大久保利謙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大久保利謙(おおくぼ としあき、1900年(明治33年)1月25日-1995年(平成7年)12月31日)は、日本の歴史学者。貴族院議員。名古屋大学教授。立教大学教授。専門は日本近現代史。父の死に伴い、1943年9月1日に侯爵位を継承。
東京大学を中心とした官学アカデミズム歴史学や、戦後流行したマルクス主義歴史学とも異なる独自の近代史研究を構築した。その研究は、政治・文化・教育・蘭学・史学史等と広範に亙る。戦時下、大義名分論と国粋主義・排外主義を本質とし神話と歴史的事実を混同する「皇国史観」に対して批判的立場をとるなど、狂気の時代にあっても輝く理性があり(『著作集』第8巻解説)実証主義を本領としたことや、国立国会図書館憲政資料室の開設に大きく関与したことも特筆される。
この多面的な活躍は、大久保の辿った経歴と深く関係がある。東京帝国大学卒業後、『東京帝国大学五十年史』の編纂に従事した際に、教育史・文化史関係を、薩藩史研究会に参加し、重野安繹家文書の調査を通じて史学史の研究を、シーボルト文献の調査を通じて蘭学史を研究した。
彼の回想録のタイトル『日本近代史学事始め』のごとく、近代史の先駆者というべき大久保であるが、卒業論文は近世史をテーマにしたものであった。それは、大久保の述べるところによると、当時の歴史学界においては、明治維新以後の歴史については、歴史家が触れてはいけないという空気が存在していたからである。
[編集] 略年譜
- 1900年、父大久保利武(大久保利通三男、当時鳥取県知事)、母栄の長男として、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に誕生。初名は譲。
- 1908年、利謙と改名。
- 1913年、学習院初等科卒業(東京市麹町区富士見町小学校より転入)。
- 1918年、学習院中等科卒業。
- 1922年、学習院高等科卒業。河上肇の『貧乏物語』などを愛読し、京都帝国大学経済学部入学。しかし、病気のため3年在学ののち退学。
- 1926年、東京帝国大学文学部国史学科入学。
- 1928年、東京帝国大学文学部国史学科卒業(卒業論文「戦国諸侯の政策における近世的傾向」)。東京帝国大学文学部副手として国史研究室に勤務。『東京帝国大学五十年史』編纂嘱託。
- 1934年、薩藩史研究会結成。シーボルト文献調査嘱託。
- 1935年、尾佐竹猛の推挙により明治大学法学部講師。
- 1938年、『帝国学士院六十年史』編纂嘱託。『貴族院五十年史』編纂嘱託。
- 1943年、父利武の死去に伴い家督相続。爵位を継承し貴族院議員となる。
- 1949年、国立国会図書館憲政資料室設置に伴い同室主任となる。
- 1951年、国立国会図書館司書。
- 1953年、名古屋大学教育学部教授。
- 1958年、立教大学文学部専任講師を兼任。
- 1959年、名古屋大学教授退官。立教大学文学部教授。
- 1962年、立教大学大学院文学研究科日本史専攻博士課程主任。
- 1964年、霞会館の華族会館史編纂委員を委嘱。
- 1965年、立教大学教授定年退職。
- 1981年、国立国会図書館客員調査員。
- 1993年、朝日賞受賞。
- 1995年、死去(95歳)。
[編集] 主な著書
- 『日本近代文芸』(日本歴史文庫)三笠書房 1939.5
- 『日本近代史学史』白揚社 1940.10
- 『日本の大学』(創元選書100) 創元社 1943.5
- 『森有礼』(日本教育先哲叢書18) 文教書院 1944.4
- 『明治憲法のできるまで』(日本歴史新書23) 至文堂 1956.12
- 『岩倉具視』(中公新書335) 中央公論社 1973.9(増補版1990.8)
- 『明六社考』 立体社 1976.10
- 『佐幕派論議』 吉川弘文館 1986.5
- 『大久保利謙歴史著作集』(全8巻) 吉川弘文館 1986.8-1989.12
- 『日本近代史学事始め』(岩波新書427) 岩波書店 1996.1
[編集] 年譜・著述目録
- 『大久保利謙歴史著作集』第8巻
- 『日本近代史学事始め』
カテゴリ: 日本の歴史学者 | 日本の華族 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 東京都出身の人物 | 1900年生 | 1995年没 | 人物関連のスタブ項目