ユージン・オーマンディ
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ユージン・オーマンディ(オルマーンディ・イェネー)(Eugene Ormandy(Ormándy Jenő), 1899年11月18日 - 1985年3月12日)はユダヤ系でハンガリー出身のアメリカの指揮者。本名ブラウ・イェネー(Blau Jenő)。
目次 |
[編集] 生涯
ブダペストに生まれ、幼年時代からヴァイオリンの才能を現す。1905年にブダペスト王立音楽院に入学。08年から名ヴァイオリニスト・イェネー・フバイ(フーバイとも。名奏者ヨーゼフ・ヨアヒムの弟子)に師事、17年にヴァイオリン教授の資格を得て音楽院卒業後、ヴァイオリニストとして本格的な演奏活動を開始。19年には師の後任として王立音楽院ヴァイオリン科主任教授に就任する。しかし21年、アメリカ演奏旅行の際、一説ではマネージャーに騙されたとも言われ、無一文で見知らぬ土地に放り出される苦難に見舞われる。
糧を得るために1921年、ニューヨーク・キャピトル劇場オーケストラのヴァイオリン奏者となるが、腕を買われて同年中にコンサート・マスターに就任。1923年から数年間にわたりヴァイオリニストとして幾らかの独奏録音を行なっている。
1924年9月、指揮者が急病で倒れてしまい、代役としてキャピトル劇場オーケストラを指揮することになって指揮者デビュー。以後、指揮者に転向し、26年にキャピトル劇場準指揮者。27年にはアメリカ国籍を取得。また同年からキャピトル劇場を離れてCBSラジオの放送コンサート指揮者になる。
1931年、病気のトスカニーニの代役として、フィラデルフィア管弦楽団定期公演を指揮。この代演を成功させて評判を高め、同年、ミネアポリス交響楽団(現・ミネソタ管弦楽団)の常任指揮者に就任。36年、レオポルド・ストコフスキーと共にフィラデルフィア管弦楽団の共同指揮者となる。
1938年、ストコフスキーの辞任により後任としてフィラデルフィア管弦楽団音楽監督に就任。無一文で放り出されたアメリカで有名指揮者になる、というアメリカンドリームをつかむことになった。以後、音楽監督として1980年に勇退するまで42年の長期にわたって在任(後任の音楽監督はリッカルド・ムーティ)。フィラデルフィア管を率いて、ヨーロッパ、ソヴィエト、中国、オーストラリアなどに演奏旅行を行なっており、4回(1967年、1972年、1978年、1981年)来日もして公演を行なった。
フィラデルフィア管弦楽団音楽監督の辞任後は、同楽団から桂冠指揮者の称号を贈られ、引き続き演奏・録音を行なっていたが、1985年3月に死去。84年1月のフィラデルフィア管との演奏会が生涯最後の演奏会となった。
彼の指揮するフィラデルフィア管弦楽団の、弦を中心に磨きぬかれたその音色は、「フィラデルフィア・サウンド」、「オーマンディ・トーン」として名を馳せ、とくに後期ロマン派音楽の楽曲演奏に大いなる力を発揮した。
[編集] レパートリー・録音
バッハ(オルガン作品を自ら管弦楽版に編曲して演奏もしている)から現代まで幅広いレパートリーを持ち、同時代の作曲家の紹介にも熱心で、ラフマニノフ、バルトーク、シェーンベルク、バーバー、ブリテン、ショスタコーヴィチ、メノッティ、ヴェーベルン、ペンデレツキなどの作品の世界初演・アメリカ初演を行なっている。1978年の来日公演では5種類のプログラムを用意してツアーを展開、幅のあるレパートリーを披露している。
録音に積極的な指揮者であり、ミネアポリス時代の1930年代前半から1982年まで膨大な量の録音を行なった。フィラデルフィア管で音楽監督に就任後RCAに本格的な録音を開始、44年コロムビア・レコードに移籍。68年にRCAに復帰。晩年にはEMIやテラーク、デロスにも録音を残している。 ヴァイオリニスト時代も含めると、アコースティック録音、電気録音、ステレオ録音、ディジタル録音を残したという点で、極めて稀な演奏家といえる。オーマンディは若き日にCBSラジオで放送指揮者を務めたが、その時に時間感覚を体得、その感覚が後の録音の際に大いに役立ったという。
68年のRCA復帰については、それまで契約していたコロムビアにニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督レナード・バーンスタインが迎えられた時、バーンスタインの録音に関しては彼自身に曲目の選択権を与えるという待遇であったため、その余波でオーマンディの自身の録音に関する発言権確保が危惧される状況になった(オーマンディとバーンスタインの希望曲目が仮に重なれば、オーマンディがコロムビア側から曲目変更を求められる可能性があった)。その状況の中、RCAがオーマンディにより幅広い曲目選択権を認めるという条件を提示し、オーマンディの復帰にこぎつけたといわれている。ただし、RCA復帰後の録音曲目にはコロムビア時代に録音したものも多く、この条件が十全に履行されたのかどうかは定かではない。[1]
交響曲、管弦楽曲を積極的に録音したのはもちろんのこと、協奏曲録音でも知られ、各時代の有名奏者また若手奏者たちと多くの共演盤を残している(最後の公式録音も1982年にフィラデルフィア管を率いてヨーヨー・マと共演したショスタコーヴィチとカバレフスキーのチェロ協奏曲。それぞれ第1番)。オーマンディの巧みな伴奏ぶりから、日本では彼を“協奏曲の達人”などと称することもある。しかし、このことがかえって、「独自の芸術を持たない」といったような非難を受ける一因ともなっているようである。
日本でのオーマンディ録音のCD化の際には彼のレパートリーの中核に偏る傾向があったが、20世紀末期~21世紀に日本のBMGファンハウス(RCAレーベル)からまとまった復刻がなされ、オーマンディのレパートリーの幅が以前より広く知られることになった。
[編集] 外部リンク
- Fantastic Philadelphians: Ormandy & Philadelphia Orchestra
- Glorious Sounds of Music
- K.Yokota Home Page(ディスコグラフィー有り)
- オーマンディの思い出(「海外オーケストラ来日公演記録抄」)
- Eugene Ormandy Web Pages(※英語)
[編集] 注
- ^ ジェイ・デイヴィッド・サックス(RCAのプロデューサー)によると、当時のRCAは「誰もオーマンディでシリアスなレパートリーなど聴きたいと思っていない」「派手なショーピースの方が売れる」という考えであったため、オーマンディやオーケストラはかなりの不満を抱いていたが、同時にオーマンディは「あらゆるニーズに応える」ことに強い誇りを抱いていたので、結局はそれを受け入れたという。(BVCC-38059のライナーノートより)
カテゴリ: アメリカ合衆国の指揮者 | ハンガリーの指揮者 | ユダヤ系アメリカ人 | ハンガリー系アメリカ人 | 1899年生 | 1985年没