ヨーゼフ・ゲッベルス
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任期: | 1945年4月30日 – 5月1日 |
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出生日: | 1897年10月29日 |
生地: | ノルトライン=ヴェストファーレン州 |
死亡日: | 1945年5月1日 |
没地: | ベルリン |
政党: | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels, 1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツの政治家。ナチ党政権下のドイツでプロパガンダを任務とする国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。「ゲッペルス(半濁音)」では無い。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
1897年10月29日、ノルトライン=ヴェストファーレン州メンヒェングラートバッハの事務員の家庭に生まれる。
両親は貧しいが敬虔なカトリック教徒であり、ゲッベルスは司祭になるよう望まれた。ギムナジウム在学中の1914年、第一次世界大戦に出征を志願するが、子供の頃小児麻痺にかかった後遺症でやや足が不自由(左右で長さが違う)だったため兵役不適格と認定される。
[編集] 優等生
学業成績は優秀で、耐乏生活を送りながら奨学金を受けていくつかの大学で文学、古典文献学、歴史などを学ぶ。このころのゲッベルスにはまだ反ユダヤ主義的傾向は少なく、ハイデルベルク大学で教えを受けたフリードリヒ・グンドルフ教授も、博士論文の指導教授マックス・フォン・ヴァルトベルク男爵もユダヤ人だった。また、ナチ党で地位を得るまでは半ユダヤ人の女性と恋愛関係にあった。
1921年ハイデルベルク大学で文学博士号を取得し、ジャーナリストか放送局の文芸部員になろうとしたが失業状態が続く。このときユダヤ系の出版社にも入ろうとしていたが失敗している。ケルンの新聞社に短期間勤めたこともあったが不況のため解雇され、家族には失業後も通勤を装うなどゲッベルスは失意の底にあった。しかし優等生としての自負は却って大きくなり、署名には必ず「ドクトル」と添えるなどずっと後になっても知識人としての自分を誇示し続けた。
[編集] ナチ党
その後ワイマールで行われた集会で国家社会主義に触れ、1924年8月21日メンヒェングラットバッハに「国家社会主義大ドイツ解放運動」支部を設立する。これは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が、アドルフ・ヒトラーのミュンヒェン一揆が鎮圧されて非合法になった後その隠れ蓑として設立されたダミー団体だった。また、1924年10月1日から「民族的自由」紙主筆を務め、ユダヤ人出版業者の攻撃を始めている。
1925年3月、ナチ党ノルトライン・ヴェストファーレン支部の幹部党員となる。数々の演説で頭角を現すが、このころはゲッベルスの立場はナチス左派であり、その首領であるシュトラッサーの秘書も務め、ヒトラーの除名を提案するなどヒトラーのことは「資本家寄りに過ぎる」と非難する側だった。また、共産主義者に対し「血をわけた赤いごろつきども」と愛憎相半ばする感情を抱いてており、ベルリン交通局のストライキでドイツ共産党との共闘を独断で指示したり、いわゆる「ゲッベルスの日記」ではナチと共産主義者の同盟を主張していたことで知られる。
しかし翌1926年2月14日にバンベルクで開かれた幹部会議では早くも手のひらを返したようにヒトラー支持、シュトラッサー非難に転じ、見返りにベルリン・ブランデンブルク大管区指導者に任命される。「赤いベルリン」と呼ばれ共産主義の牙城だったこの地区を任されたゲッベルスは扇動者としての能力を発揮し、南部に偏りがちだったナチ党は北ドイツへの進出に成功した(ヒトラーが政権を取る直前のベルリンでは共産党が単独で勝利し、「共産党もよくやった」と異例にも誉めた)。1927年には「アングリフ(攻撃)」誌を発刊し、他の新聞・雑誌や他政党に対する言論戦を本格化する。他紙を論破するのではなく、大活字で他紙を罵って読者の感情を揺さぶり、他紙の反論を招けば招くほどナチ党とその主張の宣伝になるという方法だった。
[編集] 国民啓蒙・宣伝大臣
1928年全国選挙に初当選、国会議員となる。1933年ゲッベルスはナチ党の政権掌握に伴って新設された「国民啓蒙・宣伝省」の大臣となり、強制同一化やユダヤ商店ボイコット運動などを推し進めていく。その後も退廃芸術展開催、芸術文化領域からのユダヤ人追放、映画会社最大手ウーファ買収などによって国家がメディア・芸術全体を支配するようになる。
第二次世界大戦開戦後も絶え間なく国民に対する情報戦を展開し、大戦末期にドイツが劣勢に転じた後も、爆撃にあった都市のために救援隊を組織したり、徴兵されなかった中年・少年男性を集めて国民防衛隊「人狼」を設立したりして国民の人気を集めた。敗勢が決定的になってヒトラーがほとんど演説をしなくなるとその代役を務め、連合軍に対して最後まで抵抗するようラジオで国民に呼びかけた。スターリングラードの敗北後、ベルリンのスポルトパラスト(運動宮殿)で行った総力戦布告演説は有名である。自らの宣伝省が爆撃によって破壊された時はかなりのショックを受けたと日記に記している。また、空襲を受けたベルリン市民を直接激励するようにヒトラーに何度も進言したが、受け入れられることはなかった。
[編集] 自殺
1945年4月25日ゲッベルスはヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚の立会人となり、その後の二人の死を見届ける。4月30日、ヒトラーの遺言により首相に就任するも、5月1日、5人の娘と1人の息子に青酸カリを与えて殺したあと、マグダ夫人と共に自殺し、夫婦でナチ党に殉じた。
[編集] 家庭生活
1931年12月19日ゲッベルスはマグダ・クヴァントと結婚する。マグダは離婚歴がある女性で、前夫との間に既に息子ハラルトがあった。ゲッベルスはこの連れ子も暖かく迎え入れたという。ハラルトは第二次世界大戦に従軍、捕虜となり、ゲッベルスの家庭で唯一の生き残りとなった。ゲッベルスとマグダ夫人は生涯で六人の子供をもうけ、一見模範的なドイツ家庭を作り上げてそれを宣伝した。
ゲッベルスの家庭はナチ党の高官たちが集う憩いの場でもあったが、宣伝では模範的だった家庭も、実際にはゲッベルスの奔放な女性関係によりしばしば危機に瀕した。ゲッベルスは、ナルシスト特有の自信と映画界での権力を背景に多くの女優に関係を迫っており、中でも1938年、ゲッベルスとチェコ出身の女優リダ・パーロヴァとの関係は、総統ヒトラー自らが介入してゲッベルスに手切れを、妻には結婚生活の継続を命じるというスキャンダルに発展した。
戦後、ベルリン郊外にあったゲッベルスの邸宅はソ連軍に押収され、後に東ドイツ政府によって集会施設として使用されていた。しかし、1990年にベルリンの壁が崩壊し東ドイツ政府が消滅すると、ベルリン市の管轄に移った。ベルリン市はネオナチの聖地化するのを恐れ、建物を閉鎖して管理していたが、財政難により競売にかけられる事が決定した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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