五味隆典
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五味隆典 | |
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基本情報 | |
本名 | 五味隆典 |
あだ名 | 天下無双の火の玉ボーイ |
階級 | ライト級(PRIDE) ウェルター級(修斗) |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1978年9月22日 |
出身地 | 日本 神奈川県愛甲郡愛川町 |
現居住地 | 日本 |
スタイル | レスリング、ボクシング |
戦績 | |
総試合数 | 25(PRIDE、修斗) |
総勝利数 | 22 |
KO勝ち | 10 |
一本勝ち | 4 |
判定勝ち | 0 |
総敗北数 | 3 |
KO負け | |
一本負け | |
判定負け | |
引き分け | |
無効試合 |
五味隆典(ごみ たかのり、1978年9月22日 - )は、神奈川県愛甲郡愛川町出身の総合格闘家。身長173cm、体重72.9kg。久我山ラスカルジム所属。現在、総合格闘技73kg級で世界最強との評価を得ている選手。日本人総合格闘家パウンド・フォー・パウンド最強との呼び声も高い。
KO、一本での勝利(本人曰く『スカ勝ち』)にこだわるアグレッシブな試合が持ち味。レスリング仕込みのグラウンド技術、プロボクサー並みのボクシング技術、組んでからも強力なひざ蹴りと、すべてにおいて高い実力を持つトータルファイター。
現在PRIDE武士道・ライト級(~73kg)を主戦場にしている。
入場曲はTHE MAD CAPSULE MARKETSの「SCARY -Delete streamin' freq. from fear side-」。 矢沢永吉のファン。
目次 |
[編集] 来歴
16歳の時、木口道場レスリング教室に入門。木口宣昭会長のもとレスリングを学び、総合格闘技を始める。
[編集] 修斗時代
1998年11月、修斗にてプロデビュー。以降約5年間無敗を続け、2001年12月には佐藤ルミナに圧勝し第5代修斗ウェルタ-級王座を奪取。無敗街道を走っていたが、2003年8月にヨアキム・ハンセンに敗れ連勝を13で止められた。また10月にもハワイで行われたランブル・オン・ザ・ロックでB.J.ペンに敗北を喫する。
[編集] PRIDE武士道時代
その打撃技術の高さから、当初はK-1参戦が噂されていた五味だったが、総合格闘技の道を選びPRIDE武士道に。
2004年2月15日のPRIDE武士道-其の弐-で初参戦し、シュートボクセのジャドソン・コスタに何もさせずKO勝利。その後それまで総合格闘技無敗だったハウフ・グレイシーをわずか6秒で葬るなど海外選手を相手に6連続1RKO勝利を記録。
2005年9月25日に開催されたPRIDEライト級トーナメントに出場し、一回戦で川尻達也と対戦。格闘技史上に残る激闘を演じ、見事1R裸締めで一本勝ちを収めた。準決勝でも以前KO勝ちし、リベンジに燃えるルイス・アゼレードを僅差の判定で返り討ち。大晦日の決勝戦、相手は修斗時代の先輩でもある桜井"マッハ"速人だったが、見事1RKO勝利しトーナメント優勝。翌2006年3月31日、初代PRIDEライト級王者に認定され、真に世界最強の栄冠を手に入れた。
[編集] 王座獲得後
しかし、王者としての初戦となった2006年4月2日の『PRIDE武士道 -其の拾-』において、ZSTGP王者のマーカス・アウレリオに肩固めでまさかの一本負けを喫してしまう。
復帰戦となった2006年8月26日の『武士道 -其の十二-』では、フランスの新鋭デビット・バロンに一本勝ちを収め、復活をアピールした。なお、翌日の会見では11月5日の次大会『武士道 -其の十三-』においてマーカス・アウレリオとのリベンジも兼ねたタイトルマッチを希望すると発言。その発言通りアウレリオとの再戦(ライト級タイトルマッチとして)が組まれた。試合は両者共に前に踏み出せずに膠着が続き、スプリットデシジョンの微妙な判定ながらも辛勝。王座の防衛に成功した。
2006年大晦日の『PRIDE男祭り2006』にて、アウレリオを破った石田光洋と対戦することが決まり、試合前から舌戦を繰り広げていたが、結果は五味の1RKO勝ち。改めて「五味強し」を印象付けた。
2007年の『PRIDE.33』で王者として初のアメリカ進出。試合前からジョルジュ・サンピエールらUFC王者と戦いたいとコメントをしていたが、ニック・ディアスのリーチ差の前に踏み込めきれずダメージを蓄積され、あせったのか大振りのパンチしか出せず最後はフットチョークを極められ一本負け。アメリカ一戦目で早くも躓き、精神面の弱さや寝技やグラウンドパンチ能力の低さなど、格闘家としての能力の底を見せてしまう結果となった。
[編集] スカ勝ち
修斗時代には判定勝利も多かった五味だが、PRIDE武士道では実にKO率8割を誇り、しかもその全てが1Rで決着している。五味自身、KO勝利を「スカ勝ち」と呼び非常にこだわっており、そのことは2004年大晦日のPRIDE男祭りでのマイクパフォーマンスでの発言「大晦日にね、判定?駄目だよ、KOじゃなきゃ!」などにもはっきりと覗える。
しかし修斗世界王者時代から「燃えつき症候群」と呼ばれるほど目標を失ったあとのモチベーションが低下することが指摘されており、事実PRIDE武士道でも並み居る強豪を破り初代王者となった後の試合では明らかな練習不足とモチベーションの低さを露呈し、敗北した。また、修斗時代より柔術系の選手を苦手としており、敗戦あるいは苦戦した相手は、全て柔術系の選手である。
[編集] その他
- そのあまりにも強すぎる実力ゆえ、PRIDE統括本部長・高田延彦に「軽量級のヒョードル」と称されている。
- 本人曰くローキックに耐性があるらしく、対戦した川尻達也などは蹴った川尻自身が足を負傷している。
- THE MAD CAPSULE MARKETSの大ファン。トランクスにロゴを入れ、現在の入場曲にもSCARY -Delete streamin' freq. from fear side-を使用している。また矢沢永吉を崇拝している。
- HERO'S、K-1を主戦場にしていた須藤元気とは昔からの友人であり、共に練習をする仲であったため、「一緒にリングを盛り上げよう。」と約束していた。
今でこそPRIDE武士道のスターである五味だが、修斗時代はそれほど人気は無く、「どこまで勝ち続けられるのか」ではなく「誰が彼を倒すのか」という常にアウェーでの戦いだった。特に修斗ウェルター級王座決定戦で修斗のカリスマ、佐藤ルミナに判定勝ちした試合では「ルミナさんに勝って欲しいという関係者、会場の雰囲気を感じた」と五味は語っている。実際、そういう空気は誰もが感じており、タイトルを獲得して喜ぶ五味と対照的に、会場は冷めていた。ヨアキム・ハンセンに敗れたのもモチベーションの低下故だと言われている。しかし実力至上主義であるPRIDE武士道に参戦し、モチベーションが回復。一気に今の地位と人気を手に入れた。
[編集] その他2
- 五味はトレーディングカードゲーム「ディメンション・ゼロ」のイメージキャラクターでもあり、本人出演(本人がCM台本を読んだ)のCMもある。そのラジオCMはブロッコリー系の番組(「温子と隼人のアクエリ放送局」など)で聴くことが出来る。
- 従姉妹はAV女優の飯島夏希
[編集] 戦績
- アマチュア総合格闘技: アマ修斗 4勝1敗
- プロ総合格闘技: 26戦 23勝 11KO 4S 3敗 (総合戦績)
- プロ修斗: 13戦 12勝 2KO 2S 1敗
- PRIDE: 13戦 11勝 9KO 2S 2敗
- ROTR:1戦 1敗
26戦23勝 (11(T)KO, 一本勝ち, 判定勝ち)3敗(判定負け)分無効試合 | |||||||
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | イベント名 | 開催年月日 | |||
× | ニック・ディアス | 2R 1'46" フットチョーク | PRIDE.33 The Second Coming | 2007年2月24日 | |||
○ | 石田光洋 | 1R 1'14" KO | PRIDE 男祭り 2006 -FUMETSU- | 2006年12月31日 | |||
○ | マーカス・アウレリオ | 3R終了 判定2-1 | PRIDE 武士道 -其の十三- | 2006年11月5日 | |||
○ | デビッド・バロン | 1R 7'10" チョークスリーパー | PRIDE 武士道 -其の十二- | 2006年8月26日 | |||
× | マーカス・アウレリオ | 1R 4'34" 肩固め | PRIDE 武士道 -其の拾- | 2006年4月2日 | |||
○ | 桜井速人 | 1R 3'56" KO | PRIDE男祭り 2005 頂-ITADAKI- | 2005年12月31日 | |||
○ | ルイス・アゼレード | 2R終了 判定3-0 | PRIDE 武士道 -其の九- | 2005年9月25日 |
[編集] 獲得タイトル
- PRIDE GP 2005 ライト級トーナメント優勝
- 初代PRIDEライト級王座
- 第5代修斗ウェルタ-級世界王座
- コンバットレスリング 98年69kg級3位 01年69kg級優勝 02, 03年74kg級優勝