ロシア第一革命
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ロシア第一革命(-だいいちかくめい、露:Революция годов в России(Revolyutsiya godov v Rossii))とは、1905年に発生したロシアの革命である。反政府運動と暴動がロシア帝国全土に飛び火した。特定の指導者がいたわけではなく、原因や目的は単純なものではなかった。
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[編集] 背景
騒乱がロシア帝国では日常的なものになっていたとはいえ、1905年以前の数十年間は、深刻な騒動は、殆どなかった。議論を呼んだ1861年のアレクサンドル2世の農奴解放以降政治に対する不満は増大していった。農奴解放は貴族への多年にわたる「賠償金」とわずかばかりの法律上は認められた人民の自由により危険なくらいに不完全なものであった。人民の権利は、依然として階級ごとに厳格に規定された義務と規則に縛られていた。
農奴解放はロシアが封建的専制政治から市場が支配する資本主義にゆっくりと移行する1860年代に唯一始まった政治・法律・社会・経済の変動である。一連の改革は、経済・社会・文化を構造的に解放したとはいえ、政治体制に変更は見られなかった。改革を試みることは、君主制と官僚制度に厳しく阻害された。例えば40以下の自治体で行うと合意した開発さえ制限され、実施されたのは50年も経ってからであった。期待が膨らんでも実行過程で制約を受け、結局反乱に発展するような不満を生み出して行った。反乱に加わる人々に「土地と自由」の要求は革命でこそ実現するという考えが生まれた。
革命運動は専らインテリゲンツィアの活動から生まれたと言っても良い。この運動はナロードニキと呼ばれた。この運動は個別に行われたものではなかったが、各々の主張により様々な集団に分かれていった。初期の革命思想は、貴族のアレクサンドル・ゲルツェンの農奴解放支援とゲルツェンのヨーロッパ社会主義とスラブ的農民集団主義に起源がある。ゲルツェンはロシア社会は依然として産業化が未発達であると言い、革命が起きてもプロレタリアートがいないために革命による変動の基本はナロード(訳注:人民)とオブスチナ(原注:農村共同体)であるとする思想に共鳴した。
他の思想家は、ロシアの農村は非常に保守的で、他の誰でもない家族や村、共同体を大切にしていると反論した。こうした思想家は、農民は自分達の土地のことしか考えず、民主主義や西洋の自由主義には深く反対していると考えた。後にロシアの思想は、後の1917年の革命で使われる概念である革命の指導的階級という考えに引き寄せられていった。
1881年3月1日(旧暦)、アレクサンドル2世は土地と自由(Zemlya i volya)党の分派である「人民の意志」派(Narodnaya volya)の放った爆裂弾で暗殺された。極端に変革を望まないコンスタンチン・ポベドノスツェフから深く薫陶を受けた大保守主義者のアレクサンドル3世が即位した。
アレクサンドル3世の下でロシアの政治警察部門(オフラナまたは、オフランカ)は事実上国中の革命運動と初期の民主化運動の両方の抑圧を行った。オフランカは革命集団を投獄したり追放することで弾圧した。革命組織に属する者は、しばしば抑圧を逃れて移住した。西欧に移住したロシア人思想家は、初めてマルクス主義に触れることになった。最初のロシア人マルクス主義団体は、1884年に結成されたが、1898年までは小規模な集団であった。
1880年代と90年代の社会の停滞が齎した明確な違いの中で、当時のロシアの低い技術水準と関連する工業化において大きな近代化が進行した。この成長は続き、シベリア鉄道建設と「ヴィッテ体制」による改革で1890年代に急成長した。セルゲイ・ヴィッテは1892年に大蔵大臣になり、絶え間ない財政赤字に直面した。経済を押し上げ外国の投資を呼び込むことで歳入増を図った。1897年、ルーブリを金本位制とした。経済成長はモスクワ、サンクトペテルブルク、ウクライナ、バクーなどの数地区に集中した。およそ3分の1は外国からの投資で、外国の投資は活気に溢れていた。
1905年までに革命集団は1880年代の圧制の打撃から回復していた。マルクス主義のロシア社会民主労働党は1898年に結成され、1903年、メンシェヴィキとボリシェヴィキに分裂した。ヴラディーミル・ウリャノフ(レーニン)は『何をなすべきか』を1902年に出版した。社会革命党は1900年にハリコフで創設され、「戦闘組織」は1905年以降も有名な政治家を多く暗殺した。標的になった人に共に内務大臣で1902年に暗殺されたドミトリー・シピャーギンと後任のヴャチェスラフ・プレーヴェ(1904年)がいる。こうした暗殺で警察に更に強権を与えることになった。
日露戦争は当初は広く支持されたものの、既に戦争は失敗であり戦争の目的も不明確なものだという考えが人民に広まっていた。農奴解放による深刻な不公平は、再検証されることになり、農民は国中のあらゆる農園を焼き討ちするようになっていた。1890年代の好景気は、停滞期に入り、労働者は最悪の状況に不満を口にするようになった。1903年、西部のロシア軍の3分の1が、「鎮圧活動」に従事していた。
ニコライ2世は1894年に皇帝に即位した。先帝アレクサンドル3世同様政治改革を一切認めることはなかった。
[編集] 革命か?
1905年1月29日(旧暦1月9日)、「血の日曜日」として知られるこの日、サンクトペテルブルクでデモ行進が行われた。当時サンクトペテルブルクを離れていたツァーリの知らないところで冬宮に軍隊が配置された。死者の数については様々な推計があるが、一般には1000人前後が殺されたり負傷したと見られている。
この事件はロシアの多くの団体が抵抗運動を始めるきっかけになった。それぞれにそれぞれの目的があり、同様の階級の間でさえ、全体の方向性はなかった。主な活動家は、農民(経済問題)、労働者(経済問題と反工業化)、インテリゲンツィアと自由主義者(民権)、軍隊(経済問題)、小規模な全国組織(政治問題と文化活動における自由)であった。
[編集] 農村の騒乱
農民の経済状態は、凄まじい状態だったが、統一した指導もなくそれぞれの運動体はそれぞれの目標に向かっていた。騒乱は年間を通じて拡大し、初夏と秋に隆盛になり、11月に頂点に達した。小作人は小作料の低減を求め、作男は賃上げを求め、土地管理人は所有地拡大を求めた。土地の強奪(時に暴力や焼き打ちが行われた上で行われた)や略奪、森林での違法な狩猟と伐採などが行われた。サマーラでは農民が自分達の共和国を作り、政府軍に鎮圧されるまで違法な伐採と分配を行った。行動に現れる憎悪の程度は、農民の状態に直接関連があり、グロドノとカウナス、ミンスク近郊の幾分状況に恵まれた地域では殆ど破壊活動がなかった一方で、リヴォニヤとクールラントの無産大衆は襲撃と焼き打ちを行った。全体として3228件の騒乱を鎮めるのに軍隊の投入が必要で、地主は2900万ルーブリの損害を被った。
ロシアの急進的な政党は農村の騒乱に急速に浸透して行った。5月の全露農民連合結成に繋がる、農民の活動を組織し調整する協議会を結成する動きがあった。この協議会は地域代表からなり、社会革命党と緊密な関係があったが、現実的で首尾一貫した要求を打ち出せなかった。
1905年の事件後、農村の騒乱事件は1906年に再発し、1908年に終息した。政府が譲歩したことは、土地の再分配を政府が支持したと見られ、その為に土地管理人と「農民でない」地主を追い出す襲撃が起きた。全国的な土地再分配はすぐにでも行われると考えられ、農民は再分配は既定のことのように捉えた。農民は酷く抑圧された。
[編集] ストライキ
抵抗運動に参加する労働者の手段は、ストライキであった。血の日曜日事件が起きるとすぐにサンクトペテルブルクで大規模なストライキが起き、40万人を越える労働者が、1月末までに参加した。このストはすぐにポーランドやフィンランド、バルト海地域の工業地帯に波及した。リーガではデモ参加者80人が1月13日(旧暦)に殺され、数日後ワルシャワでは100人を越えるスト参加者が路上で射殺された。ストライキは2月までにカフカスに、4月までにウラル地方以遠で起きるようになった。3月、学生がストライキに共鳴したために高等教育機関は全て強制的に年内は閉鎖されることになった。10月8日(旧暦)の鉄道労働者のストライキは、あっという間にサンクトペテルブルクとモスクワのゼネストに発展した。短期間だが200を超える工場でストライキを組織する労働者協議会サンクトペテルブルクソビエト(大半が参加者がメンシェヴィキ)が結成されることになった。10月13日(旧暦)までに200万人を超える労働者がストライキに参加したが、鉄道労働者は殆どいなかった。
[編集] 暗殺
1901年から1911年にかけて革命運動により1万7000人(1905年から1907年は9000人)が殺された。[1] 警察の統計によると、1905年2月から1906年5月にかけて殺された人数はこうなっている。
- 総督、知事、市長 8人
- 副知事とグベルニヤ(訳注:当時の行政区分のひとつ)議員 5人
- 警察本部長官 21人
- 国家憲兵将校 8人
- 将軍 4人
- 将校 7人
- 様々な階級の警察官 846人
- 秘密警察(オフランカ)警察官 18人
- 神父 12人
- 公務員 85人
- 地主 51人
- 工場所有者 54人
- 銀行家と資産のある商人 29人
社会民主労働党、社会革命党、アナーキストの武装集団と「一匹狼のテロリスト」による暗殺が行われた。社会革命党の「戦闘組織」(Boevaia Organizatsiia)により1905年以降有名な政治家が多く暗殺され、この中に内務大臣が二人(ドミトリー・シピャーギン(1902年)と後任のヴャチェスラフ・プレーヴェ(1904年)がいる
[編集] 結果
政府の反応は、非常に早かった。ツァーリは大きな変革は拒否する考えで、1月18日(旧暦)、スヴャトポルク=ミルスキーを解任し、後任にブルイギンを任命した。叔父でモスクワ総督のセルゲイ大公が2月4日(旧暦)に暗殺されると、多少の譲歩に応じた。2月18日(旧暦)、ツァーリはブルイギン宣言を発した。この宣言は「ツァーリを輔弼する」議会創設、信教の自由、ポーランド人がポーランド語を使用すること、農民の弁済額の減額を認めるものであった。上記の譲歩をしても秩序の回復はできず、2月6日(旧暦)、ツァーリの諮問に応じるドゥーマの創設に応じた。ドゥーマの権限が余りに小さいことと選挙権に制限が加えられていることが明らかになると、騒乱は更に激化し、10月にはゼネストにまで発展した。
10月14日(旧暦)、十月宣言をヴィッテとアレクシス・オボレンスキイが執筆し、ツァーリに提出した。宣言は9月のゼムストヴォ(訳注:ロシアの地方議会)の要求(基本的な民権の承認、政党結成の許可、普通選挙に向けた選挙権の拡大)に沿った内容であった。ツァーリは3日かけて議論したが、虐殺を避けたいツァーリの意志と他の手段を講じるには軍隊が力不足という現状から、遂に1905年10月30日(旧暦10月17日)に宣言に署名した。ツァーリは署名したことを悔しがり、「今度の背信行為は恥ずかしくて病気になりそうだ」と言った。
宣言が発布されると、あらゆる主要都市で宣言を支持する自発的なデモが起こった。サンクトペテルブルクなどのストライキは、正式に終了するか急速に消滅した。恩赦も行われた。譲歩は騒乱に対する新たな残忍な反動を伴っていた。公然と反ユダヤの攻撃を行う保守層の逆襲もあり、オデッサでは一日で約500人が殺された。ツァーリ自身は革命運動に参加した90%はユダヤ人だと言った。
暴動はモスクワで勃発したものを最後に12月に終息した。12月5日から7日まで(旧暦)ボリシェヴィキは労働者に対する脅迫と暴力でゼネストを強行した。政府は7日に派兵し、市街戦が始まった。1週間後、セメノフスキイ連隊が展開し、デモを粉砕するために大砲を使用し、労働者が占拠する区域を砲撃した。12月18日(旧暦)、約1000人が死亡し、都市が廃墟になって、ボリシェヴィキは投降した。その後の報復で数知れぬ人々が殴打され殺された。
[編集] 波及
結成された政党にリベラルな知識人政党立憲民主党(カデット)、農民を指導者とする労働団(トルドヴィキ)、自由主義には消極的な10月17日連合(オクテャブリストゥイ)、改革に好意的な地主連合があった。
25歳以上の市民を4階層に分けて選挙権を認める選挙法が1905年12月に公布された。ドゥーマの最初の選挙は、1906年3月に実施され、社会主義者とエス・エル、ボリシェヴィキが棄権した。第一ドゥーマの議席は、カデットが170、トルドヴィキが90、無所属の農民代表が100、様々な傾向を持つ民族主義者が63、オクテャブリストゥイが16であった。
1906年4月、政府は新しい秩序に制限を加える基本法を公布した。ツァーリは専制君主として行政、外交、教会、軍事を完全に支配するものと確認された。ドゥーマはツァーリが任命する評議会より下位の会議とされた。ドゥーマは法案を承認しなければならず、評議会とツァーリが法であり、「例外として」政府はドゥーマで審議させることができた。
同じ4月にロシア財政の建て直しのために約9億ルーブリの借り入れ交渉を終えると、セルゲイ・ヴィッテは辞任した。ツァーリはヴィッテに「不信感」を抱いたようである。後年「ロシア帝国末期の最も傑出した政治家」として知られるヴィッテの後任は、皇帝の腰巾着イワン・ゴレムイキンである。
更に自由化の要求が高まり活動家に向けた綱領により第一ドゥーマは1906年7月にツァーリの命令で解散した。カデットが望み政府が恐れた割には民衆からの広汎な反応はなかった。しかし、ピョートル・ストルイピン暗殺未遂でテロリストに対する公開裁判が始まり、8ヶ月以上に亘って1000人を超える人々が絞首刑となった(絞首台はストルイピンのネクタイと渾名された)。
本質においてロシアは変わらず、権力はツァーリが握り続け、富と土地は、貴族が所有し続けた。しかし、ドゥーマの創設と弾圧は、革命団体を崩壊させることに成功した。指導者は収監されるか亡命し、組織は混乱し、迷走した(ドゥーマに参加するかしないかしかなかった)。上記により起きた分裂は、第一次世界大戦に触発されるまで個人で活動する過激派のまま続いた。
[編集] フィンランド
フィンランド大公国では1905年のゼネストにより4階級の議会が廃止されることになり、近代的なフィンランド議会が創設された。1899年に始まったロシア化政策が一時停止されることになった。フィンランドでは前年1904年6月17日に、フィンランド総督ニコライ・ボブリコフが暗殺されるなど民族主義が高まっており帝政への反発が広がっていた。