松中信彦
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男子 野球 | ||
銀 | 1996 | 野球 |
松中 信彦(まつなか のぶひこ, 1973年12月26日 - )は福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手である。
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[編集] プロフィール
- 身長・体重:182㎝、102㎏
- 血液型:B型
- 投打:左投左打
- 出身地:熊本県八代市
- 球歴・入団経緯:八代一高 - 新日鐵君津 - 福岡ダイエー・福岡ソフトバンク(1997年 - )
- プロ入り年度・ドラフト順位:1996年(2位・逆指名)
- 英語表記:MATSUNAKA
- 背番号:3
- FA取得:なし(2005年オフに7年契約を結んでいるため、実質FA買取)
- 推定年俸:50000万+出来高(2005年から7年45億の長期契約中)
- 守備位置:一塁、外野(主に左翼)
[編集] プレイスタイル・特筆
- チームの勝利を第一に考える姿勢を貫き、チームリーダーとしての役割を果たしている。特に自身が四球などで出塁した後に後続の打者がホームランを打った場合などは自分が打ったかのごとく喜ぶ姿が見られる。2005年プレーオフ第2ステージ第4戦や、2006年第1ステージ第3戦などが印象的であった。
- 三冠王を獲得してなお、練習に対するひた向きさから、チームメイトからの信頼はとても厚い。
- 内角を捌くのが非常にうまく、普通の左打者より引っ張った時の打球が右にきれにくい(ファールになりにくい)。このポイントは松中曰く「打点をバットの芯より若干根元部分にずらして打つこと(で体があまり開かない)。芯で打つと打点と体の距離が長くなり、その分体が開く」とのこと。
- ホームランバッターでありながら三振が少ない。年間60~80個ぐらいで、シーズン100三振したことはない。特に2006年は、37個と驚異的な少なさであった(但し、この年はホームランも減った)。
- 松中は守備が苦手で、故障の影響(後述)で肩も強く無い。2004年にはゴールデングラブ賞を獲得しているが、この年の松中の守備率.993に対し、一塁守備に定評のある福浦和也の守備率は.995だった。三冠王を獲得した印象深さが手伝ったものと思われる。
- スラッガーであまり守備が得意でない選手でも「守りにつくことでリズムが生まれる」として守備につくことにこだわる選手は多いが、松中は肩や肘などに不安があることもあり守備に対するこだわりはない。DHとして起用されていてもベンチ内ではイスに座らずリズムを保つようにしているという。
- また、足も速くはないものの、1つでも先の塁を狙おうという姿勢やヘッドスライディングはナインを鼓舞することに大きく貢献している。
- 小久保裕紀を尊敬しており、2003年オフに無償トレードで小久保が移籍した際には怒りを露にした。
- 32歳である2006年1月にソフトバンクと7年契約を結び、ホークスで野球人生を終えるのではという報道もなされた。
- 2007年現在までキャンプでの練習量は若手をはるかに上回り、「練習は裏切らないということは、松中を見れば実証できる」と島田誠氏や若田部健一氏が福岡の情報番組で語っているほど。この習慣は先輩である小久保や秋山幸二(現在総合コーチ)の姿勢に影響をうけたもので、「ホークスの良い伝統を作っている」と王監督も語っており、福岡では「松中塾(または「道場」)」とも呼ばれ、松田宣浩らも帯同させて指導している。
[編集] 涙のヒーローインタビュー
2004年に三冠王、2005年は二冠王(本塁打・打点)と日本人最強打者の名を欲しいままにしていた松中ではあったが、シーズン1位の重圧もあったのか前年まで2度のプレーオフでは通算35打数3安打2打点と完全に沈黙し、「短期決戦に弱い」と言われ続けてきた。2006年は首位打者になったもののレギュラー定着後初めて20本塁打に届かないなど物足りないシーズンを送り、チームはレギュラーシーズン3位に終わった。そこで、この雪辱に燃える松中に対してさらに重圧がかかるのではないかと思われた。
2位西武との第1ステージ1回戦では、フェンス直撃打など2安打を放つものの松坂の前に完封負け。そして崖っぷちの2回戦、初回に1点を先制され、直後の第1打席では三振、さらに1死一、三塁と一打同点の場面で第2打席を迎えたものの犠飛も打てず凡退。チームはその後、逆転に成功した。しかし、西武の反撃にあい1点差に迫られた直後の第3打席で左腕星野から貴重な適時打を打つと、第4打席でも適時打、さらには第5打席ではダメ押しの3ランホームランを打った。この試合で3安打5打点と爆発した松中はプレーオフ初のヒーローインタビューで「今までファンのみんなに迷惑をかけてきた…」と何度も言葉を詰まらせ、感極まって涙を流した。
この松中の復活で打線は目覚め、3回戦でも打線が爆発。松中自身も適時打を打って、2戦連続の逆転勝ちで第1ステージを突破した。
[編集] 背番号の変遷
- 26(1997年 - 1999年)→3(2000年 - )
[編集] 来歴
- 熊本県八代市で建設会社「松中土建」(優勝時の祝勝会に於いて松中をはじめ選手数人がこの会社のヘルメットを被る為ファンにはすっかりお馴染みである)を営む家庭に生まれる。兄弟は兄と弟が一人ずついる。八代第一高等学校(現秀岳館高等学校)-社会人野球・新日鐵君津出身。
- 1996年のアトランタ五輪の代表に選出され、銀メダル獲得に貢献。敗れはしたものの決勝のキューバ戦では4点ビハインドから同点満塁ホームランを放つなど、一躍注目を浴びた。
- そのオフ、ドラフト2位(逆指名)でダイエー(現ソフトバンク)に入団する。この間に同郷のヒーローである秋山幸二の薫陶を受け、自主トレに同行するようになる。
- 入団当時はいわゆる金属バットの弊害に苦しんだものの、二年目の1998年には2軍の本塁打王を獲得。
- 1999年、吉永幸一郎の指名打者定着に伴い一塁手のレギュラーになる。主に7番打者としての出場ながらチーム内では4番の小久保裕紀に次ぐ23本塁打を放つなどダイエーホークス初のリーグ制覇、日本一に貢献。
- 2000年、背番号を26から3に変更し、正式に内野手転向。開幕は7番で迎えたものの、打撃好調で小久保の後を打つ5番に定着。自身初の3割、30本塁打、100打点を記録しリーグV2に貢献。シーズンMVPに輝く。日本シリーズでは、前年までチームメートだった工藤公康から本塁打を放つものの全6戦でこの1安打に終わり、連続日本一を逃した。この年のオフにフリーアナウンサーの林恵子と結婚。
- 2001年、打率.334、36本塁打、122打点と打撃3部門全てで自己最高の成績を残す。この年は松中に加え小久保が44本塁打、城島健司が31本塁打、井口資仁が30本塁打し、パ・リーグ史上初の30本カルテットを達成。またチーム本塁打も203本とチーム記録を更新した。なお助っ人と呼ばれる外国人打者が中軸として欠かせないプロ野球において、日本人打者のみの30本カルテットはプロ野球史上初の快挙であった。しかしチームは大阪近鉄バファローズの神懸り的な快進撃の前に2位に終わり、リーグ3連覇を逃した。
- 2002年は新ストライクゾーンの影響からか打撃不振でレギュラー定着後最低の打率.260に終わり、チームも2年連続で2位。
- 2003年、小久保の長期離脱に伴い4番に固定される。不動の4番を欠くという非常事態であったが、小久保不在の3塁に若手の川崎宗則が2番打者として定着したことで、史上最高のチーム打率.297、史上初の100打点カルテットなど幾多のプロ野球記録を生み出したダイハード打線を誕生させた。松中も2年振りの3割、30本、100打点を記録し、自己最高の123打点で初の打撃タイトルとなる打点王を獲得。チームは斉藤和巳ら先発4本柱の活躍もあり圧倒的な力でリーグ制覇、日本シリーズでも阪神タイガースを下し2度目の日本一に輝いた。
- 2004年、小久保が退団し真の4番打者として臨んだレギュラーシーズンで打撃三冠王(首位打者・打点王・本塁打王)を達成(本塁打数は日本ハムのフェルナンド・セギノールと同数)。さらにベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得、MVPに選ばれる。これまでの三冠王はいずれも両翼90m以下の箱庭球場と呼ばれるような非常に狭い球場をフランチャイズにしていた選手ばかりであり、ホームランが出にくい福岡ドームをフランチャイズにしている選手の三冠王はもちろん初めてであった。44本塁打は兄と慕う小久保に並び福岡ドームをフランチャイズにしてからのホークス最多本塁打記録。しかし、同年より導入されたプレーオフ制度により行われたプレーオフ第2ステージでは、初戦に本塁打を打つも、5試合でわずか2安打と打棒が完全に沈黙し、チームもレギュラーシーズン1位ながらリーグ優勝を逃した。
- 2005年はひざなどに不安を抱えることもあり指名打者として打撃に専念したが、前年の屈辱をばねに大活躍。低反発球で他の打者が本塁打を減らす中、それをものともせずホームランを量産した。この年30本後半台以上の本塁打を打った日本人選手は松中の他には小笠原道大(日本ハム)しかいなかった。この年は三冠こそ逃すものの、二年連続の本塁打王に加え三年連続の打点王に輝く。なお3年連続120打点は王貞治ですら記録していない史上初の記録であった。さらに、この年放った46本塁打は前年自分がマークした福岡ドームをフランチャイズにしてからのホークス最多本塁打記録を更新。小久保を完全に超えた。しかし、プレーオフではわずか1安打とまたしても大スランプに陥り、リーグ優勝を逃した。
- ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出される。短期決戦での弱さを危惧する声も聞かれたが、松井秀喜(ニューヨーク・ヤンキース)が出場を辞退したため4番を任せられた。「長打は捨てる」と発言した通り本塁打などの派手な活躍はなかったものの、.433の高打率で世界一に貢献した。
- 2006年のシーズンでは、貧打にあえぐチーム事情にあって交流戦以降、フリオ・ズレータや田上秀則らの打力を生かすため、外野手(主にレフト)としての出場が増えた。2年ぶりの首位打者に輝いたが、19本塁打76打点は満足できる数字には程遠く、チームは98年以来のシーズン3位に終わった。プレーオフでは西武ライオンズを破り第2ステージに進出したものの、北海道日本ハムファイターズの前に2試合で1点しか取れずに敗退。松中自身は「短期決戦に弱い」というレッテルを払拭すべく5試合で18打数7安打7打点と気を吐いたが、結局エース斉藤和巳が投げた2試合には1点の援護もできず、試合終了後はしばらく立ち上がることができなかった。
- 2006年日米野球の選手選考のためのファン投票において指名打者部門の1位に選出されたが、右でん部膿瘍の再手術のために辞退した。
- 4年連続5度目のベストナインに選ばれたが、これは外野手としての受賞。これまでに一塁手で3回、指名打者で1回同賞を受賞しており、異なる3ポジションでの受賞は真弓明信、落合博満以来3人目のことである。
[編集] 通算成績
- 1004試合 1195安打 262本塁打 838打点 549三振 18盗塁 打率.310
[編集] 年度別成績
太字はタイトル・リーグ最多
年度 | 背番号 | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四死球 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997年 | 26 | 20 | 43 | 4 | 9 | 1 | 0 | 0 | 10 | 6 | 0 | 3 | 13 | .209 |
1998年 | 26 | 34 | 71 | 9 | 19 | 6 | 0 | 3 | 34 | 10 | 2 | 11 | 12 | .268 |
1999年 | 26 | 126 | 395 | 57 | 106 | 20 | 4 | 23 | 203 | 71 | 5 | 58 | 60 | .268 |
2000年 | 3 | 130 | 471 | 76 | 147 | 26 | 1 | 33 | 274 | 106 | 0 | 62 | 49 | .312 |
2001年 | 3 | 130 | 479 | 81 | 160 | 29 | 0 | 36 | 297 | 122 | 2 | 67 | 77 | .334 |
2002年 | 3 | 136 | 485 | 75 | 126 | 23 | 1 | 28 | 235 | 83 | 1 | 69 | 80 | .260 |
2003年 | 3 | 135 | 494 | 99 | 160 | 31 | 1 | 30 | 283 | 123 | 2 | 93 | 69 | .324 |
2004年 | 3 | 130 | 478 | 118 | 171 | 37 | 1 | 44 | 342 | 120 | 2 | 96 | 67 | .358 |
2005年 | 3 | 132 | 483 | 109 | 152 | 26 | 2 | 46 | 320 | 121 | 2 | 85 | 85 | .315 |
2006年 | 3 | 131 | 447 | 79 | 145 | 32 | 1 | 19 | 236 | 76 | 2 | 108 | 37 | .324 |
通算 | 1004 | 3846 | 707 | 1195 | 231 | 11 | 262 | 2234 | 838 | 18 | 646 | 549 | .310 |
[編集] タイトル・表彰・記録
- パ・リーグMVP 2回(2000年、2004年)
- 首位打者 2回(2004年、06年)
- 本塁打王 2回(2004年、05年)
- 打点王 3回(2003年~05年)
- 三冠王 1回(2004年)
- 最多安打 1回(2004年)
- 最高出塁率 3回(2004年~2006年)
- ベストナイン 5回(2000年、2003年~2006年)
- ゴールデングラブ賞 1回(2004年)
- 月間MVP 6回(2001年9月、2003年8月、2004年5月、2005年7月・9月、2006年6月)
- 3年連続120打点(2003年~2005年) ※日本記録。
- シーズン7部門(打率、本塁打、打点、安打、出塁率、得点、塁打)トップ(2004年) ※1973年王貞治に次ぐ、史上2人目。
- オールスター出場 6回(1999年~2001年、2003年~2005年) ※2006年に監督推薦で選出されているが、負傷のため欠場。
[編集] 出囃子(テーマソング)
- ともにEXILEの楽曲
- 「Fly Away」(2005年~)
- 「YES!」(2006年~)
- ホークスの選手にテーマソングが導入された2005年から使用している「Fly Away」に加え、2006年からは「YES!」も使用している。基本的に奇数イニング時は「YES!」、偶数イニング時は「Fly Away」となるが、チャンスの際はイニングに関係なく「Fly Away」が流れるようになっている。
[編集] その他
- 相撲観戦が趣味である。2006年九州場所は観戦中をNHKテレビ中継で映された。
- プロレスラーでZERO1-MAX所属の高岩竜一と頭髪、顔立ちが似ている。
- 高校時代に左肩を痛めたことが原因で一時期右投げに転向していたことがある(新日鐵君津在籍時に手術で完治させた後は左投げに戻った)。左打ちであるが、ゴルフは右で打っている(監督である王貞治氏も、ゴルフの時は右打ちである)。
- 新日鐵君津在籍時に中古の軽自動車を購入、毎年暮れにはこの車を運転して君津から実家の八代まで帰省していた。ダイエーの西戸崎合宿所への入寮の際にもこの車で現れ、周囲を驚かせたという。
- まだ2軍にいた頃に、NHKのドキュメンタリー番組に取り上げられたことがある。同期入団の井口資仁、柴原洋らが1軍で活躍する様子を見て思い悩む様子などが放送された。現在の松中を考えれば貴重な映像であったと言える。この番組はホークス2軍にスポットを当てたもので当時在籍していた吉田豊彦も取り上げられている。
- 前述のように2000年の日本シリーズやプレーオフでの短期決戦での弱さが指摘されるが、2003年の日本シリーズやワールド・ベースボール・クラシックでは好成績を残したため必ずしも短期決戦に弱いとは言い難い。
- 福岡ダイエーのユニフォームは背番号に丸数字をつけていたが、2001年シーズン序盤、一人だけ角数字の背番号をつけたユニフォームで出場していた。すぐ丸数字に戻されるが、事情は明かされていない。
- 2003年にマークした118得点、2004年にマークした342塁打、82長打はホークスにおける年間最多記録。また、通算打率は球団歴代1位である。
- 2005年7月15日の西武戦では、ライバル松坂大輔から4打席1二塁打3本塁打4打点(先制ソロ、逆転2ラン、サヨナラHR)を放ち、松坂を完全粉砕した。しかし王貞治監督は、二塁打を打った打席で「なぜ初球のまっすぐを打たなかったのか」と注意するほど松中には高いレベルを期待している。
- 2006年4月16日の日本ハム戦でフリオ・ズレータが金村曉に暴行を働いた際に真っ先に止めに行ったのは松中で、このときズレータのヒジが直撃している。後日、金村は個人的に松中に礼をしに行った。
- 2006年7月5日の西武戦。最終打者の田上秀則が三振に打ち取られると、三塁ランナーだった松中は涙を流しながら引き上げた。王監督の検査入院が発表されたのはこの後午後11時からであった。試合終了後に選手への説明は行われたが、主力選手数人は試合前にこのことを伝えられた上でゲームに臨んでいた。尚、この試合は3-3の引き分け。
- チームの主砲であり、これまでオールスター戦にも7回選出されているが、ホークスの中心選手としては意外なことに、ファン投票で選出されたのは一塁手部門で1回と指名打者部門で1回の2回のみであり、あとは監督推薦で選出されている。というのも、同じポジションにはアレックス・カブレラ(西武)や小笠原道大(元日本ハム)といった全国区の選手がひしめいているからであるが、近年では一塁手・指名打者・外野手といくつかの守備位置に付くため、各部門に票が分散してしまうことも原因のひとつと考えられる。
- 2006年のオールスター戦のファン投票では松中は指名打者部門で775,841票を獲得し、セ・リーグのどの選手よりも得票数が多く、両リーグでもSHINJO(日本ハム)に次ぐ3番目の得票数だったが、同部門に両リーグ最多得票の清原和博(オリックス)がいたためまたしてもファン投票1位はならず、監督推薦で選出された。しかし、右でん部膿瘍の影響で2試合とも欠場した。出場辞退しなかったのは10日間の出場選手登録禁止という規定があったためで、福留孝介(中日)の出場辞退とコミッショナー申請による直後の後半戦出場が問題視された事もあってか、松中の姿勢はファンに評価された。
- 2006年は首位打者を獲得したものの本塁打は19本と屈辱的ともいえる数字に終わった。これにはシーズン中盤からは右でん部膿瘍が完治しないままの状態で試合に出続けており、その影響が大きいだろうといわれ(一時期はベンチに座ることもままならなかったという)、松中本人は「シーズンが終わり次第即手術(オールスター前後に1度手術している為、正確には再手術)する」と発言している。もっともこの年は、WBCのためにホームランを封印する調整をしていたことや、城島やバティスタなどの大砲が抜けたことにより相手投手が松中一人に照準を合わせ、勝負を避けられていたためとも言われる(実際、レギュラーシーズンの四球数が102と唯一の3桁であった)ため、必ずしも松中の調子が悪かったとは言えない(ズレータも前年に比べるとかなり成績が悪かった)。
[編集] テレビ・コマーシャル
- 西部ガス 『ホームパーティ篇』 『取替え篇』
- 福岡放送
- ソフトバンクモバイル ホワイトプラン 『ホワイト・バット篇』 『ホワイト・身長編』 (2007年1月 - ) 和田毅、川﨑宗則、斉藤和巳、ホワイトと共演
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
00 ブライアン・ブキャナン | 0 仲澤忠厚 | 1 柴原洋 | 3 松中信彦 | 4 アダム・ハイズデュ | 5 松田宣浩 | 6 多村仁 | 7 大村直之 | 8 江川智晃 | 9 小久保裕紀 | 10 本間満 | 11 小椋真介 | 12 高谷裕亮 | 13 高橋秀聡 | 14 馬原孝浩 | 16 篠原貴行 | 17 山田秋親 | 18 新垣渚 | 19 森福允彦 | 21 和田毅 | 22 荒川雄太 | 23 城所龍磨 | 24 高橋徹 | 25 大野隆治 | 26 的場直樹 | 27 中西健太 | 28 大隣憲司 | 29 領健 | 30 長谷川勇也 | 31 佐藤誠 | 32 森本学 | 33 星野順治 | 35 クリストファー・ニコースキー | 36 明石健志 | 37 福田秀平 | 38 神内靖 | 40 藤岡好明 | 41 倉野信次 | 43 リック・ガトームソン | 44 水田章雄 | 45 トゥーシェン | 46 本多雄一 | 47 杉内俊哉 | 48 甲藤啓介 | 50 吉本亮 | 51 荒金久雄 | 52 川崎宗則 | 53 金子圭輔 | 54 川頭秀人 | 55 伊奈龍哉 | 56 柳瀬明宏 | 57 三瀬幸司 | 58 辻武史 | 59 大西正樹 | 60 稲嶺誉 | 61 山村路直 | 62 山崎勝己 | 63 大田原隆太 | 64 田之上慶三郎 | 65 川口容資 | 66 斉藤和巳 | 67 斉藤秀光 | 68 竹岡和宏 | 69 井手正太郎 | 70 田上秀則 | 91 陽耀勲 | 93 小斉祐輔 | 94 西山道隆 | 121(育成選手) 山田大樹
89 監督 王貞治 | 80 秋山幸二 | 88 森脇浩司 | 81 新井宏昌 | 85 杉本正 | 82 高山郁夫 | 84 大石友好 | 87 井出竜也 | 92 山川周一 | 76 二軍監督 石渡茂 | 71 鳥越裕介 | 79 五十嵐章人 | 75 山村善則 | 77 藤田学 | 74 岩木哲 | 95 川村隆史 |
1 岩村明憲 | 2 小笠原道大 | 3 松中信彦 | 5 和田一浩 | 6 多村仁 | 7 西岡剛 | 8 今江敏晃 | 9 金城龍彦 | 10 宮本慎也 | 11 清水直行 | 12 藤田宗一 | 15 久保田智之 | 17 福留孝介 | 18 松坂大輔 | 19 上原浩治 | 20 薮田安彦 | 21 和田毅 | 22 里崎智也 | 23 青木宣親 | 24 藤川球児 | 25 新井貴浩 | 27 谷繁元信 | 31 渡辺俊介 | 40 大塚晶則 | 41 小林宏之 | 47 杉内俊哉 | 51 イチロー | 52 川﨑宗則 | 59 相川亮二 | 61 石井弘寿/馬原孝浩 |
89 監督 王貞治 | 84 武田一浩 | 85 辻発彦 | 86 鹿取義隆 | 87 大島康徳 | 88 弘田澄男 |