ヨーゼフ・ヨアヒム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
ヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim)、ヨアヒム・ヨージェフ(Joachim József, 1831年6月28日-1907年8月15日)は、ヴァイオリニスト・指揮者・作曲家である。もっとも偉大なヴァイオリニストの一人とみなされている。
目次 |
[編集] 略歴
ヨアヒムは、ハンガリー西部のポジョニ・アイゼンシュタット近くのケプチェーニ / キットゼー(Köpcsény / Kittsee)で生まれた。現在はオーストリア・ブルゲンラント州に属している。キットゼーはバッチャーニ=シュトラットマン家(Batthyány-Strattmann)の館のある地として知られる。
1833年にヨアヒムの一家はブダペストに移った。彼はブダペストで5歳のときからヴァイオリンのレッスンを受け始めた。続いてウィーンとライプチッヒで修行した。ライプチッヒではフェリックス・メンデルスゾーンに師事した。ヨアヒムが15歳のときに初めてロンドンを訪問したのはメンデルスゾーンに伴われてのことであった。このときにはすばらしい成功を収め、その後もたびたびロンドンを訪れることになった。
メンデルスゾーンの死後、ヨアヒムはワイマールに移ってコンサートマスターに就任し、フランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナーと知り合った。しかし、1852年にハノーヴァーに移ってからは、彼らの観念主義的音楽とは疎遠になり、その代わりロベルト・シューマン、クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス(何度かヨアヒムとのリサイタルでピアノを演奏した)と親しくなった。ブラームスとヨアヒムは共同で、リスト、ワーグナーや彼らの仲間たちの音楽に反対する宣言文を執筆している。またハノーヴァーで、ヨアヒムは歌手のアマーリエ・ヴァイスと結婚した。
1866年には、王立音楽アカデミーの創設と指導のためにベルリンに招かれた。ヨアヒムは自分のオーケストラを創設し、また1869年には「ヨアヒム弦楽四重奏団」を創設した。この楽団は世界最高の四重奏団という名声をかちえた。
1884年に、ヨアヒムは妻がブラームスの楽譜出版者であるフリッツ・ジムロックと関係があったと確信するようになり、離婚した。ブラームスはヨアヒムの疑いには根拠がないと考え、アマーリエを擁護する長い手紙を書いた。この手紙が法廷に証拠として提出されたことからブラームスとヨアヒムの友情は壊れ、回復するのは数年後のことであった。
ヨアヒムは1907年に亡くなるまでベルリンに住んでいた。
[編集] 業績
[編集] 演奏家として
ヨアヒムは、ヨハン・ゼバスチャン・バッハからルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(この曲がスタンダード曲になるにはヨアヒムの大きな貢献があった)を経て、年下の同時代人たち(その多くは彼の個人的な知人であった)の作品に至る幅広いレパートリーを演奏した。
ヨアヒムはアントニン・ドヴォルザークからヴァイオリン協奏曲の献呈を受けている。ただし、この曲を演奏することはなかった。
ヨアヒムはブラームスと特別に密接な協力関係にあった。ブラームスがヴァイオリン協奏曲を作曲したときは器楽演奏についての技術的な助言を行っている。この協奏曲はヨアヒムに献呈された。また、ヨアヒムはブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲の初演で独奏ヴァイオリンを演奏し(この曲は離婚問題による仲たがいのあと、仲直りのために作曲された)、交響曲第1番のイギリスでの初演を指揮した。
[編集] 作曲家として
ヨアヒムの作曲家としての業績は、演奏者としてのそれよりは著名ではない。作曲家としての評価は、「優秀ではあるが、個性に欠ける」といったものであり、現代ではよく演奏される作品は無い。彼の作品には、多数のヴァイオリン曲(三つの協奏曲を含む)とシェイクスピアの「ハムレット」、「ヘンリー4世」のための序曲などがある。また、多くの他の作曲家のヴァイオリン協奏曲のカデンツァを作っており、その中にはベートーヴェンとブラームスの協奏曲がある。
[編集] 教育者として
教育者としてベルリン高等音楽学校の校長をつとめるなど、教師としても人望と名声に恵まれ、レオポルト・アウアーやイェネー・フバイを輩出した。これらの門人もまた演奏家ならびに教師として傑出しており、アウアー門下のエフレム・ジンバリストやヤッシャ・ハイフェッツ、ナタン・ミルシテイン、小野アンナ、フバイ門下のヨゼフ・シゲティもヨアヒムの孫弟子になる。邦人ヴァイオリニストの中でも、小野アンナ門下の諏訪根自子、ジンバリスト門下の江藤俊哉、シゲティならびにミルシテイン門下の前橋汀子、ハイフェッツ門下の清水高師など、ヨアヒム直系の演奏家は数多い。
[編集] エピソード
ヘンレイのヴァイオリン製作者名鑑によると、ヨアヒムはフランス滞在中にはフランスの弦楽器製作者シャルル・ジャン・バチスト・コリン=メジン(?)制作のヴァイオリンで演奏したとのことである。
[編集] 関連項目
カテゴリ: ハンガリーのヴァイオリニスト | ドイツのヴァイオリニスト | 1831年生 | 1907年没