宮城事件
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宮城事件(きゅうじょうじけん)とは1945年(昭和20年)8月14日深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となり起こしたクーデター未遂事件。日本の降伏を阻止しようと目論んだ将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城を占拠、更に当時昭和天皇の居住していた御文庫を包囲した。しかし陸軍首脳部及び東部軍の説得に失敗した将校達は自決あるいは降伏し、日本の降伏表明は当初の計画通り行われた。
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[編集] 背景
[編集] ポツダム宣言の受諾決定
太平洋戦争(大東亜戦争)において日本の敗戦が既に決定的となっていた1945年8月上旬、6日の広島への原爆投下、9日のソ連参戦、長崎への原爆投下を受けて、政府ではポツダム宣言の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。
9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議においては、鈴木貫太郎首相はじめ米内光政海軍大臣及び東郷茂徳外務大臣が天皇の地位保証(国体護持)を条件として、阿南惟幾陸軍大臣及び梅津美治郎参謀総長はそれに加え幾つかの条件を付けた上での降伏に賛成した。
午前10時から断続的に開催された会議が終了した後、鈴木首相は天皇臨席の御前会議として再度最高指導者会議を招集した。10日午前0時から宮城内御文庫[1]地下の防空壕において開かれたこの御前会議席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定された。連合軍への連絡は午前7時から中立国であるスイスおよびスウェーデンの日本公使を通して行われている。
[編集] 陸軍内の動揺
御前会議での決定を知らされた陸軍内では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。午前9時に陸軍省で開かれた会議において、終戦阻止の為に阿南陸相が辞任することを匂わせた幕僚に対し、陸相は「不服なものは、まず阿南を斬れ。」と陳べ沈静化を求めたが、事態は悪化しつつあった。
8月12日午前0時過ぎにサンフランシスコ放送は連合国の回答を放送した。この中では日本政府による国体護持の要請に対して、「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従うもの (subject to) とする」と回答されていた。外務省がこの文章を「制限の下に置かれる」と訳し、あくまで終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では天皇の地位が保証されていないとして戦争続行を唱える声が多半を占めた。(これは陸軍では (subject to) を「隷属するものとす」と訳したからである。)その指導者格であり阿南陸相の義弟でもあった竹下正彦中佐は、阿南に終戦阻止を求め、更にそれが無理であれば切腹せよと迫っている。
午後3時から開催された皇族会議においては出席者は概ね降伏に賛成したが、同時刻の閣議および翌13日午前9時からの最高戦争指導会議では議論が紛糾した。午後3時の閣議においてついに回答受諾が決定された。陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)に面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。「兵力動員計画」と題されたこの案では、東部軍および近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえ戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで経戦を継続すると記されていた。阿南陸相は、梅津参謀総長と会った上で決心を伝えると伝え、一同を解散させた。
[編集] 8月14日
午前7時に陸軍省で阿南陸相と梅津参謀総長の会談が行われた。この席で梅津はクーデター計画に反対し、阿南もこれに賛同した。一方で鈴木首相は陸軍の妨害を排するため、天皇お召しの上での御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍民の要人数名を加えた会議を招集した。会議において鈴木首相から再度聖断の要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受諾を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけると述べて会議は散会された。同じ頃竹下中佐および畑中少佐は、陸相および参謀総長に否定されたクーデター計画案に代わる代案「兵力使用第二案」を練っていた。
閣議が始まった午後1時頃に日本放送協会 (NHK) の会長大橋八郎は内閣情報局に呼び出され、終戦詔書が天皇陛下の直接放送となる可能性があるので至急準備を整えるようにとの指示が行われている。
午後2時頃椎崎中佐と畑中少佐は近衛第一師団司令部を訪れ、師団参謀の石原貞吉少佐と古賀秀正少佐に面会した。おそらくこの際にクーデター計画の具体的な発動が決定されたと考えられている。更に午後3時過ぎに畑中少佐は東部軍管区司令部の田中静壱大将に面会を求めた。彼は東部軍のクーデター参加を求める予定であったが、入室した途端に田中大将に一喝され、萎縮して一言も喋らぬまま帰途についている。昭和天皇による玉音放送の録音は午後11時30分から宮内省政務室において行われ、録音盤は徳川義寛侍従に渡され皇后宮職事務室内の金庫に保管された。
[編集] 8月15日
午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁および放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により拘束された。彼らは兵士に銃を突きつけられ付近の守衛室に監禁された。
井田中佐と椎崎中佐は、近衛第一師団司令部において義弟である第二総軍参謀白石通教中佐と会談中であった森師団長に面会を強要し、クーデターへの参加を求めた。井田の記録によると、森師団長は否定的な態度を堅持していたが、「明治神宮を参拝した上で再度決断する。」と約束したとされる。井田と椎崎はこの言葉を聞き一時部屋を退出した。
二人と入れ替わりに師団長室へと入った畑中少佐、航空士官学校の上原重太郎大尉および陸軍士官学校の藤井政美大尉は、更に強い口調でクーデター参加を要求したと考えられる。[2]森師団長がこれを拒否すると畑中少佐は森師団長に発砲し、更に上原大尉が軍刀を斬り抜き斬殺した。同席していた白石中佐も上原大尉と窪田少佐によって斬殺された。二人の遺体はゴミ焼却炉に隠された。
この殺害を受けて師団参謀の古賀少佐は既に練り上げていた師団命令を作成、師団長の印を押して第一連隊に宮城内への展開を命じた。更に玉音放送の実行を防ぐ為に日比谷の放送会館へも近衛第一連隊第一中隊の兵士が派遣された。宮内省では電話線が切断され、皇宮警察の護衛官たちは武装解除された。玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀中佐は部下に捜索を命じている。宮内省内にいた石渡荘太郎宮相および木戸内大臣は金庫室などに隠れ難を逃れている。
井田中佐は水谷参謀長を伴って東部軍司令部へと赴き、東部軍のクーデター参加を求めたが、東部軍の田中司令官および高嶋参謀長は既にクーデター鎮圧を決定していた。高嶋参謀長は午前4時過ぎに芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡に成功し、森師団長の殺害を知りクーデターの正当性に疑問を感じていた連隊長に対し、師団命令が偽造であることを伝えた。芳賀連隊長はその場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻宮城から退去するように命じた。宮内省内では御文庫へ反乱発生を伝えた後に帰還していた徳川侍従が兵士と口論になり、第一大隊の若林彦一郎軍曹に殴打されている。宮城を離れた畑中少佐は第一中隊の占領する放送会館へと向かい、決起の声明の放送を要求したが、職員の機転によってこれは防がれた。
日が昇ってすぐ午前5時頃、東部軍の田中軍司令官が自ら近衛第一師団司令部へと向かった。偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた第一連隊の渡辺多粮連隊長を止め、司令部内に居た石原参謀は憲兵隊に引き渡された。
御文庫では兵士が周囲を取り囲み、機関銃が建物に向けて設置されるなど、突入の準備が行われていた。午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は、「自らが兵の前に出向いて諭そう。」と述べている。その頃、陸相官邸では阿南陸相が自刃し、竹下中佐は陸相印を用いて大臣命令を偽造しようと井田中佐に示唆したが、井田は既にクーデター失敗を悟っていた。
田中軍司令官は乾門付近で芳賀連隊長に出会い、兵士の撤収を命じるとそのまま御文庫へ、更に宮内省へと向かい反乱の鎮圧を伝えた。これを境にクーデターは急速に沈静化へと向かった。放送会館では東部軍からの電話連絡を受けた畑中少佐が放送を断念し、警備司令部では拘束されていた下村情報院総裁らが解放された。午前8時前には第二連隊の兵士が宮城から撤退し、宮内省内の地下室で息を潜めていた石渡内相や木戸内大臣も隠れ場を出て御文庫へと向かった。
二枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出され、無事放送会館及び第一生命会館に設けられていた予備スタジオへと運搬された。最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎中佐と畑中少佐は宮城周辺でビラを巻き決起を呼び掛けたが、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自決した。近衛第一師団司令部では古賀参謀が師団長室に静置された森師団長の棺の前で割腹自殺を遂げた。
午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の将校が軍刀を抜き放送阻止の為、スタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が放送され、戦争は終結した。
[編集] 戦後
クーデター鎮圧に決定的な役割を果たした田中東部軍司令官は8月24日の夜に拳銃で心臓を打ち抜き自決した。戦時中に宮中への空襲を許すなどしたことに対して責任を感じており、24日に発生した予科士官学校生徒によるNHK川口放送局占拠事件の解決を機にした行動であった。
近衛師団参謀の石原少佐は、8月18日に発生した水戸陸軍航空師団による上野山占拠に際し、これへの説得役を志願した。宮城事件の首謀者が帰順を呼びかけることにいきり立った将校によって彼は射殺された。
クーデター計画を策定した井田中佐は15日に陸軍省で自決する決心をしていたが、これを予期した見張りの将校に止められ断念した。戦後は電通に入社し、総務部長および関連会社電通映画社の常務を勤めた。戦後31年になり姓を岩田に変更している。同じく兵力動員計画を策定した稲葉正夫は防衛庁戦史編纂官を経て防衛研究所で研究員を勤めた。
事件に関係した将校たちは明らかに当時の軍法及び民法に違反する行為を行なったにも関わらず、敗戦時の混乱によってその罪は問われることがなかった。クーデター計画の中心人物が誰であったのか、さらに森師団長殺害時の状況など、いくつかの問題については現在もはっきりとは判明していない。
[編集] 注釈
- ^ 1945年5月25日の空襲によって宮殿が焼失した後に、天皇の住居は鉄筋コンクリート製の御文庫に移された。この付近の地下には地下壕も構築されており、終戦時の最高戦争指導会議および御前会議などはここで開催されている。
- ^ この殺害は事前に畑中らに命令されており、既に森師団長殺害を決心していたとする意見も強い(上原、藤井らは陸大出身ではなく、暗殺者として利用されたともされる)。森師団長殺害を巡っては当事者の記録の食い違いなどもあり、現在も真相は明らかとなっていない。
[編集] 関連項目
[編集] 関連文献・作品
[編集] 当事者による記録
- 『雄誥 大東亜戦争の精神と宮城事件』、西内雅、岩田正孝(井田正孝)、日本工業新聞社、1982年、ISBN 4819105183
- 『終戦秘話 ある近衛大隊長の手記』、北畠伸男、真生印刷、昭和57年
[編集] 評論など
- 『戦史叢書 大本営陸軍部 <10> 昭和二十年八月まで』、防衛庁防衛研究所戦史室、朝雲新聞社、1995年
- 『決定版 日本のいちばん長い日』、半藤一利、文芸春秋、1995年、ISBN 4167483157
[編集] 映画
- 『日本のいちばん長い日』(1967年、東宝、岡本喜八監督)
[編集] 小説
- 『帰らざる夏』 加賀乙彦 講談社現代文庫 ISBN 4061962353
- 後半のストーリーはこの事件をモチーフとしている。