呉清源
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呉清源(ご せいげん、1914年5月19日 - )は、囲碁の棋士。中国出身、日本棋院瀬越憲作名誉九段門下。本名は泉、清源は通称名。一時日本棋院を離れて読売新聞嘱託となるが、現在は日本棋院名誉客員棋士。全盛期には日本囲碁界の第一人者として君臨し、「昭和の棋聖」とも称される。木谷実とともに「新布石」の創始者としても知られる。
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[編集] 経歴
[編集] 来日まで
呉清源の父、呉毅(炎曾)は平政院に務める官吏であったが、日本に留学していたことがあり、その時に囲碁に興味を持ち方円社に通うなどして初段に2子ほどの腕前となり、帰国時には多くの棋書を持ち帰った。帰国後福州に住んだが、結婚して呉清源誕生後に北京に移る。呉清源の原籍は福建省にあり先祖は代々官職についていたが、暮し向きは傾き始めていた。
4歳のときにヘルニアに罹り、治りきらないままとなる。5歳から父に四書五経を学ばせられる。7歳のとき囲碁を教えられ、父が日本から取り寄せた棋書などにより学ぶ。数年で周りには対等に相手ができるものがいなくり、神童と呼ばれた。北京の碁会所「海豊軒」では当時の中国の一流棋士である顧水如、汪雲峰などと打つようになり、呉は五子ぐらいの手合だった。顧水如の紹介で段祺瑞と対局し、月100元の学費援助も受けるようになる。11歳で父が亡くなった後、「来今雨軒」で碁を打つようになって天才少年と評判になり、日本人のクラブではその評判を聞いて自分たちのクラブで碁を打つよう呉を招待した。呉が噂にたがわぬ腕を持つと分かると、訪中経験もある日本の棋士瀬越憲作と、呉を日本に呼ぶことが相談される。日本の新聞社も中国に駆けつけこの天才少年のことを報道した。
1926年に岩本薫六段と小杉丁四段が訪中し、呉は岩本に三子で2連勝、二子で負け、小杉に二子で勝ちとなる。続いて1927年に訪中した井上孝平五段に呉は二子で勝ち、先で1勝1敗とし、瀬越はこの棋譜を見て「秀策の再来」と述べたとされる。瀬越は犬養毅や大倉喜七郎などの助力も受けて正式な招待状を送り、1928年になると準備のために弟子の橋本宇太郎四段を北京に派遣した。この時の試験碁で、呉は橋本に先番で2連勝する。呉は1928年14歳のときに、母と兄と共に日本に渡った。
日本棋院では段位を決めるための試験碁が行われ、篠原正美四段に先で勝ち、本因坊秀哉名人に二子で勝ち、村島義勝四段、前田陳爾四段らにも勝ち、1929年に呉は三段の段位を認められた。この試験碁は時事新報に掲載されたが、続いて呉の対局は「呉少年碁戦」と題して行われ、その成績は、先番勝-篠原正美四段、先番負-橋本宇太郎四段、先番負−小野田千代太郎六段、先番負ー木谷実四段。この木谷戦で、先番の呉は初手を天元に打ち、3手目以降はマネ碁という手段に出て話題となった(呉は65手目にマネ碁を止める)。
[編集] 新布石時代
この後、呉は大手合は1年間休場するが、その他で1928年から29年にかけての戦績は13勝7敗2ジゴ。その中には秀哉との三子局もあった(呉11目勝)。1930年から大手合に出場、3年間に29勝3敗という成績を挙げ、18歳で五段に昇段する。1931年には中国から妹達を呼び寄せて暮らすようになる。1932年の時事新報の勝ち抜き戦では、18人抜きを果たす。
1933年、時事新報で木谷実との十番碁を行うが、木谷の六段昇段で中止となる。この頃呉は、当時小目中心だった布石で、星や三々を試みるようになる。十番碁5局目打ち掛け後の夏、木谷は長野県の地獄谷温泉に呉を誘い、そこで木谷の考える中央重視の布石を研究し、呉も関心を持つ。1933年秋の大手合ではこれを実戦で打ち、呉1等、木谷2等となり、二人の打ち出した布石法は「新布石」と呼ばれ話題になる。翌1934年には、平凡社から安永一をライターにして、木谷、呉の共著で「囲碁革命・新布石法」を出版し、10万部を売るベストセラーとなった。
また1933年には、読売新聞主催の「日本選手権手合」で、決勝で橋本宇太郎に勝って優勝し、10月に本因坊秀哉との記念碁を打つ。この碁で先番の呉は、1手目に当時鬼門と呼ばれていた三々、3手目星、5手目天元、という布石を打ち、大反響を呼び起こす。その後打ち掛け13回の後、翌年1月までかけて秀哉の2目勝ちとなった。
1935年に天津で、次兄の呉炎の紹介で新聞社「庸報」の社長に会い、紅卍会に入信、修行の後に帰国する。1936年には日本に帰化、正式名を呉泉(ご いずみ)とする。名前は1940年に呉清源に戻した。この年、結核との診断を受け、長野県の富士見高原診療所で1年間療養する。
[編集] 十番碁覇者
1939年には木谷実との三番碁を行った。その後、七段に昇段し、読売新聞の企画で、この9月から1941年までかけて木谷実との打込み十番碁を行う。6局目まで呉の5勝1敗で先相先に打込み、6勝4敗で終了。対局に鎌倉の建長寺、円覚寺、鶴岡八幡宮などを使い、後に「鎌倉十番碁」と呼ばれた。
1939年から開始された第1期本因坊戦では、六段級トーナメントを勝ち抜いて、最終トーナメントに進出。4次にわたるトーナメントの2回で優勝したが、残り2回で前田陳爾、加藤信に初戦敗退したのが響いて合計得点で3位となり、本因坊決定戦への進出はならなかった。
1941年には棋正社から別れた瓊韻社の雁金準一と十番碁を行う。この時雁金が八段で呉が七段なので呉先相先の手合割となるところ、日本棋院では雁金の八段を認めるかの議論があり、雁金の意向で互先で打ち、5局まで打って呉の4勝1敗で打ち切りとなった。
1942年に木谷実とともに八段昇段。同年、中原和子と結婚。戦争の激化に伴い母と妹は1941年に中国に帰国し、また紅卍会の本尊を置いていた篁道大教から分かれた璽宇教の教主峰村教平の依頼で、1942年に中国に渡って紅卍の道院を訪れるなどした。次いで同年の瀬越憲作、橋本宇太郎らの訪中にも同行したが、この時南京市街では呉の首に懸賞金をかけた看板を橋本が見たと言われている。戦時中には呉にも徴用の令状が来たが、身体検査で帰された。
1942年12月に新進の藤沢庫之助六段と十番碁を開始(第一次)。当時先番無敵と言われた藤沢の定先に対し、7局目まで4勝3敗と勝ち越すが、藤沢が残りを3連勝し、1944年8月までで4勝6敗とする。これは呉の十番碁で唯一の負け越しとなった。1945年には空襲に遭い、5月25日に住んでいた中野の家も焼けてしまい、大田区の璽宇教信者の家に住むようになる。その後1948年までの4年間、璽光尊とともに金沢、山中湖、八戸など各地を転々とする生活を続けた。
1946年になって戦後初めての対局として、兄弟子である橋本宇太郎八段との十番碁が行われ、8局目まで6勝2敗で先相先に打込む。橋本とは1950-51年に先相先で第二次十番碁を行い、5勝3敗2ジゴとなった。1948年には岩本薫本因坊との十番碁で、6局目までで5勝1敗に打込む。
1949年に藤沢庫之助が大手合で九段昇段し、続いて呉が日本棋院の六、七段の棋士との高段者総当り十番碁で8勝1敗1ジゴの成績を挙げ、九段に推挙された。日本で二人だけの九段となった両雄は、1951年から第二次十番碁を行い、9局目までで呉が6勝2敗1ジゴで先相先に打込む。続いて1952年から藤沢との第三次十番碁では、6局目までで5勝1敗と定先に打込んで終了。
続く十番碁の相手として、1953-54年に坂田栄男八段、55-56年に高川秀格本因坊と対戦。坂田にはその直前に先相先の六番碁で負け越していたが、互先の十番碁では8局までで6勝2敗に打込んで終了。高川は本因坊4連覇中だったが、毎年の本因坊対呉清源三番碁では連敗しており、十番碁でも8局目までで打ち込まれ、呉の6勝4敗で終了。これで呉は主だった棋士をすべて先相先以下に打ち込んだことになり、誰の目にも名人の資格ありと見えたが、実際に名人に推されることは無かった。この高川戦が最後の十番碁となる。
[編集] 最強戦・名人戦
呉を嘱託として十番碁を主催していた読売新聞では、1957年に「実力名人を決める」との謳い文句により「日本最強決定戦」、別名「六強戦」を開始する。これは呉、藤沢朋斎、橋本宇太郎、坂田栄男、木谷実の各九段と高川本因坊の6人によるリーグ戦で、呉としては既に打込んだ相手との互先の対局となったが、第1期は8勝2敗の成績で優勝。翌年の第2期には5勝5敗で3位、61年の第3期には6勝3敗1ジゴで坂田と同率優勝を果たす。この第1期優勝時には、橋本から呉を名人に推してはどうかという提案もされたが実現しなかった。
この約30年に渡り卓越した成績を挙げ、囲碁界に君臨したその期間は「呉清源時代」とも呼ばれた。1961年8月、紅卍会の日本支部設立の調整役をしていた呉は、目白の事務所に向かう途中でオートバイにはねられる。この事故で右足と腰の骨折を負い、東大病院分院に2ヶ月入院した。これ以後、事故の後遺症による頭痛などに悩まされ、年齢的にも40代後半にかかったこともあり、次第に新進の棋士達の追撃を受けるようになる。
61年から1962年にかけて行われた第1期名人戦では、13名のリーグ戦で 呉と藤沢秀行が9勝3敗の成績で同率になるが、呉の最終局の対坂田栄男戦が呉のジゴ勝ち(コミ5目)であったため、ジゴ勝ちは正規の勝ちより下位とするこの時の規定により、藤沢が第1期名人となる。第2、3期のリーグでは呉は2位だったが、第4期には8戦全敗となって遂にリーグ陥落し、この期には弟子の林海峰が名人位に就いた。1976年にはNHK杯戦で準優勝。
[編集] 国籍と所属
敗戦後の1946年に在日華僑の圧力により、夫妻とも日本国籍を放棄し、呉は中華民国籍に、夫人は無国籍状態となった。次いで1947年に、師匠の瀬越憲作が呉の辞表を日本棋院に提出して除籍となり、読売新聞の専属棋士として読売主催の対局に専念することとなったが、当時この経緯を呉自身は把握しておらず、瀬越の動機は現在も不明のままとなっている。1949年に日本棋院から九段推挙された際には名誉客員棋士という待遇であった。読売で最強戦、名人戦には出場していたが、1965年に専属契約を解消し、他紙主催棋戦にも出場するようになる。1952年に台湾の中国囲棋会から招待を受けて台湾訪問し、呉は大歓迎を受け、大国手の称号を授与される。またこの時、当時10歳だった林海峰と試験碁を打ち、渡日を勧めた。この訪台時に夫人がパスポート申請しようとして無国籍が発覚し、再度日本国籍に戻った。
その後の1979年に再度日本国籍を取得する。
1973年の十段戦出場後は対局から遠ざかり、古希を迎えた1984年に引退。引退式はホテルオークラで行われ、記念の連碁にも多くの棋士が参加した。
大手合優勝6回、日本最強決定戦優勝2回。門下に林海峰、芮廼偉。
[編集] 年譜
- 1914年5月19日 中華民国福建省で生まれる。
- 1914年10月 一家で北京に移る。
- 1921年 父より囲碁の手ほどきを受ける。
- 1926年 囲碁の天才少年として北京で評判となり、日本人クラブで初めて日本人棋士と対局。
- 1928年10月18日 来日し、瀬越憲作名誉九段に入門。翌年、飛付三段。
- 1933年 - 木谷実と共に速度とバランスを重視した「新布石法」を考案して発表。
- 1933年 - 日本選手権優勝。10月本因坊秀哉名人との記念対局で「三々・星・天元」という革命的な布石を打つ。
- 1936年 - 日本国籍を得、呉泉と改名する。
- 1939年 - 木谷実との打込み十番碁が始まる。(6勝4敗)
- 1940年 - 呉清源に名前を戻す。
- 1945年 - 戦災で焼け出されて璽光尊と行動をともにするようになり、1948年まで続いた。
- 1946年 - 中国(中華民国)籍に戻る。
- 1949年 - 日本棋院より名誉客員の称号を受ける。
- 1950年 - 九段に推挙される。
- 1952年 - 台湾を訪問。大国手の称号を受ける。
- 1958年 - 第1期日本最強決定戦優勝。
- 1961年 - 第3期日本最強決定戦優勝。8月、交通事故に遭い、2か月入院する。
- 1967年 - 大倉賞受賞。
- 1979年 - 再度日本籍を得る。
- 1983年 - 引退。
- 1986年 - 香港中文大学の栄誉博士称号を得る。
- 1987年 - 勲三等旭日中綬章を得る。
- 2005年 - 日本棋院から囲碁殿堂にノミネートされるが、「まだ修行中の身」を理由に辞退(翌年も)。
[編集] 戦績
[編集] 十番碁
- 1933-34年 呉清源五段 3-3 木谷実五段 (互先、木谷昇段に伴い第6局で打ち切り)
- 1939-41年 呉清源七段 6-4 木谷実七段 (互先、第6局までで呉5勝1敗で先相先に打ち込む)
- 1941-42年 呉清源七段 4-1 雁金準一八段 (互先、第5局で打ち切り)
- 1942-44年 呉清源八段 4-6 藤沢庫之助六段 (藤沢先)
- 1946-48年 呉清源八段 6-3-1ジゴ 橋本宇太郎八段 (互先、第8局までで呉6勝2敗で先相先に打ち込む)
- 1948-49年 呉清源八段 7-2-1ジゴ 本因坊薫和 (互先、第6局までで呉5勝1敗で先相先に打ち込む)
- 1949-50年 呉清源対高段者総当り十番碁 呉清源八段 8-1-1ジゴ (呉はこれにより九段に推挙される)
- 1950-51年 呉清源九段 5-3-2ジゴ 本因坊昭宇 (本因坊先相先)
- 1951-52年 呉清源九段 7-2-1ジゴ 藤沢庫之助九段 (互先、第9局までで呉の6勝2敗1ジゴで先相先に打ち込む)
- 1952-53年 呉清源九段 5-1 藤沢庫之助九段 (藤沢先相先、第6局までで呉の5勝1敗で先に打ち込み、打ち切り)
- 1953-54年 呉清源九段 6-2 坂田栄男八段 (坂田先相先、第8局までで呉の6勝2敗で先に打ち込み、打ち切り)
- 1955-56年 呉清源九段 6-4 本因坊秀格 (互先、第8局までで呉の6勝2敗で先相先に打ち込む)
[編集] 本因坊対呉清源三番碁
- 1951年 呉 3-0 本因坊昭宇
- 1952年 呉 3-0 本因坊秀格
- 1955年 呉 3-0 本因坊秀格
- 1956年 呉 3-0 本因坊秀格
- 1958年 呉 2-1 本因坊秀格
- 1959年 呉 0-3 本因坊秀格
- 1960年 呉 1-2 本因坊秀格
- 1961年 呉 2-1 本因坊秀格
- 1961年 呉 1-2 本因坊栄寿
[編集] その他の番碁
- 1948年 対坂田三番碁 呉清源八段 3-0 坂田栄男七段(坂田先相先)
- 1949年 呉清源対新鋭三番碁 呉清源八段 2-1 (○藤沢秀行五段、○小泉重郎五段、×杉内雅男五段)
- 1950-51年 呉対七、八段棋戦(13局) 呉清源九段 10-3
- 1951年 対藤沢庫之助四番碁 呉清源九段 4-0 藤沢庫之助九段(互先)
- 1952年 対六段三番碁 呉清源九段 1-2 (先二先、×山部俊郎(先)、×中村勇太郎(2子)、○曲励起(先))
- 1953年 対坂田六番碁 呉清源九段 1-4-1ジゴ 坂田栄男八段(坂田先相先)
- 1955年 対新鋭八段戦三番勝負(先相先)
- 呉 2-1 島村利博
- 呉 2-1 杉内雅男
- 呉 3-0 宮下秀洋
- 1956年 対前田陳爾三番碁 呉清源九段 2-1 前田陳爾八段(前田先相先)
[編集] 新手・新定石
呉は新布石の他にも、多くの新手、新定石を打ち出した。代表的なものとして以下がある。
- 大ナダレ内マガリ定石
┯┯┯┯┯┯┯┯┯┓ ┼┼┼┼┼┼┼○┼┨ ┼┼┼┼●●●○A┨ ╋┼┼●○○○●●┨ ┼┼┼┼┼┼┼○B┨ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼┨ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼┨
大ナダレ定石において、従来は黒B(外マガリ)が定石形とされていたが、黒Aと打つ内マガリが新手。ここから多くの難解定石に発展した。1957年の日本最強決定戦リーグの高川格戦で最初に打たれた。
- 梅鉢
┯┯┯┯┯┯┯┯┯┓ ┼┼┼┼┼❼┼❶┼┨ ❺(3の右) ┼┼┼┼┼○❸○●┨ ╋┼●┼┼┼○●④┨ ┼┼┼┼┼⑥┼②┼┨ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼┨ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼┨
従来は黒1以下の図の形は黒が梅鉢の愚形で不利とされていたが、呉は実戦でこの形を打ち出し、黒有利の結論を証明した。
- 小ゲイマ受け
┯┯┯┯┯┯┯┯┯┓ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼┨ ┼┼┼┼○┼┼┼┼┨ ╋┼┼┼┼┼●┼┼┨ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼┨ ┼┼┼┼┼┼A★┼┨ ┼┼┼┼┼┼┼B┼┨
星へのケイマガカリに対して黒★の小ゲイマに受ける手は古くからあるが、Aの一間、Bの大ゲイマに比べて不利とされていたのを、呉が実戦で打ち出して、広く打たれるようになった。
[編集] 「21世紀の碁」
1992年に、新しい囲碁の考え方として「21世紀の碁」を発表。「六合の碁(りくごうのご)」とも呼ぶ。囲碁は調和を目指すものとして、陰陽思想を取り入れ、「碁盤全体を見て打つ」ことを目指している。
NHK教育テレビの囲碁講座では、1996年に講師となって解説を行った。
[編集] 著作
- 『囲碁革命 新布石法』 平凡社 1934年(木谷実、安永一との共著)
- 『呉清源全集』全15巻
- 『呉清源自選百局』
- 『名局細解』
- 『呉清源打棋全集』全4卷
- 『莫愁』
- 『以文会友』
- 『呉清源棋話』 三一書房 1993年 (「莫愁」と川端康成「呉清源棋談」の合本) ISBN 4380932141
- 『21世紀の碁』全10巻 誠文堂新光社 1997-2001年
- 『寿石不老』 誠文堂新光社 1995年
- 『中の精神』 東京新聞出版局 2002年