公団住宅
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公団住宅(こうだんじゅうたく)は、1955年に発足した日本住宅公団(1981年に住宅・都市整備公団、1999年に都市基盤整備公団、2004年に都市再生機構へ改組)が供給した住宅の内、主に賃貸タイプの集合住宅のことを言う。
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[編集] 概説
現在、旧都市公団はURとなり、公団住宅という名称は無くなったが、今でも長年の慣習で公団住宅と呼ばれることも多い。
公団が供給する住宅には、賃貸タイプ(集合住宅)と分譲タイプ(一戸建て・集合住宅)があった。
- 賃貸の物を旧公団住宅(現在のUR賃貸住宅)と呼ぶ。
- 集合住宅(賃貸・分譲)を総称して旧公団住宅と呼ぶ場合もある。
日本住宅公団は1955年に設立された。当時は高度経済成長期を前にした時代で、都市への人口流入が進み、住宅の絶対数が不足していた。そこで、中堅所得者向けに都市近郊で良質な住宅を供給するため公団が設立され、1956年に日本初の公団住宅となる金岡団地(堺市、賃貸)と稲毛団地(千葉市、分譲)が完成。1960年代の高度成長期には東京や大阪近郊でほぼ画一化された多数の団地(多摩ニュータウン、千里ニュータウン、泉北ニュータウンなどの分譲及び賃貸住宅)が建設された。しかし市場原理を無視して分譲住宅の建設を続けたため、1990年代には大量の売れ残りがあることが問題になった。
公団住宅はDK・LDKなどの間取りやシステムキッチンを普及させ、高度成長期の庶民にとって憧れの生活空間を提供し、民間の住宅建設のモデルになった。一方、画一的な住宅建設が個性の無い街並みを生み出し、日本人の住環境を型にはめてしまった側面もある。また、特に大量供給期の物件は今日的な基準からは設備に不十分な点が多く、リニューアルも困難で、老朽化した住宅の取扱いが課題になっている。
[編集] 大量供給期の公団住宅
よく見られるタイプとして、エレベーター無し5階建て、階段室を中心に部屋を配置、全戸南向き、同じデザインの複数棟が連続して建ち並ぶ、といった物がある。
- 小滝台マンション(1957年、中野区)
- 晴海高層アパート(前川國男設計)
- 豊四季台団地
- 常盤平団地
- 高島平団地
- 松原団地
- ひばりが丘団地
- 百合丘第一・第二団地(川崎市麻生区)
- 次の町田市内3団地・横浜市内各団地はいずれも同時期に同デザインで建築された。
など
[編集] 後期の公団住宅
画一的な公団住宅への反省から、住戸タイプを多様化したり、凝ったデザインなど様々な工夫が行われるようになった。
[編集] 公団の変遷
- 1955年:日本住宅公団設立
- 1975年:宅地開発公団設立
- 1981年:日本住宅公団と宅地開発公団を統合し、住宅・都市整備公団(住都公団)設立
- 1999年:都市基盤整備公団法により、都市基盤整備公団(都市公団)に改組
- 2004年7月1日:都市再生機構法により、都市基盤整備公団と地域振興整備公団の地方都市開発整備部門を統合して、「独立行政法人都市再生機構」に改組
- 都市再生機構(Urban Renaissance Agency)発足後、従来公団住宅と呼ばれていた賃貸住宅はUR賃貸住宅に変わった。
[編集] 公営住宅・公社住宅との比較
都市機構の賃貸住宅(旧公団住宅)は公営住宅と(誤って)混同されることがあるが、本来中堅所得者向けであり、定められた額以上の所得が無いと入居できない。公営住宅は公営住宅法に基づく低所得者向けの住宅であり、定められた額以下の所得でないと入居できない。
また、都道府県で地方住宅供給公社法に基づく住宅供給公社を設立し、住宅供給(分譲・賃貸)を行う場合もある。これは公社住宅といわれ、やはり一定以上の所得を持つ層を対象にしている。
公営住宅と同じく、老朽化した公団・公社住宅の中には、空き家の増加や住民の高齢化といった課題を抱えたところも見られる。
[編集] 既存の公団住宅の課題
高度成長期に大量に建設された公団住宅は現在、建物の老朽化、設備の不適合(狭い、エレベータ設備が無いなど)、住民の高齢化などで多くの課題を抱えている。
他にも、一つ一つの部屋が狭いために子供を持つ若い世代が入居することが減っている一方で、外国人でも一定の収入を上回っていると入居が容易なため、川口芝園団地のように隣接した小学校の児童の多くが外国人児童(2003年の入学児童の4割が中国籍)といったところもある[1]
旧公団住宅(賃貸)の建替え問題:管理する都市再生機構側が建替える場合、家賃が高額化することに居住者の反対が予想されることなどから、積極的に建替えを進めてゆくことは困難な状況となっているケースが多い。