに赴く。当時、ヤーコフはグルジア語しか話せなかった。
父スターリンは、彼の上京を喜ばなかったが、後妻のナジェージダ・アリルーエワが彼の世話をした。ヤーコフは、当初アルバート街の学校に通い、その後ソーコリニキの電気工学学校に入り、1925年に卒業した。同年に結婚。
父は息子の結婚を喜ばず、援助をしたがらなかった。落胆したヤーコフがピストルで自殺未遂を起こすと、父はますます彼に冷たく当たり、「あいつは銃をまっすぐに撃つこともできんのか」と吐き捨てた。 退院後、セルゲイ・キーロフの助言により、ヤーコフは妻ゾーヤと共にレニングラードに転居し、第11変電所の電気修理工となった。1929年始め、長女が誕生したが10月に死亡、その後夫婦は離婚。
1930年、ヤーコフはモスクワに戻り、F.E.ジェルジンスキー名称モスクワ輸送技師大学熱物理学部に入学し、1935年に卒業した。1936年~1937年まで、スターリン名称工場で働いた。1937年、労農赤軍砲兵アカデミー夜間部に入校。1938年、Y.メリツェルと結婚し、1941年に共産党に入党する。
独ソ戦勃発後、1941年6月27日、ヤーコフは第14榴弾砲連隊の中隊長として、ドイツ中央軍集団の第4装甲師団と交戦した。7月4日、中隊はビテブスクで包囲され、7月16日にヤーコフは捕虜となった。ソ連最高指導者の息子が捕虜になったというニュースは、ベルリンのラジオで流された。ソ連北西戦線政治局は、ヤーコフとドイツ軍将校が歓談している写真が掲載されたドイツ軍作成のビラを入手し、1941年8月7日、それを軍事会議議員アンドレイ・ジダーノフに送った。ジダーノフは事件について報告したが、スターリンは、息子が自分を困らせるためにわざと敵に捕まったのだと考えた。ドイツ側の尋問調書によれば、ヤーコフは同じく捕虜となった友軍兵士によってスターリンの息子であることが暴露されたことを示している。
1941年秋、ヤーコフはベルリンに移送され、ヨーゼフ・ゲッベルスの管轄下に置かれた。彼は「アドロン」ホテルに収容され、グルジア人反革命派に囲まれた。1942年始め、ヤーコフは、ハンメルスブルグの将校収容所「オフラグXIII-D」に移送された。同年4月にリューベックの「オフラグXC」に移送。まもなくヤーコフは、ザクセンハウゼン収容所に移送され、連合国高官の親族がいる区画に収容された。ドイツ側は、スターリングラード攻防戦で捕虜になったフリードリッヒ・フォン・パウルス元帥とヤーコフの交換をソ連側に提案したが、スターリンは「兵士と元帥を交換しない」と回答した。実質的に、自分の父親に見捨てられる形となった。
1943年4月14日夜、ヤーコフは兵舎に入ることを拒否し、塀に身を乗り出したところを警備兵によって射殺された。
[編集] ヤーコフを題材とした作品
- 映画「戦争は皆にとって戦争」(Война для всех война):映画監督D.アバシゼの作品
- 詩「ヤーコフ・ジュガシヴィリ」(Яков Джугашвили):詩人ニコライ・ドリゾの悲劇詩。1988年、「モスクワ」誌に掲載。
[編集] 顕彰
1977年10月28日、ソ連最高会議幹部会は、ドイツ・ファシスト占領者との戦いにおける不屈さ、捕虜における勇敢な行動に対して、ヤーコフ・ジュガシヴィリ上級中尉に一等祖国戦争勲章を授与した。しかしこのことは秘密とされ、誰にも知られることはなかった。
モスクワ輸送技師大学とF.E.ジェルジンスキー名称砲兵アカデミーには、彼の記念碑が立っている。モスクワ鉄道輸送技師大学の博物館には、ザクセンハウゼン収容所の火葬場から取られた灰と土の入った骨壷が設置されている。