宝田明
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宝田 明(たからだ あきら、1934年4月29日 -)は日本の映画俳優、タレント。日本映画の黄金期である昭和30年代、東宝を代表する二枚目スターであった。
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[編集] 来歴・人物
父は満鉄の技師だった。終戦後、旧満州・ハルピンから引き揚げ。中国語と英語を話す。
1954年(昭和29年)、東宝ニューフェイス第6期生として俳優生活をスタート。特撮映画の金字塔である『ゴジラ』で初主演を果たす。長身・美形の二枚目俳優として東宝映画の若手トップスターとなり、数多くの映画に主演した。1959年に、日本人初のミス・ユニバースの栄冠に輝いた児島明子と結婚し、二児をもうけた。長女は1991年に『ジプシー』が大ヒットした歌手の児島未散。
60年代は、東宝と香港のキャセイ・フィルムとの合作映画(「香港の夜」他)で、香港の女優・尤敏(ユーミン)とコンビを組んで、香港、台湾など、アジア地域で絶大な人気を博した。 1961年には小津安二郎監督が東宝で撮った映画『小早川家の秋』にも主演している。
特撮(怪獣)映画には『ゴジラ』の翌年の『獣人雪男』以来疎遠だったが、1964年の『モスラ対ゴジラ』の主演で復帰。以後も昭和から平成まで多く出演し、日本の特撮映画を代表するスターの一人という評価も得ている。
また、ミス・ユニバース日本代表選出大会の司会を1991年まで担当していた(1992年・1993年は石田純一が、1994年は坂東英二と島田紳助と岡元昇(ABCアナウンサー)が担当したが、1994年は2元生放送ゆえにバラエティー色を強めた為、視聴者からの抗議が殺到した)。 ビートたけしに代わり、お笑いウルトラクイズの司会を務めたこともあるが、ふざけた内容に激怒して1日で帰ってしまった。
1980年、中野区江古田に日本初のミュージカル俳優養成学校、宝田芸術学園を開校。
近年はにやけた気障な二枚目というキャラを逆手に取り新しい境地を開拓している。
[編集] 出演
[編集] 映画
- 1954年「ゴジラ」
- 1955年「獣人雪男」
- 1957年「わが胸に虹は消えず 第一部・第二部」
- 1957年「青い山脈」
- 1959年「日本誕生」
- 1960年「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」
- 1961年「香港の夜」A Night in Hongkong(日本=香港)
- 1961年「世界大戦争」
- 1961年「小早川家の秋」(監督:小津安二郎)
- 1962年「香港の星」Star of Hongkong(日本=香港)
- 1963年「ホノルル・東京・香港」Honolulu-Tokyo-Hongkong(日本=香港)
- 1964年「モスラ対ゴジラ」
- 1965年「最長的一夜」The Longest Night(香港)
- 1965年「香港の白い薔薇」(日本=台湾)
- 1965年「100発100中」
- 1965年「怪獣大戦争」
- 1966年「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」
- 1967年「キングコングの逆襲」
- 1969年「緯度0大作戦」
- 1990年「あげまん」
- 1992年「ミンボーの女」
- 1992年「ゴジラVSモスラ」
- 1992年「アラジン」(吹き替え)
- 1997年「マルタイの女」
- 2004年「ゴジラ FINAL WARS」
- 2005年「ファンタスティポ」
[編集] テレビ
[編集] テレビドラマ
- 徳川慶喜(NHK)
- 永遠のアトム 手塚治虫物語(テレビ東京)
- 聖徳太子(NHK) - 物部守屋役
- 白鳥麗子でございます!(フジテレビ)
- 私の青空(NHK朝の連続テレビ小説)
- ミニモニ。でブレーメンの音楽隊(NHK教育)
- 月曜ドラマシリーズ 私の青空2002(NHK)
- 帰ってきたロッカーのハナコさん(NHK)
など
[編集] バラエティ
- お笑いウルトラクイズ(日本テレビ)
- 謎のホームページ サラリーマンNEO(NHK)
- 生活ほっとモーニング(NHK)
[編集] 舞台
- アニーよ銃をとれ
- 南太平洋
- 風と共に去りぬ
- マイ・フェア・レディ
- ファンタスティックス
[編集] CM
[編集] その他
- 東京ディズニーランドのアトラクション「カントリーベア・シアター」 (ヘンリー役)