大田卓司
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大田 卓司(おおた たくじ、1951年3月1日 - )は、西鉄ライオンズ・太平洋クラブライオンズ・クラウンライターライオンズ・西武ライオンズに所属したプロ野球選手。ポジションは外野手。
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[編集] 来歴・人物
1986年限りで引退後は西武・ダイエーのコーチ、ダイエーのスカウト、西日本スポーツ評論家、中華職業棒球聯盟、La・New高熊の監督を務めた(その台湾のチームの投手コーチは西鉄・太平洋でともにプレーした加藤初)。2007年からは韓国プロ野球・SKワイバーンズの打撃コーチに就任する。
以前は文化放送以外にテレビ埼玉(現・テレ玉)の解説者も務めていたが(と言っても同局の当時のライオンズ戦中継は解説者無しの実況担当者の孤軍奮闘スタイルであった。…2005年から西武OBの辻発彦が担当)シーズンオフの西武ライオンズ企画などの時にゲスト解説すると言った感じであった。
現役時代は小柄な体格ながら「必殺仕事人」の異名を取る強打者で西鉄の晩年から弱小時代のライオンズを支え続けた。現役時代の通算盗塁数は25と足の速い選手ではなかったが1986年の日本シリーズ第8戦の8回表に2盗を決め、この直後にジョージ・ブコビッチの決勝2塁打が飛び出した。
西鉄時代から在籍し、西武時代までライオンズ一筋を貫いたのは東尾修と大田の2人だけである。
打撃時の構えで(右打ち)バットを持つ両手が割りと右耳の近くにくる(つまり普通の構えより上方にバットを握る手がくる)独特の構えで、左足を普通より多少高めに上げて打つフォームであった。
1982年の広岡監督就任早々「彼は落伍者です」の烙印を押されくさりかけたが、同年のリーグ前期制覇・プレーオフ及び日本シリーズ制覇には多大の貢献を成した。特にプレーオフ第1・2戦においては日本ハムの抑えの切り札・江夏豊から2日連続で勝ち越しタイムリーを放った点が特筆される。
生涯の成績としては特別秀でた物ではないにせよ、それ以上の”チャンスにべらぼうに強い”という貢献度が野球関係者やファンの記憶に強い印象があり、「記録より記憶」という典型的な選手であった。
ガムが好きで、打撃コーチ時代はベンチでガムを噛んでいる姿がよく見られた。
守備はお世辞にもうまいと言えず、特に肩がウィークポイントであった。そのため、指名打者としての出場が多い(1982年・83年の連覇時は田淵幸一と交互に指名打者を務め、指名打者でない方が守備につく=田淵一塁、大田左翼、という起用法だった)。
1990年からの6年間のダイエー打撃コーチ時代に小久保裕紀らを育て、彼のチャンスに強い打撃スタイルは同じく薫陶を受けた大道典嘉に引き継がれた。1996年から数年間同球団の編成部に所属。スカウトとして井口資仁、松中信彦らの入団に尽力するなど万年Bクラスのチームが常勝球団になる過程において少なからず貢献してきた人物でもある。
選手およびコーチとして縁のある両チームの対決となった2006年のパ・リーグプレーオフ第1ステージ第1戦で始球式を行なった。
野武士のイメージとは裏腹に歌がことのほか上手い。西武当時、年末年始に多く放送されたプロ野球選手出演のバラエティ番組中で披露したテレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』熱唱は、その他出演者を圧倒する迫力があり、同級生の東尾修とともに『スナックで歌い込んでいる』一面を覗かせた。
[編集] 略歴
- 投打 右/右
- 出身地 大分県
- 球歴・入団経緯 津久見高 - 西鉄ライオンズ・太平洋クラブライオンズ・クラウンライターライオンズ・西武ライオンズ(1969年~1986年)
- プロ入り年度・ドラフト順位 1968年(ドラフト9位)
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1969年 | 西鉄 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 |
1970年 | 西鉄 | 23 | 49 | 5 | 12 | 3 | 0 | 1 | 2 | 0 | 1 | 1 | 2 | 10 | .245 |
1971年 | 西鉄 | 51 | 92 | 7 | 23 | 2 | 0 | 1 | 4 | 0 | 0 | 2 | 3 | 26 | .250 |
1972年 | 西鉄 | 99 | 268 | 30 | 67 | 11 | 2 | 12 | 36 | 3 | 2 | 2 | 14 | 55 | .250 |
1973年 | 太平洋 | 82 | 119 | 11 | 27 | 4 | 0 | 3 | 21 | 3 | 0 | 3 | 9 | 25 | .227 |
1974年 | 太平洋 | 49 | 61 | 8 | 18 | 3 | 1 | 2 | 9 | 2 | 0 | 1 | 11 | 13 | .295 |
1975年 | 太平洋 | 43 | 76 | 11 | 21 | 3 | 1 | 5 | 21 | 1 | 1 | 2 | 8 | 8 | .276 |
1976年 | 太平洋 | 118 | 422 | 51 | 114 | 9 | 1 | 23 | 68 | 6 | 6 | 6 | 27 | 52 | .270(17) |
1977年 | クラウン | 96 | 273 | 30 | 72 | 6 | 0 | 13 | 40 | 5 | 2 | 3 | 14 | 41 | .264 |
1978年 | クラウン | 74 | 111 | 9 | 36 | 4 | 0 | 2 | 18 | 0 | 1 | 2 | 8 | 14 | .324 |
1979年 | 西武 | 91 | 216 | 31 | 58 | 16 | 1 | 14 | 38 | 0 | 0 | 2 | 18 | 21 | .269 |
1980年 | 西武 | 86 | 207 | 34 | 58 | 6 | 1 | 12 | 42 | 0 | 3 | 2 | 21 | 29 | .280 |
1982年 | 西武 | 106 | 319 | 41 | 89 | 12 | 0 | 17 | 58 | 0 | 1 | 6 | 33 | 42 | .279 |
1983年 | 西武 | 105 | 397 | 55 | 118 | 18 | 2 | 20 | 67 | 1 | 0 | 2 | 18 | 29 | .297(11) |
1984年 | 西武 | 42 | 141 | 19 | 29 | 3 | 2 | 5 | 16 | 0 | 0 | 1 | 9 | 7 | .206 |
1985年 | 西武 | 88 | 221 | 27 | 53 | 9 | 0 | 10 | 38 | 0 | 0 | 3 | 16 | 17 | .240 |
1986年 | 西武 | 59 | 153 | 14 | 36 | 6 | 0 | 7 | 22 | 1 | 0 | 1 | 5 | 15 | .235 |
通算成績 | --- | 1314 | 3459 | 436 | 923 | 130 | 11 | 171 | 564 | 25 | 17 | 44 | 245 | 430 | .267 |
[編集] タイトル・表彰
- ベストナイン 1976年(指名打者部門)
- 日本シリーズ最優秀選手 1983年
- オールスターゲーム出場 3回(1976年、1982年、1983年)