中西太
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中西 太(なかにし ふとし、1933年4月11日 - )は、香川県高松市出身のプロ野球選手・監督、打撃コーチ。現役時代は数多くの伝説を残す強打者であり、現役引退後は数多くの打者を育て上げた名コーチとして知られる。愛称は「太っさん」。あるいは「太」。
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[編集] 来歴・人物
ポジションは主に三塁手。右投げ右打ち。高松第一高等学校時代は本塁打を量産し、「怪童」といわれていた。1952年、西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)に入団。1年目から活躍し、新人王を獲得。その後も首位打者・本塁打王・打点王のタイトルを多数獲得し、1958年まで毎年のように三冠王に近い成績を残した。1953年から1956年にかけては4年連続で本塁打王。
また、そのずんぐりむっくりな体型に似合わぬ俊足で盗塁数も多かった。1953年には36盗塁を記録し、史上3人目の打率3割・30本塁打・30盗塁(トリプルスリー)を達成している。三塁手としての守備もうまかった。目の前にフェンスが迫っていても怪我を恐れずに打球を追ったことから、遊撃手を務めていた豊田泰光とともに「金網デスマッチ」と言われていた。このため前歯を3本折損している。
非常に運動神経に優れていたことで知られ、本人も「私は農耕民族だから」と言う、その足腰の強さは特筆物であった。相撲好きであり、関脇鶴ヶ嶺(後の井筒親方)と非常に仲が良かったのでよく井筒部屋に出稽古に出かけていたという。しかし、十両ほどの力士であれば軽くあしらって勝ってしまうこともあったほどで、鶴ヶ嶺曰く「中西さんは相撲の世界に入っていても、間違いなく幕内までは軽々行ったと思う」。
豊田・大下弘・関口清治・高倉照幸・河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年にリーグ優勝、稲尾和久が入団した1956年からは3年連続日本一という西鉄の黄金時代を三原脩監督の元で築き上げた。この時期、三原監督の長女敏子のもとに婿入りし、三原の義理の息子となっている(戸籍上は「三原太」となっている)。1958年まではタイトル争いに加わるほどの打棒を誇るが1959年に近鉄の小玉明利に利き手をスパイクされて負傷、さらに翌年、1960年に腱鞘炎を患い満足なスイングができなくなり、代打での出場が多くなった。
[編集] エピソード
- 1953年8月29日、対大映戦(平和台野球場)で林義一投手から放った打球はライナーでバックスクリーンを優々と越え、場外の福岡城址まで届いた。推定飛距離は160m以上で、プロ野球最長飛距離の本塁打、また福岡城址は「外野スタンドから更に50m先」にあるため、180~190m近く飛んだ可能性もあると言われており、まさに球史に残る大ホームランであったとされる。
- 遊撃手がジャンプしてわずかに届かなかったライナー性の打球が、ものすごい勢いでそのままスタンドインした
- 投手の肩口を抜けたライナーが伸びに伸びて平和台のバックスクリーンを超えていった(青田昇の証言より。このとき青田はセンター前ヒットと思って一歩前に出たという)。
- 1965年の東京スタジアムでは中西の放った地面すれすれの強烈なライナーがショートを守っていた有町昌昭の膝を直撃、有町は病院送りとなってしまったが、彼はあまりの打球の速さに一歩も動けずグラブを差し出すことすら出来なかったという。
- ファールチップで焦げたボールの皮の匂いが、マウンド上の投手まで届いた(中西曰く、当時はバットを動物の脂で磨くことが多く、ボールが焦げたというのは誤りであるものの、ダッグアウトまでその匂いが届いたという)
- 素振りの音が相手ベンチまで聞こえた
- 戦後初の三冠王となるチャンスが何度もあった。惜しかったのは1956年と1958年。前者は首位打者を同僚の豊田と争ったが、最終戦を前に三原監督が両者に休養を命じたため、豊田の首位打者が決まった。後者は全日程を終了して三冠、ただし打点のみは大毎オリオンズの葛城隆雄と同数という状況で、葛城が最終戦でホームランを放ち逃したというものである。ちなみにこの時葛城に本塁打を打たれたのは元同僚の大津守投手(当時近鉄)で、後日試合で対戦の際に中西と顔を合わせ、「すまん」と謝ったとされている。
- バットスピードがあまりにも速すぎたために腱鞘炎になった。腱鞘炎になっていなければ率を除くすべての分野において2倍の通算成績を残していたと言われる。
[編集] 兼任監督時代
1962年、29歳の若さで西鉄の監督に就任。2年目の1963年には南海(現・ソフトバンク)と熾烈な優勝争いを繰り広げ、最後の4試合(2日連続のダブルヘッダー)に全勝し劇的なリーグ優勝を決める(これが西鉄最後の優勝となった)。しかし同年の日本シリーズでは巨人に3勝4敗で敗退した。1964年オフ、退団となった若林忠志ヘッドコーチの処遇を巡りバッシングを受ける。西鉄は5位であり、若林に成績不振の責任を取らせたとマスコミからの非難を浴びた。
若林退団の理由は末期ガンのためであったが、若林の家族の意向から退団の真相は中西と若林夫人しか知らなかった。自らの真の病状を知らない若林は、中西が見舞いに来るたびに、自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしいと語っていたという。それがもはや叶わないことを知っていた中西は涙が出るほど辛かった、と後に述懐している。若林は翌年58歳で死去。
1969年限りで現役引退、監督退任。同年10月に発覚し、西鉄の選手も関与していた八百長疑惑事件、いわゆる「黒い霧事件」についての道義的責任を負っての辞任でもあった。中西のつけていた背番号6は西鉄の永久欠番に指定された。しかし後の1973年、西鉄が身売りしたときに失効している。
[編集] 年度別成績
注:太字はリーグ最多。また四球欄のカッコ内は故意四球(敬遠)
年度 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 失策 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1952年 | 西鉄 | 111 | 384 | 57 | 108 | 12 | 65 | 16 | 0 | 26 | 0 | 38 | 12 | .281 | 36 | |
1953年 | 西鉄 | 120 | 465 | 92 | 146 | 36 | 86 | 36 | 1 | 41 | 1 | 52 | 13 | .314 | 27 | |
1954年 | 西鉄 | 130 | 493 | 87 | 146 | 31 | 82 | 23 | 2 | 4 | 51 | 4 | 73 | 10 | .296 | 16 |
1955年 | 西鉄 | 135 | 473 | 96 | 157 | 35 | 98 | 19 | 0 | 3 | 71(17) | 2 | 91 | 10 | .332 | 17 |
1956年 | 西鉄 | 137 | 462 | 74 | 150 | 29 | 95 | 15 | 1 | 5 | 54(17) | 1 | 70 | 8 | .325 | 16 |
1957年 | 西鉄 | 132 | 486 | 84 | 154 | 24 | 100 | 15 | 0 | 2 | 49(6) | 1 | 70 | 14 | .317 | 16 |
1958年 | 西鉄 | 126 | 404 | 61 | 127 | 23 | 84 | 8 | 0 | 2 | 60(10) | 3 | 59 | 10 | .314 | 17 |
1959年 | 西鉄 | 59 | 153 | 21 | 45 | 7 | 29 | 2 | 0 | 3 | 24(7) | 1 | 24 | 6 | .294 | 8 |
1960年 | 西鉄 | 32 | 47 | 6 | 17 | 1 | 10 | 1 | 0 | 1 | 6(4) | 0 | 8 | 4 | .362 | 0 |
1961年 | 西鉄 | 99 | 253 | 48 | 77 | 21 | 54 | 4 | 0 | 3 | 44(13) | 1 | 42 | 8 | .304 | 11 |
1962年 | 西鉄 | 44 | 71 | 6 | 19 | 2 | 11 | 2 | 0 | 1 | 9(2) | 1 | 8 | 4 | .268 | 1 |
1963年 | 西鉄 | 81 | 216 | 26 | 61 | 11 | 26 | 0 | 0 | 0 | 24(2) | 1 | 47 | 10 | .282 | 2 |
1964年 | 西鉄 | 33 | 40 | 2 | 6 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 6(1) | 0 | 10 | 2 | .150 | 1 |
1965年 | 西鉄 | 34 | 51 | 3 | 15 | 2 | 9 | 0 | 0 | 1 | 6(1) | 0 | 8 | 4 | .294 | 0 |
1966年 | 西鉄 | 51 | 51 | 6 | 14 | 6 | 15 | 1 | 0 | 1 | 3(2) | 0 | 9 | 0 | .275 | 0 |
1967年 | 西鉄 | 32 | 36 | 3 | 10 | 3 | 9 | 0 | 0 | 0 | 3(0) | 1 | 7 | 1 | .278 | 1 |
1968年 | 西鉄 | 26 | 25 | 1 | 10 | 1 | 8 | 0 | 0 | 0 | 3(3) | 0 | 5 | 1 | .400 | 0 |
1969年 | 西鉄 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1(0) | 0 | 2 | 0 | .000 | 2 |
[編集] 通算成績
- 通算試合 1388
- 通算打率 .307
- 通算打数 4116
- 通算得点 673
- 通算安打 1262
- 通算二塁打 207
- 通算三塁打 38
- 通算本塁打 244
- 通算打点 785
- 通算盗塁 142
- 通算犠打 4
- 通算犠飛 26(1954年より集計開始)
- 通算四球 481
- 通算死球 17
- 通算三振 624
- 通算併殺打 117
[編集] タイトル・表彰・記録
- 首位打者 2回(1955、1958)
- 本塁打王 5回(1953-1956、1958)
- 打点王 3回(1953、1956 - 1957)
- 最多安打 2回(1953、1957)
- 新人王(1952)
- 最高殊勲選手(MVP) 1回(1956)
- 野球殿堂入り(1999)
- ベストナイン 7回(1953-1958、1961)
- オールスターゲーム選出 7回(1953-1955、1957-1958、1961、1963)
- オールスター最優秀選手 2回(1954第1戦、1958第3戦)
[編集] 現役引退後
引退後はヤクルト(1971年~1973年、1983年~1984年途中)、日本ハム(1974年~1975年)、阪神(1979年~1981年)、近鉄(1985年~1990年)、巨人(1992年)、ロッテ(1994年)、オリックス(1995年~1997年)で監督、打撃コーチを歴任した(日本ハム・阪神では監督、またヤクルト、ロッテでは武上四郎、八木沢荘六両監督の途中辞任後の代理監督を務めている)。
監督としては優れた実績は残せていないどころか、江本孟紀の「ベンチがアホ」発言で槍玉に挙げられるほどであった。一方コーチとしては多くの打者を育成し、打者育成の手腕と打撃理論が高く評価されている。特に近鉄ヘッドコーチ時代の10.19決戦があった1988年と劇的なリーグ優勝を果たした翌1989年における仰木彬監督との名コンビによる活躍ぶりは選手からもファンからも大変な支持を得る(ただし、ベンチの雰囲気は仰木監督と中西「総監督」のような状態であった)。
同時に球団の人気も実力とともに急上昇し、近鉄は常勝チーム西武の最大のライバル球団となった。近鉄退団後もヤクルトを始め、様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めている。1999年、野球殿堂入り。2000年より日刊スポーツ野球評論家。近年甲状腺がんを患い容態が心配されているが、幸い経過は良好という。
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
1962年 | 昭和37年 | 3位 | 136 | 62 | 68 | 6 | .477 | 16 | 92 | .245 | 3.00 | 29歳 | 西鉄 |
1963年 | 昭和38年 | 1位 | 150 | 86 | 60 | 4 | .589 | ― | 146 | .244 | 2.69 | 30歳 | |
1964年 | 昭和39年 | 5位 | 150 | 63 | 81 | 6 | .438 | 19.5 | 116 | .242 | 3.57 | 31歳 | |
1965年 | 昭和40年 | 3位 | 140 | 72 | 64 | 4 | .529 | 15.5 | 112 | .246 | 3.00 | 32歳 | |
1966年 | 昭和41年 | 2位 | 138 | 75 | 55 | 8 | .577 | 4 | 125 | .231 | 2.13 | 33歳 | |
1967年 | 昭和42年 | 2位 | 140 | 66 | 64 | 10 | .508 | 9 | 98 | .222 | 2.50 | 34歳 | |
1968年 | 昭和43年 | 5位 | 133 | 56 | 74 | 3 | .431 | 24 | 110 | .237 | 3.17 | 35歳 | |
1969年 | 昭和44年 | 5位 | 130 | 51 | 75 | 4 | .405 | 25 | 119 | .225 | 3.40 | 36歳 | |
1974年 | 昭和49年 | 6位 | 130 | 49 | 75 | 6 | .395 | 6位 6位 |
96 | .246 | 4.11 | 41歳 | 日本ハム |
1975年 | 昭和50年 | 6位 | 130 | 55 | 63 | 12 | .466 | 4位 4位 |
100 | .258 | 3.89 | 42歳 | |
1980年 | 昭和55年 | 5位 | 130 | 54 | 66 | 10 | .450 | 20.5 | 134 | .262 | 3.73 | 47歳 | 阪神 |
1981年 | 昭和56年 | 3位 | 130 | 67 | 58 | 5 | .536 | 8 | 114 | .272 | 3.32 | 48歳 |
- ※1 1962年、1966年から1996年までは130試合制
- ※2 1963年から1964年までは150試合制
- ※3 1965年は140試合制
- ※4 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は上段前期順位、下段後期順位を表示
- 監督通算成績 1640試合 748勝811敗81分 勝率.480
[編集] 著書
- 『活人術―強い組織をつくるために』(1998/05 小学館 ISBN 4093872511)
- 『人を活かす 人を育てる』(1991/05 学習研究社 ISBN 4051056309)
[編集] 関連項目
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