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小久保 裕紀(こくぼ ひろき、1971年10月8日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(内野手)である。
[編集] プロフィール
- 身長・体重:182cm、88kg
- 投打:右投右打
- 出身地:和歌山県和歌山市
- 血液型:AB型
- 球歴・入団経緯:星林高 - 青学大 - ダイエー(1994年 - 2003年) - 巨人(2004年 - 2006年) - ソフトバンク(2007年 - )
- プロ入り年度・ドラフト順位:1993年(2位・逆指名)
- FA行使:2006年(1回目)
- 英語表記:KOKUBO
- 背番号:9(ダイエー時代、ソフトバンク時代)・6(巨人時代)
- 推定年俸:3億円(2006年、FA行使移籍の為2007年も原則据え置き)
- 守備位置:三塁、一塁、二塁、(外野)
- 一本足打法から放たれる豪打が持ち味の長距離砲。球界でもリーダーシップの持ち主と言われる。
[編集] 来歴・人物
- 1992年、バルセロナ五輪の野球日本代表として銅メダル獲得に貢献。
- 1994年、ドラフト2位で青山学院大学から福岡ダイエーホークスに入団。背番号は9。高畠康真、大田卓司両打撃コーチの薫陶を受け、主力打者としての基礎を叩き込まれる。
- 1995年、レギュラーに定着(レギュラーの関係でこの年はライト。その後セカンドへ。)この年28本塁打を放って本塁打王のタイトルを獲得。これは首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得していたオリックスのイチロー(25本塁打)の六冠王を3本差で阻止するタイトル獲得であった。
- 1997年になると、サードにコンバートされ少ないがファーストも守るようになる。打率.302、36本塁打、114打点の好成績で打点王のタイトルを獲得。しかしこの年オフに野球界を震撼させた事件(→プロ野球脱税事件)が発覚。関与した人物の1人として8週間出場停止などの処分を受けている。
- 1998年は右肩関節唇損傷の大怪我により17試合の出場に留まるが翌年には復帰している。
- 1999年、両肩の痛みに苦しんだため.234、24本塁打、77打点と低調な成績だったが、王貞治監督はシーズン通して4番を打たせ、福岡ダイエーホークス初のリーグ優勝、日本一に大きく貢献。
- 2000年も古傷の親指を痛めながらも31本塁打を放ち、松中信彦などとともにチームのリーグ連覇に貢献。しかしシーズン終盤わき腹を痛めて日本シリーズを棒に振る。このとき同じく満身創痍にもかかわらず3番打者としてチームプレーに貢献した清原和博との差、絶不調の松中と松井秀喜との差を指摘される屈辱的なシリーズとなる。
- 2001年、タフィ・ローズ(近鉄)の55本塁打の陰に隠れてしまったが、本塁打数を40の大台に乗せた(合計44本塁打)。ちなみにこの年、松中信彦が36本塁打、城島健司が31本塁打、井口資仁が30本塁打し、パ・リーグ初の30本カルテットを形成。日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初である。しかしチームは近鉄の快進撃の前に2位に終わる。
- 2002年、背筋痛や肉離れと戦いながら3年連続の30本超えとなる32本塁打を放つなど活躍したが、チームは2年連続の2位。
- 2003年3月6日、西武とのオープン戦でホームにスライディングした際に椎木匠捕手と交錯。右ひざじん帯断裂の重傷を負い、1年を棒に振る。チームは前代未聞の危機に陥ったかに思われたが、皮肉な事に不動の4番と思われていた小久保を失ったことでチームは4番松中、5番キャッチャーの城島、2番のバルデスが6番に回り、村松有人と川崎宗則が新1・2番コンビを結成するなど理想的なつながりを見せ、そしてエースに成長した斉藤和巳を中心に投手陣も団結、圧倒的な強さを見せリーグ制覇、日本一に輝く。
- そしてシーズン終了後、小久保は不可解な無償トレードで巨人に移籍することになる。このことはダイエーファンにとって青天の霹靂であり、当時のオーナーであった中内正が会見中に突如泣き出してしまうという尋常ならざる事態に後日様々な憶測を呼ぶことになる。真相は高塚猛との確執などと言われるもののいまだに謎である。
- 2004年、シーズン後半にはアテネ五輪で離脱した高橋由伸に代わって4番に座り、巨人の右打者としては史上初のシーズン40本塁打を達成。巨人の右打者の40本塁打は長嶋茂雄、原辰徳、落合博満、清原和博といった人気選手でも達成していない記録で、意外なことに楽天を除く12球団では最後に生まれた記録であった。
- 2005年、4月8日の中日戦で、川上憲伸から、今シーズン初のホームラン(その試合を決定づける満塁本塁打)を打った時、TVカメラに向かって「約束を果たしたよ」と手話を送った。前年のシーズンオフに、高橋由伸と訪問したろう学校にて、第一号の本塁打を打ったら手話でメッセージを送る約束をしていたとスポーツニュースで報道される。この手話は2006年4月1日の対横浜戦の土肥義弘からソロ本塁打を打った際も行い、この事については、カルビープロ野球チップス・2005年第2弾のカードに書かれている。もっともこのシーズンは夏場の絶不調と研究が進み成績は激減している。
- 2005年にFA権を取得したが、宣言せずに巨人に残留(入団時に2年+1年のオプションの最高3年契約を結んでおり、オプションを行使)し、2006年、巨人清武代表に巨人軍第17代目の主将を依頼される(主将制度は98年の吉村禎章〔現巨人2軍監督〕以来8年ぶりに復活されたが、移籍選手の主将指名は初。ちなみに小久保のユニフォームの右袖には15×80mmのキャプテンマークが縫い付けられていた)。
- この年は主砲を頑健な李承燁に任せ6番に固定、守備固めを多用するなどし負担を軽減していたが、6月2日のvs西武戦で2000年に痛めた古傷の右手親指内側側副靭帯を剥離骨折し、長期に渡る登録抹消となる。8月18日のvs中日戦にてようやく1軍に復帰し、9月3日のvs中日戦では李が左膝を痛めたため1年振りに4番に座ったものの、最終的な本塁打数は19本、二塁打数はわずか5本に終っている。
- 2006年10月17日、3年前の古傷の右膝の検査などのため、渡米する前の空港で、前年に見送ったFA権を行使する考えを表明。帰国後の同11月7日にFA宣言し、交渉解禁となった9日には王監督を含むソフトバンク首脳陣と初交渉。わずか2日後の11月11日にソフトバンクと4年契約で合意、4年ぶりのホークス復帰が決定した。11月17日、王監督とともに正式な記者会見を行い、ダイエー時代に慣れ親しんだ背番号「9」を披露し、「ただいま、という感じ」と語った。そのユニフォーム姿が報道陣に自然と拍手を起こさせるという異例の会見でもあった。
- 12月9日、小久保が復帰した人的補償として吉武真太郎が巨人に移籍した。
- 古傷の足の事もあり一塁コンバートの声がファンから頻繁に上がるが、膝を痛めている選手は一塁は不向きであり、また極端に狭くなった守備範囲を果敢に飛び込むことで必死にカバーしているものの、肩や親指など膝以外にも古傷を抱えている選手であり、DH専念がベストと思われる(移籍当初の巨人では、内野守備はもう不可能とまで考え左投手用の左翼手を想定していたというところが現実である)。ただし、移籍した多村仁や新加入のブライアン・ブキャナン、一塁に戻った松中などのこともあり現実は前年の原辰徳監督のように守備固めを多用することで乗り切るしかないと思われる。事実、開幕以降殆どの試合で斉藤秀光が守備固めで使われている。
[編集] エピソード
- ダイエー時代から「選手の中で1番早く球場入りして、試合後1番遅くまで残っている」と言われるほど練習熱心な「練習の虫」である。王監督とは、ダイエー時代に王から守備について注意された時、「私にはこれが精一杯」と答えて激怒させたことなどもあるようだが、4番打者として長らく起用された師弟関係であり、3年のブランクがありながらソフトバンクのファンや斉藤和巳などの選手からも慕われていること、選手会長も務めていたことなどで小久保のソフトバンク復帰の噂が絶えなかった。松中信彦にも、弟分・ライバルとして目をかけていた時期もあった。
- ダイエー時代のチームメイトである斉藤和巳、高校の後輩である吉見祐治らとは自主トレを共にする仲であり、巨人時代も二岡智宏、木佐貫洋の同行を頼まれていた(過去には林孝哉、松中、川崎なども)。
- 元来は器用で、大学時代のポジションはショートで、過去には右翼→二塁のレギュラーだった時期もある。少ないが左翼、一塁の守備の経験もあり、過去に二塁でゴールデングラブ賞を受賞したこともある。故障後も一定の成績は維持しているのも彼の器用さがあってこそかもしれない。
- その練習熱心さとキャプテンシーの強さは青学大時代から発揮されている。1年の秋に投手から野手へと転向した小久保は人1倍練習熱心で、河原井正雄監督に「自分たちで練習する時間が欲しい」と進言した。この進言によって導入された「自主練習」の伝統は選手の自立と自主性を培い、青学大を大学野球随一の強豪へと押し上げた。また、清原和博の実弟清原幸治とチームメイト(4年生の時には小久保が主将、清原が副主将)であり、そのつながりで清原和博とも親交が厚い。
- 1999年8月20日には史上7人目の満塁ランニング本塁打を放った。
- 巨人移籍後、打席に入る際のBGMは『希望の轍』(サザンオールスターズ・桑田佳祐が自身の母校である青学大の先輩ということから)。
[編集] その他
- ファンサービスにも非常に熱心でファンからのサインは基本的に断らない選手とされる。
- 妻とは根本陸夫・高畠康真の紹介で結婚。久留米大学硬式野球部マネジャーを経験するなど野球に理解があった女性であったことが結婚に大いに働いたという。脱税事件、突然の巨人放出など無事ばかりではないが、夫の私服の見立てから球界関係者の人付き合いまで小久保のために奮闘する女性(親しい人物談)といわれる。故に根本・高畠が相次ぎ他界したときの小久保夫妻の悲嘆は尋常でなかったといわれる。
- 野球選手(主に1塁手以外の内野手)はよくグラブの手入れをする際に、クリーム等で磨く他に、自分の唾を付けてそれを擦り込ませ手入れをするのであるが、小久保の場合は守備機会の時に頻繁に、自分の顔を覆うようにグラブを顔に持っていく光景が目に付く。
- 2005年のオフにはホークス時代の恩師・高畠の最後の赴任先である福岡県の筑紫台高等学校にて1500人の生徒を前に講演。生徒たちに「何か約束してください」と頼まれ、「来年1号ホームランを打ったら手話で合図する」と約束。2006年4月1日横浜戦にて第1号を放ち、ホームイン直後にテレビカメラの前で約束を果たしている。
- 2005年に東京ドームで日産自動車の車の看板に直撃するHRを放ち、、2006年には東京ドームの日産の看板に、去年は、小久保選手にぶつけられましたと載り、下には小さく今年は、もっとお願いしますと書かれた看板が設置されていた。ちなみに、ウィングロードのドアの窓が野球のHRボールが当たって壊れたという絵が貼られている。
[編集] ホークス復帰
- 無償トレードという不可解なかたちでチームの主軸で将来の監督候補である小久保を失ったことは大きな衝撃であったが、小久保が数年後にFA権を行使してでホークスに復帰するのではないかという期待は絶えることがなかった。
- 大きな負債を抱えていたダイエーからソフトバンクへと営業が譲渡され、オーナーである孫正義が就任時に「(金銭的に)いくらかかろうが、絶対に小久保をホークスに呼び戻す」、「小久保を呼び戻すにはどうすればいいんだ?」などと発言するなど、期待は高まっていた。球団側も背番号9を欠番状態としており、王貞治や松中信彦が事あるごとに小久保の名前を出し、受け入れやすい状態も作っていた。何より多くのソフトバンクホークスファンが「小久保が戻ってきてホークスを救う」と信じている現実もあっただろう。
- 2005年オフにも2年契約が切れたためFA宣言の可能性はあったが、結局この時は小久保がオプションを行使し契約を更新している。しかし2006年1月1日の西日本スポーツ1面で、「小久保2007年ソフトバンク復帰決定」と報じられ、巨人側から抗議が出るという事態もあった。そして2006年オフ、いよいよ復帰か、と期待は加熱していた。
- 2006年10月17日に古傷の検査のため渡米する前の空港で、小久保はFA権を行使する考えを示した。11月7日に正式にFA権の申請。帰国時の会見での「次に着るユニフォームの球団でユニフォームを脱ぐという思いもある」という発言や、巨人側との交渉での契約年数に関する条件面の開きがあると予想されたことから、小久保のソフトバンク復帰はほぼ確実ではないかと言われていた。ソフトバンクは交渉解禁直後の11月9日には最初の交渉を行い、11日、4年総額12億円+出来高の契約に合意し、異例のスピード契約で古巣・福岡ソフトバンクホークスに復帰が決定した。
[編集] 出囃子(テーマソング)
[編集] 年度別成績
年度 |
球団 |
背番号 |
試合数 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁打 |
三塁打 |
本塁打 |
打点 |
盗塁 |
打率 |
1994年 |
ダイエー |
9 |
78 |
177 |
18 |
38 |
6 |
0 |
6 |
20 |
2 |
.215 |
1995年 |
130 |
465 |
72 |
133 |
20 |
9 |
28 |
76 |
14 |
.286 |
1996年 |
126 |
478 |
73 |
118 |
26 |
3 |
24 |
82 |
7 |
.247 |
1997年 |
135 |
527 |
88 |
159 |
37 |
3 |
36 |
114 |
4 |
.302 |
1998年 |
17 |
71 |
7 |
16 |
3 |
1 |
2 |
11 |
0 |
.225 |
1999年 |
130 |
465 |
60 |
109 |
24 |
2 |
24 |
77 |
4 |
.234 |
2000年 |
125 |
473 |
87 |
136 |
26 |
3 |
31 |
105 |
5 |
.288 |
2001年 |
138 |
535 |
108 |
155 |
32 |
1 |
44 |
123 |
6 |
.290 |
2002年 |
136 |
507 |
89 |
148 |
25 |
0 |
32 |
89 |
8 |
.292 |
2003年 |
右膝靭帯断裂のため一軍出場なし |
2004年 |
巨 人 |
6 |
125 |
462 |
85 |
148 |
24 |
2 |
41 |
96 |
0 |
.314 |
2005年 |
142 |
524 |
77 |
147 |
25 |
0 |
34 |
87 |
1 |
.281 |
2006年 |
88 |
308 |
37 |
79 |
5 |
0 |
19 |
55 |
1 |
.256 |
通 算 |
2006年まで |
1370 |
4992 |
801 |
1383 |
253 |
24 |
321 |
935 |
52 |
.277 |
※太字はリーグトップ。
[編集] タイトル・表彰・記録
- 本塁打王 1回(1995年)
- 打点王 1回(1997年)
- ベストナイン 2回(1995年、1997年)
- ゴールデングラブ賞(二塁手) 1回(1995年)
- カムバック賞(2004年)
- 月間MVP 1回(2004年7月)
- 10試合連続打点(2000年6月20日~7月4日)
- 210守備機会連続無失策(三塁手 2001年5月13日~9月9日) ※パ・リーグ記録。
- オールスター出場 7回(1995年~1997年、2000年~2002年、2004年)
[編集] 関連項目