小田急1800形電車
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1800形電車(1800がたでんしゃ)は、小田急電鉄に在籍していた通勤形電車。
小田急1800形電車 | |
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営業最高速度 | 95km/h |
編成定員 | 316(318)人 |
全長 | 20000mm |
全幅 | 2900(2930)mm |
全高 | 4020(4210)mm |
編成重量 | 76.85(72.7)t |
軌間 | 1067mm |
電気方式 | 直流1500V |
編成出力 | MT30A 142kW×4=568kW(1M1T) 全負荷速度56km/h・牽引力3300kg |
駆動装置 | 吊掛け式(歯数比:66:23=1:2.87) |
制御装置 | 油圧カム軸式抵抗制御(APF) (電磁空気カム軸式抵抗制御(CS5)) |
ブレーキ方式 | 電磁空気ブレーキ(HSC・保安ブレーキつき) (自動空気ブレーキ(MA-E、CA-E)) |
保安装置 | OM-ATS |
備考 | 特記事項がない場合は1973年(カッコ内1956年)時点 |
目次 |
[編集] 概要
戦災により落ちた輸送力の回復が急務であった時代に、国鉄が発注した600両の電車のうち、1946年度分の120両を、大型車の入線できる私鉄に割り振ったものの一部。国鉄63系電車のモハ10両とクハ代用8両が1946年鉄道軌道統制会から割り当てられたのに加え、自社発注のクハ代用2両が、東京急行電鉄小田原線に20両入線した。この中から厚木線へも12両が入り、分離時にはそのうちの6両が相模鉄道に残された(なお、夏季輸送の応援で再度小田急に入線した車両もある)。その後同じ元国鉄63系割当車で、車両限界や橋梁の強度の関係での運用が制限されていた名古屋鉄道モ3700・ク27006両を1946年に購入(これらの車両はデハが奇数向きであった)、さらに元国鉄42系・国鉄51系の戦災復旧車2両を加えた22両が1800系となった。その後、1957年から1958年にかけ国鉄73系の全金車に近い形態の全金属製の車体に更新されるなど改良を加えながら使用された。
[編集] 車号の変遷
63050→東急(小田急)デハ1801
63052→東急(小田急)デハ1802
63064→東急(小田急)デハ1803
63088→東急(小田急)デハ1805
63098→東急(小田急)デハ1804
63100→東急(小田急)デハ1808→相模モハ1808
63196→東急(小田急)デハ1807→相模モハ1807
63208→東急(小田急)デハ1806→相模モハ1806
63250→東急(小田急)デハ1809→デハ1806
63252→東急(小田急)デハ1810→デハ1807
63191→東急(小田急)クハ1859→クハ1856
63193→東急(小田急)クハ1860→クハ1857
63305→東急(小田急)クハ1855
63311→東急(小田急)クハ1856→相模クハ1856
63317→東急(小田急)クハ1853
63319→東急(小田急)クハ1854
63305→東急(小田急)クハ1857→相模クハ1857
63311→東急(小田急)クハ1858→相模クハ1858
なし →東急(小田急)クハ1851
なし →東急(小田急)クハ1852
63129→名鉄モ3704→小田急デハ1811→デハ1808
63131→名鉄モ3705→小田急デハ1812→デハ1808
63133→名鉄モ3706→小田急デハ1813→デハ1808
63272→名鉄ク2704→小田急クハ1811→クハ1858
63274→名鉄ク2705→小田急クハ1812→クハ1859
63276→名鉄ク2706→小田急クハ1813→クハ1860
42005(戦災廃車)→小田急デハ1820→デハ1811
60050(戦災廃車)→小田急クハ1661→クハ1871→クハ1861
参考
63082(事故廃車)→小田急サハ1752
63168(事故廃車)→小田急サハ1751
[編集] 車体
入線当初は当時の国鉄63系と同仕様の簡略化された戦時型の外観・内装であったが、疲弊しきった車両ばかりの中での新造車であり、1600形とともに復興整備車として看板を掲げ使用されたこともある。その後1951年から1953年にかけて床の二重化、天井の取付け、室内灯のグローブ取り付け、客室窓の3段→2段化、雨樋の取付けと屋根水切の撤去、貫通路の広幅化、パンタの2重絶縁化などの改造を受けながら使用された。また、運行表示窓は閉鎖されたが、国鉄や他社で早期に閉鎖された正面窓上のヨロイ窓が残っていたのも特徴である。
その後1957年、1958年に国鉄73系の全金化改造と同様の手法で更新工事を受け、前面は切妻のままながら小田急スタイル、側面は73系全金車スタイルの新車体となった。室内はデコラ張り、蛍光灯付でスタンションポールが残り(後に撤去)、座席が当時の小田急標準のゆったりしたものとなり、客室窓がHゴム支持であったことも特徴である。
1968年、1969年には体質改善工事を実施し、前照灯2灯化、正面種別表示器の新設、荷物棚の変更、デコラ張替え、吊手変更などがなされた。
さらに実質の4連化後に正面に出ている先頭車(1811-1861は両側)については貫通扉が交換され、行き先表示器が埋め込まれ窓が大きくなったものとなった。
[編集] 機器
入線当初は63系そのままであったがその後様々な改造を経ている。
[編集] 制御器
当初は初期の63系のCS5であった。戦前形の電磁空気カム軸式で、ウエスチングハウス・三菱系の単位スイッチ式のHLやABFを使用してきた小田急では当初保守に苦労したとされる。制御段数は直列5段、並列4段、弱界磁1段で、弱界磁は国鉄同様後の復活(更新工事時)である。また、主電動機出力が大きく発車時のショックが大きかったため弱界磁起動に改造され、その後1969年、1970年には制御器と主抵抗器が交換され、めずらしい油圧カム軸式の三菱APF-H4128-802に交換された。
[編集] 主電動機
MT30AまたはMT40とされているが実際にはMT40であったと思われる。出力142kW(端子電圧750V時、小田急での諸元上は675V時の128kW)で直流電動機の車両としては小田急最大の出力である。駆動方式はギヤ比66:23=2.87の吊掛式。
[編集] 台車
TR25AとTR25のコロ軸受改造であるTR25C(クハ1851、1860、1861)であったが、製造当初はTR25の車両もあり、その振替のために1947年12月にTR35の国鉄モハ63589と63591が日車蕨工場からの新製配属の途中に小田原から入線し、63589とデハ1807は厚木線星川工場で、63591とデハ1802は経堂工場でそれぞれ振替を実施している。なお、1800系のTR25Aは63系のTR35(後のDT13)と同一のものであると思われ、このあたりは台車形式そのものも含め若干曖昧である。その後、体質改善工事時に枕バネを重ね板バネからコイルバネ+オイルダンパに変更したほか、ブレーキシリンダを車体装架から台車装架に改造している。なお、クハ1850はもともとモハ代用であったこともあり、デハとクハの台車形式は最後まで同じであった。また、デハ1802がクイル式のKH-1を装備したことがあり、クハ1871は当初TR-25であった。
[編集] その他
MGとCPは当初デハに搭載されていたが更新工事時にクハに移設され、最終的にはMGが9kVA/交流200VのCLG-318C、CPはAK-3となっている。ブレーキ装置は当初MA-EとCA-Eであったが体質改善工事時にHSC化された。また、この際にATS取付、信号炎管取付なども行われている。パンタグラフは当初PS13であったが、その後平衡装置部分を改造しその部分だけ枠の幅が広げられ、さらに枠の上半分が正面から見て逆ハの字形になる変わった形態に改造された。最終的にはPT43に変更されている。
[編集] 運用
小田急線全線で運用され、単独では2連の組合せで、1977年頃には8連で急行や準急にも使用されていたほか、体質改善工事後は4000形と連結して5連・8連で使用されていた。しかし、1973年4月及び5月と立て続けに脱線事故を起こし、この2形式の連結が原因と推定されたことにより、再び単独運用に戻った。また、末期には4連にほぼ固定編成化された。なお、1948年には1600形とともにノンストップ特急の車種の候補に挙がり、同年8月13日にデハ1805とクハ1853で新宿-小田原間100分での試運転を行い、性能的には問題なかったが、大柄でバネ下重量も重い車両だっため、弱い軌道を走ったことによる動揺が大きく、実際に運行につくことはなかった。
[編集] 廃車
1979年から1981年にかけて廃車され、22両が秩父鉄道に譲渡され20両が800形となり残りの2両が部品取用となった。
[編集] (参考)小田急線への国鉄電車の入線
1800形を始め戦時中・終戦後の混乱期においては輸送力の確保のために多くの国鉄17m車・20m車が応援のために入線し、大きな役割を果たしただけでなく、後の20m車導入の基礎となっている。
- 1944年(東海道線の代替輸送の準備)
- 1945年(輸送力確保のための応援)
- 空襲により東海道線・京浜東北線が不通になったため5月25日から中野電車区のモハ30とクハ65のMTTMの4連が入線し、新宿-藤沢間の準急に使用された。なお、このときは国鉄運転士が運転している。
- 8月に神奈川県内の旧日本軍の撤収の応援のために中野電車区から3両編成2本が入線し、中野出庫-新宿・小田原間の運行-小田原入庫、小田原出庫-新宿・小田原間の運行-中野入庫の運用につき、数日後には中野出庫-新宿・藤沢間の運行-中野入庫の運用のためにもう1編成が入線した。この運用は1946年1月まで続けられた。車両はモハ30、50、クハ55、サハ25などによるMTMの3連で、クハ55は小田急線での20m車の初めての本格使用である。
- 9月には2両編成2本が入線し、新宿-稲田登戸間を中心に使用された。これは約1週間ごとに検査のために中野に帰る以外は小田急線内にとどまる運用であった。こちらは11月末まで続けられ、車両はモハ30、31、50、クハ55、65のほか鋼体化改造のクハ79012が1800系より先に63系として初めて入線している。
- 上記の応援が国鉄側の車両不足により中止となったため、12月には旧青梅鉄道のモハ104、503とクハ2、1003が入線したが状態が悪く、井の頭線でデハ1700形のクハとして1946年11月まで使用し、井の頭線の小田急車を一部戻している。
- 1946年(鉄道軌道統制会から割当)
- 本稿で述べる1800形である。1946年8月から1947年にかけて入線し、入線に当たってはメーカーから直接入線するものと、三鷹区や津田沼区に入ってから入線するものがあり、クハ1851、1852以外は国鉄の社号をつけて入線後に東急の社号に書き換えた。また、デハ1809と1810が逆向きに経堂に入ってしまい、再度国鉄へ戻り方向転換して戻されるということもあった。
- 1947年(南武線輸送力増強)
- 南武線の限界の拡大工事が終わり国鉄電車が入線できるようになるまでの間、国鉄電車を小田急に入線させ、その代わりに小田急の電車を南武線に貸し出した。2連3編成が5月に入線し、当初クハ65とモハ50であったがモハ31やモハ60も加わり、最終的には11月まで使用された。
- 1948年(旧南武鉄道車およびサハ25の借用)
- 旧南武鉄道のモハ100形4両を5月から暮れまで借用し、区間列車に使用した。
- 8月には廃車予定の木造サハ25を借用し、1600形の付随車として12月まで使用した。
- 1950年(米軍の特殊輸送の応援)
- 夏季輸送及び米軍の特殊輸送の応援のため、8月にモハ63とクハ65のMTMの3連2本を中野電車区から借用した。
[編集] 関連項目
- 相模鉄道3000系
- 東武鉄道7300系
- 名古屋鉄道3700系
- 南海電気鉄道モハ1501形
- 山陽電気鉄道700形電車
- 国鉄63系
- 国鉄73系
- 小田急電鉄の車両 (■カテゴリ) ■Template ■ノート
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