太田幸司
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太田 幸司(おおた こうじ、1952年1月23日-)は昭和後期から平成期(1970年代~)のプロ野球選手(投手)、野球解説者、スポーツキャスター。青森県三沢市出身。血液型はAB型。
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[編集] 来歴・人物
米軍三沢基地職員をしていた日本人の父と白系ロシア人の母の間に一人っ子として出生。青森県立三沢高等学校在学中に、野球部のエースとして1968年夏、1969年春・夏と阪神甲子園球場で行われた選抜高等学校野球大会・全国高等学校野球選手権大会に連続出場を果たした。特に、1969年夏は、東北勢としては戦後初の決勝進出を果たした。その決勝戦、愛媛県立松山商業高等学校戦の2日間の熱投はあまりにも有名である。1日目は、三沢は満塁サヨナラの好機を2回も逃すなどもあり、延長18回(試合時間:4時間16分)を戦い抜いて0-0の引き分けとなった。太田はこの試合を1人で投げぬいた(投球数:262球)(因みに、松山商のエース・井上明投手も1人で投げぬいている(投球数:232球))。再試合となった2日目の試合も全イニングを投げたが、2-4で敗戦。決勝戦計27イニング、準々決勝からの連続45イニングを一人で投げ抜いた熱投も実らず準優勝に終わった。
太田は薄茶色の髪に色白で端正な顔立ちの美少年だったため人気があり、加えてこの決勝戦の熱投もあって、「コーちゃん」と呼ばれて女子高校生などに絶大な人気があった。そのため、悲劇のヒーローというよりも、アイドル甲子園球児の元祖というべき存在だったと言える。
同年のドラフト会議で近鉄バファローズから1位指名され、プロ入り。近鉄も、指名の挨拶に佐伯勇オーナー自らが向かうなど最大限の敬意を払って迎えたという。背番号は18。コーちゃん人気はプロ入り後も全く衰えることなく、プロ入り初年の1970年は、一軍でほとんど実績がないにもかかわらずファン投票1位を獲得してオールスターゲームへの出場を果たす。1971年、1972年も一軍での実績がさほどないままオールスターファン投票1位を獲得し続けていた。
やがてプロとしての実力も徐々につき始め、1973年には6勝、1974年には念願の2桁勝利(10勝)を上げる。1975年には自身最多となる12勝を上げた。1977年にも10勝を上げている。1979年には7勝を上げて球団初のリーグ優勝に貢献(ただし日本シリーズでの登板はなかった)。翌1980年のリーグ優勝には数字的な貢献はできなかったが、日本シリーズでの登板を経験した。
その後は十分な成績を上げられず、1983年には読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍(背番号33)、さらに1984年には阪神タイガースへ鈴木弘規とのトレードで移籍(背番号24)したが、両球団での一軍登板はなかった。結局、1984年のシーズン終了後に現役を引退した。
引退後は、毎日放送の野球解説者、スポーツキャスターとして活躍している。意外に親しみやすいキャラクターと話し好きな性格で好評を得ている。また、無類のゴルフ好きとしても知られ、2005年7月5日から鳥取県の大山ゴルフクラブで開催された日本アマチュア選手権に出場した(1打差で予選落ちの43位)。 また一人っ子ゆえ両親の扶養(現役後年より三沢から羽曳野市に家を作り両親を呼び寄せ同居、現在は両親とも鬼籍)などがあり、後年まで独身を通していたが、44歳にして18歳年下の女性とできちゃった結婚し話題となった。現在子は3人とも4人ともいう。 若手時代は東北訛りの残る青年であったが、現在では関西弁に完全になじんでいる。
[編集] 主な成績
- 年度別成績
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 投球回 | 安打 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970年 | 近鉄 | 25 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | - | 56.1 | 62 | 5 | 20 | 37 | 24 | 3.86 |
1971年 | 近鉄 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | - | 25 | 26 | 7 | 19 | 13 | 19 | 6.84 |
1972年 | 近鉄 | 16 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | - | 59.2 | 67 | 6 | 24 | 36 | 26 | 3.90 |
1973年 | 近鉄 | 40 | 4 | 1 | 0 | 6 | 14 | - | 192 | 161 | 21 | 83 | 113 | 69 | 3.23(13) |
1974年 | 近鉄 | 43 | 2 | 0 | 0 | 10 | 14 | 2 | 163.1 | 156 | 21 | 84 | 77 | 84 | 4.64(27) |
1975年 | 近鉄 | 35 | 12 | 1 | 1 | 12 | 12 | 1 | 188.2 | 169 | 17 | 54 | 91 | 78 | 3.71(19) |
1976年 | 近鉄 | 29 | 2 | 1 | 0 | 9 | 7 | 0 | 144 | 125 | 13 | 77 | 54 | 63 | 3.94(22) |
1977年 | 近鉄 | 36 | 14 | 2 | 2 | 10 | 14 | 1 | 218.2 | 208 | 23 | 45 | 72 | 78 | 3.21(10) |
1978年 | 近鉄 | 21 | 2 | 1 | 0 | 1 | 9 | 0 | 69.2 | 90 | 9 | 24 | 26 | 42 | 5.40 |
1979年 | 近鉄 | 31 | 4 | 1 | 0 | 7 | 4 | 0 | 136 | 135 | 15 | 47 | 47 | 50 | 3.31(5) |
1980年 | 近鉄 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 38 | 64 | 9 | 15 | 17 | 45 | 10.66 |
1981年 | 近鉄 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 9 | 3 | 1 | 2 | 2 | 2 | 9.00 |
1982年 | 近鉄 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 38 | 39 | 1 | 18 | 19 | 19 | 4.50 |
通算成績 | --- | 318 | 41 | 7 | 3 | 58 | 85 | 4 | 1331.1 | 1305 | 148 | 512 | 604 | 599 | 4.05 |
- オールスターゲーム出場回数 7回(1970年~1975年、1977年)
うちファン投票1位による出場回数 5回(1970年~1972年、1974年、1975年)
[編集] CM出演
現在は毎日放送ラジオの担当番組や野球中継中に流される阪本漢方製薬のCMに出演している。
[編集] 現在の出演番組
[編集] エピソード
- 北国の青森県出身であった太田は大阪の夏の暑さにやられ、夏バテとともに水虫を発症したことが太田の活躍を妨げた一因と言う話がある。
- 甲子園の2日間にわたる決勝戦と延長戦を一人で連投したことが、投手としての寿命を縮めた(能力を損ねた)のではないか、とはよく言われることである。太田本人はこの点に関し恨み言のような発言をしたことはない。
- 近鉄入団後、あまりの熱狂的な人気に参った太田を助けるために、チームメイトが選手寮を訪ねてきた女子学生に「太田はパチンコに行ったよ」と嘘を言ったところ、藤井寺駅前のパチンコ屋が瞬く間に太田のおっかけの女性ファンで一杯になったとの逸話がある。
- 太田の近鉄入団がきっかけで、近鉄と巨人のオープン戦が初めて組まれた。それまで巨人はあまりにも弱い近鉄との対戦を拒否していたが、太田の人気の高さに目をつけ、「太田を先発で登板させ、最低3イニング投げさせれば」という条件で近鉄戦を承諾した。この話には「当時からも巨人が傲慢だったことが分かる」と批判する近鉄ファンが多い。
- 太田は入団時開幕一軍メンバーに抜擢されたがこの決定に「二軍でみっちり体を作ってから一軍にあがるつもりだったのに…」に当惑。以降もこの状況が続き悩んでいたという。そのため1974年に西本幸雄が監督就任した際はほっとしていたという。(※ 西本は主力・若手の例外なく鍛える監督として知られていた。)事実西本監督以降実力がついた。
- 1992年、「もし阪神が今年優勝したら結婚する」と宣言。そのシーズン、阪神は最後までヤクルトと激しい優勝争いを演じ、結婚の話が現実味を帯びたが、結局2位に終わったため先送りとなった。
[編集] 関連項目
- 青森県出身の有名人一覧
- 三沢対松山商決勝延長18回引き分け再試合
- 三原脩(近鉄入団時の監督)
- 岩本尭
- 藤田元司
- 安藤統男
- 1980年の日本シリーズ
- 巨人の星(実名のキャラクターが登場)
- 太田幸司の熱血!!タイガーススタジアム
- 野球烈闘
- MBSタイガースナイター