国鉄63系電車
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国鉄63系電車(こくてつ63けいでんしゃ)は、1944年から1951年にかけて大量に製作された日本国有鉄道(国鉄)の通勤形電車である。
当初戦時体制下の輸送力増強を目的に開発された電車であり、21世紀現在のJRや大手私鉄でラッシュ輸送に広く用いられる「全長20m、片側4ドア」車体を本格採用した最初の電車として、日本の鉄道史上画期的な存在である。戦後の混乱期を背景とした輸送需要の増加に際し、在来車両の戦災損耗や老朽化による著しい輸送力不足を補い、大都市通勤輸送の主力を担った。
しかし、その登場の経緯から極めて粗悪かつ不完全な設計であり、1951年に発生した車両火災事故の「桜木町事故」に際しては、63系の設計の欠陥が被害を拡大させる原因となった。桜木町事故における欠陥の露呈に伴い、全ての63系は安全対策を主とした更新修繕を受けて、72系に改番された。
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[編集] 登場の経緯
第二次世界大戦末期の1944年、戦局も敗色濃くなる中、兵器生産へ人員を動員するための通勤輸送用として、緊急に開発された。
最初に木造車の改造(鋼体化)名義で「クハ79形」制御車が登場し、追って「モハ63形」制御電動車及び「サハ78形」付随車が新製されたが、終戦までに間に合ったのは、わずかにクハ79形8両[1]、モハ63形14両[2]、サハ78形8両にすぎなかった。本格的に量産されるのは終戦後のことであるが、1950年までの間に実に688両[3]が量産され、戦後復興の一翼を担った。
車両の最大長は、従来車と同じく20メートルとされたが、連結器長を縮めて車体長を19.5メートルに延長し、収容力を増加させた。また、幅1000ミリの扉が片側4か所に設置された。満員に詰め込んだラッシュ時の換気に配慮して、屋根には太い煙突状の筒に覆いを被せた形の、グローブベンチレータを装備した。また同様に換気促進を目的として、側面の窓は3段に区切られ、中段は固定、下段と上段がそれぞれ開けられるように作られた。
全体的には「戦争に勝つまでの間、数年保てば良い」という概念のもとに、資材を極限まで切り詰めた設計がなされた。車端部の形状も工作の簡易化のため単純な切妻構造とされ、雨樋も省略された。また、鋼材の節約のため外板は従来より薄い1.6mm厚とされ、歪み取りの措置も行われなかった。車体下部の台枠部分の外板も省略されている。
電装品も一部が省略されたり、粗悪な代用品が使用されるなどしており、特に絶縁関係の脆弱さは、後に桜木町事故の原因となるなど問題の多いものであった。内装においても、通常の車内の内張りが省略され、木造の屋根には骨組みが剥き出しで、照明はカバーもつかない裸電球であった。座席はドアエンジンを覆う部分以外にはほとんど設置されなかった。さながら当時の民家同様、バラック同然な車体であった。
また当時は電装部品が不足していたため、運転台付きの電動車として計画されながら、床下にモーターなどの電装品がない状態で、制御車扱いで運用に入った車輌も多かった。さらにひどい場合は電装品どころか、運転台に装備する制御機器もないため、付随車扱いの状態で運用に入った車輌さえあった。それらの車両は識別のため本来の「モハ」の記号に代えて「クモハ」(制御車扱い)・「サモハ」(付随車扱い)と表記していた(「制御電動車」を示す「クモハ」の記号は当時は制定されていなかった)。
[編集] 試験車としての63系
国鉄は1947年以降、電車に関する新技術の開発に次々と取り組んだ。しかし、その当時に生産が行われていた国鉄電車は63系1系列のみであり、メーカーから続々と送り出される63系電車は、新しい技術の試験用車両としても利用されることになった。
[編集] 台車
63系の標準的な台車は当初、戦前からの鉄道省標準型である、鋼材を組み立てたペンシルバニア形のDT12形であった[4]。
太平洋戦争後、国内のベアリング工業が軍需から民需に転換したのを機に、鉄道業界にもローラーベアリングの導入が図られる。起動抵抗や車軸の発熱を減少させ、メンテナンス性を改善できる[5]ので、鉄道の現場からも歓迎された。そこでDT12形のプレーンベアリングをローラーベアリングに変更したDT13形が開発される。以後このタイプが63系の標準台車となった。
また、一部のモハ63形には試験的に、扶桑金属(旧・住友製鋼所、現在の住友金属工業)製の鋳鋼台車が用いられた。ウイングバネ式のDT14形[6]と、軸バネ式のDT15形があったが、両者は多くの部品を共用している。DT15形は、80系電車の高速型台車DT16形の原型となった。
[編集] モーター
当初、戦前からの標準型であるMT30形[7]を搭載したが、1948年頃から改良型のMT40形[8]に移行している。端子電圧差[9]を考慮するとほとんど差がないが、独立した冷却ダクトを持つMT40形の方が過負荷へのゆとりがあった。のちにMT30からMT40に交換した車両もある。
MT40形はその後、80系電車、70系電車、72系電車にも用いられた。国鉄電車用の釣り掛け駆動主電動機の最後を飾る優秀なモーターである。
[編集] パンタグラフ
戦前同等の、トラス構造を用いた良質な標準型はほとんど用いられず、戦中新たに開発された簡易型のPS13形パンタグラフが搭載された。内側にトラスのない、枠だけのラーメン構造で、下半分の部材には通常の鋼管を使わず、鋼板を折り曲げて部材を構成していた。
粗末な構造で、当初は強度不足による歪みも頻発した。しかし、架線への追随性能は意外に良好で、広範に用いられた。旧型電車はもとより、新性能電車といわれる101系電車や151系電車さえ、登場当初にはこのパンタグラフを搭載していたほどである。
このことから、PS16以降のいわゆる「新性能用」パンタグラフでは、トラス構造は復活したものの、鋼管ではなく鋼板部材が使用されるようになった。
[編集] 制御装置
63系は、戦前からの標準型であった電空カム軸制御器[10]のCS5形制御装置を搭載していた。しかし一部の63系は、構造が簡素で軽量となった電動カム軸制御器のテストに用いられた。この結果、電動カム軸式のCS10形が正式に採用され、80系や72系などに搭載された。
[編集] ジュラルミン電車
1946年に、川崎車輌(現在の川崎重工業)で作られた63系のうち6両(モハ63900~902、サハ78200~202)が、外板をジュラルミン張りにして製作された。これは日本で初めて軽合金車体を用いた電車である。終戦による航空機需要の途絶により、航空機用材料のジュラルミンが余っていたことから試験的に製作されたものであるが、骨組みは普通鋼を用いている。なお、これらは内装材にもジュラルミンを使用していた(床板と荷物棚は木製、座席は布張り)。
外観は溶接構造ではなく戦前型電車のようなリベット留め[11]。クリアーの塗料を塗っただけの銀色で、アクセントに細い緑帯が入った。照明に蛍光灯を試験採用したため車内も明るく、「ジュラ電」と呼ばれて注目を集めた。
しかし、もともと腐食しやすいジュラルミン(現在の物より質も悪く、アルマイト加工など腐食防止の技術もなかった)に加え、他の63系同様に粗悪な絶縁素材を使っていたために電蝕症状が進行。数年程度使った時点で車体が著しく劣化し、1950年には塗装が施されたものの、1954年に72系への形式再編の際、6両とも通常の全金属形車体(普通鋼外板)に改造された。
[編集] 63系電車の私鉄導入
太平洋戦争中の酷使や戦災の結果多数の電車が損耗し、一方で買い出し客を中心に輸送需要が増加したことで、戦後の私鉄各社は著しい輸送力不足に苦しんだ。
1946年から、運輸省(鉄道軌道統制会。のち鉄道車輌統制会)の統制の下、大手私鉄に運輸省標準型電車としてモハ63形を割当供給し、その代わりに中小型車を地方中小私鉄に譲渡(供出)させることになった。その際、モハ63形電車の割当てを受けたのは東武鉄道、東京急行電鉄(小田原線→現・小田急電鉄、厚木線→現・相模鉄道)、名古屋鉄道、近畿日本鉄道(南海線→現・南海電気鉄道)、山陽電気鉄道の各社線[12]で、1948年までに合計120両が統制会の手を通じて各社に供給された。
統制会を通して割り当てられた63形電車は、名目上、国鉄が一括発注し、各私鉄に割り当てる形をとったため、国鉄番号を持つ。ただし、直接私鉄が発注し、国鉄番号のない車両が計4両あった。
- 東武鉄道
- 統制会より40両の割り当てを受け(内2両は国鉄番号なし)、6300系(1952年に7300系に改称)の呼称を与えられる。のち名古屋鉄道から14両譲受。1959年以降新造車体への載せ替え改造を受けた。
- 東京急行電鉄
- 統制会より20両が割り当てられ(内2両は国鉄番号なし)、1800形となり、小田原線(→小田急電鉄)に14両、厚木線(→相模鉄道)に6両が投入された。厚木線配置の車両が相模鉄道に移籍したのち、名古屋鉄道から6両を譲受した。1957年以降内外装の張り替え工事を受けて形態を一新、のち秩父鉄道に売却され800形として使用されたが、現在では廃車されている。
- 名古屋鉄道
- 統制会より20両が割り当てられ、3700系(初代)となるも、名鉄線の車両限界が小さく、運行可能な区間に制約があったため、十分に活用できなかった。この結果、より小型の新車導入に伴って、1948年に東武鉄道と小田急電鉄に譲渡。
- 近畿日本鉄道
- 統制会より20両が割り当てられた。後に全て南海電鉄に承継され、モハ1501形となった。全車近畿車輛製で、自社の親会社への納入ということで特別仕様として社章と凝った造りのシャンデリア風の車内灯が装備された(63系は通常裸電球装備である)。600Vの大電流に対応し、また在来車との混用の必要性から通常のCS5形ではなく、ALF単位スイッチ制御器を装備した。のち1959年以降車体新造し、使用機器は1521系とED5201形電気機関車に引き継がれている。
- 山陽電気鉄道
- 統制会から20両が割り当てられた。63系唯一の標準軌仕様。初期車6両は剥き出しの天井のままであったが、それ以降の14両は天井にジュラルミン板を張って納入され、原番号が63800番台であったことから800形800~819となる(のち700形700~719に改称)。当時の山陽電鉄には神戸市内に併用軌道区間(路面走行区間)があり、本形式も1968年の神戸高速鉄道開業まで道路上を走行した。20m級の大型電車が併用軌道を走行したのは前代未聞のケースであった。のち1957年の西代車庫火災による焼損をきっかけとした車体新造による2700形への更新、もしくはその構体を生かしたままでの更新改造を受けたが、現在ではいずれも全車廃車となっている。
63系は、当時日本最大級の電車の一つであった。が、上記の私鉄各社の内、戦前から63系同等の大型・大出力電車を導入していたのは南海のみで、その他の鉄道は、導入路線の地上施設の規格向上(カーブの緩和、プラットホーム幅削減や障害物撤去、架線電圧の昇圧、あるいは変電所の増強など)を行わなければ63系を走らせることができなかった。
低規格路線の多かった名古屋鉄道は早期に63系の使用を断念したが、その他各社は苦心の末に63系を走行させる条件を整えた。その結果、著しい輸送力増強が実現されることになる。
特に63系の大量導入で実績を上げた東武鉄道は、1953年に63系(7300系)同様の4ドア20m車体を持つ大型通勤電車7800系(当初7330系)を開発する。これは1961年までに164両も製作されて、高度成長期初期の通勤輸送の主力となった。以後東武鉄道では、主力通勤電車は20m4ドア車体を基本とするようになる。
また小田急・南海では1960年代以降本格的に20m4ドア車体の通勤電車を開発し、以後主力とした。
結果として63系電車の私鉄割り当ては、ラッシュ輸送における「ドア数の多い大型電車」の優位性を各鉄道会社に認識させるきっかけとなったと言える。また、63系が走行可能となった路線では同様な大型電車が容易に運転可能となり、長期的に見ても輸送力増強に大きくプラスとなった。
もっとも、戦災で在籍車を多数喪った為に窮余の策として本形式を受け入れた山陽電鉄は、当時車体幅2.4m、車体長15m級の小型車を運行しており、しかも軌道法準拠で開業した明石以東は架線電圧600Vであったため、架線電圧の1500Vへの昇圧および集電装置のトローリーポールからパンタグラフへの変更に伴う電気設備の全面的改修と、プラットホームなどの構築物の改築や移設などによる限界拡大工事を同時に行うという、新線開業に匹敵する大工事を実施する必要があった。このことは以後の同社の発展に大きく資するものであったが、車体幅2.8m、車体長20m級4扉車体を持つ本形式による2連は輸送力が過大であったため、次の820形(800形820番台車)で17m級に逆戻りし、神戸高速鉄道経由での阪神・阪急との相互乗り入れの関係もあって、以後20m級車の建造は実施しておらず、本形式も大半について、19m級2・3扉車体を備える2700形への更新を実施している。
また、間接的に63系を導入することになった鉄道会社としては、以下の各社がある。
- 西武鉄道 1953年に63系の事故廃車3両を国鉄から譲受、1956年に同一仕様1両を自社製造。(西武401系電車を参照のこと)
- 相模鉄道 太平洋戦争後の一時期、東急小田原線に運行委託していた経緯から小田急経由で6両を譲受(他に事故車1両を国鉄より譲受)。3000系の一部となる。のち車体更新。
この2社も20m級の大型電車が入線可能となり、西武鉄道は1957年から20m3ドア車体の電車を標準とした。相模鉄道では1961年以降、また西武鉄道は1977年以降、いずれも20m4ドア車体の電車を主力にするようになった。
このような経緯もあり、20m・片側4ドア構造の車体は、国鉄(JR)のみならず大手私鉄通勤電車の標準構造となっている。
なお、これ以外に1948年には、三井三池炭鉱専用鉄道(福岡県大牟田市・熊本県荒尾市)に63形と同形の通勤客車が5両投入された。専用線車両であるため一般営業運転には用いられなかったが、長期に渡って原形を保ち、1980年代に至っても、更新改造以前の63系に酷似した形態を残した貴重な存在であった。
[編集] 桜木町事故と63系の消滅
63系電車の極限まで簡易化された戦時規格の構造は極めて安全性に欠けるものであった。新製早々に漏電で全焼する事故が相次いでいた中、1951年4月24日には京浜東北線桜木町駅付近で、切断事故によって垂下していた架線に接触した63系電車が、短絡を直接の原因とする火災を起こし、可燃性が高くしかも旅客の脱出が困難という車体構造の欠陥によって、多数の焼死者を出す大惨事となった。この事故は桜木町事故と呼ばれ、国鉄戦後五大事故の一つとされている。「ロクサン形電車」の名は新聞等でも盛んに報道され、「欠陥電車」・「粗悪電車」の代名詞として当時の大衆にも知れ渡ることになる。「ロクでなし電車」とも揶揄された。
この事故の反省から、即座に窓構造の改造(3段窓中段可動化)や、ドアコックの設置、連結面側の貫通路の整備など、非常時の脱出が可能な構造への緊急改造が実施された。また、電装関係も徹底的な改善・改修が行なわれた。電動車は「63形」の悪いイメージを避けてモハ73形(制御電動車)に改称され、運転台を撤去した中間電動車はモハ72形となった。クハ79形、サハ78形も同様の改造を受けたが改称はされていない。また電装品不足から非電装のまま就役した「クモハ」「サモハ」はそれぞれ両形式に編入され、クハ79形100番台およびサハ78形300番台となった。
この工事は1951年から1954年の間に国鉄工場・民間車両メーカーを総動員して行われ、旧63系電車は、新たに72系電車(73系電車とも称する)のグループに再編された。この改造が終了した時点で、営業運行に供せられる63系は消滅した。わずか3年で大量の戦時規格車両の体質改善工事が完了したことは、桜木町事故が国鉄と運輸省に与えた衝撃の大きさを示している。
ただし、63形が完全に過去の形式となるにはそれ以降もしばらくの時間を要した。これは1949年に発生した三鷹事件の先頭車であったモハ63019が車籍上存在し続けていたためである。この車両は事件の証拠として地検からの保全命令が出されたため廃車できず、三鷹電車区の片隅に鉄骨剥き出しの車体だけが保管され、ほかの63系がすべて72系に改造された後も車籍が残されていた。このため、帳簿上は63形唯一の残存車となっていた。長期間保管されていたが、裁判が終了し保全命令の解除された1963年12月に除籍となり廃車解体された。これにより、ようやく63系は完全に消滅した。
72系に更新されて以降は国鉄72系電車の項に併せて記述する。
[編集] 現状
国鉄車、私鉄割当車ともに現在ではすべて廃車されている。
[編集] 脚注
- ^ 25両が改造予定だったが、戦局の悪化により、工事が中止されている。
- ^ 全車が付随車代用の「サモハ」あるいは「クモハ」(当時は制御電動車を示すクモハの形式称号は存在しなかった)として竣工。
- ^ 後述する私鉄割当車を含めると、合計804両となる。
- ^ 木造電車改造の初期形の一部にはTR11形台車付もあったが、のちに交換されている。
- ^ 当事の冶金技術においては、ローラーベアリングはプレーンベアリングに比してメンテナンス性と連続運用時の発熱低減という点で勝ったものの、重量増と、クリアランス確保不足による信頼性不足と言う点で劣り、またコストもかかるため、トータルにするとそれほど変わらないか、ローラーベアリングのほうが劣ったともされている。にもかかわらず国鉄が本格的に採用したのは、車両の性能や整備性と言うよりも、敗戦によって破綻状態となった国内工業を支える意味が強かったとする説もある。なお、現在の日本のローラーベアリング及びボールベアリングは極めて優秀であり、プレーンベアリングとは比較するべくもなくなった。
- ^ 当初の形式名はTR37で、メーカー形式はFS-1。先行して南海電鉄がクハ2801形最終増備車に採用したF-24の同等品である。
- ^ 端子電圧675V時定格出力128kW/780rpm(全界磁)。
- ^ 端子電圧750V時定格出力142kW/870rpm(全界磁)。
- ^ 戦前は架線電圧1500Vの場合でも、実際に架線から電車が集電する段階での電圧降下を10%と見込んで実効値を1350Vとし、これに合わせて主電動機の端子電圧も2個直列で1個あたり675Vとして取り扱っていた。これに対し、戦後は実効値でも1500Vとして取り扱えるようになったため、私鉄並みに架線電圧1500V・端子電圧750Vに変更された。従って、MT30→MT40では電機子や界磁の磁気回路設計にはほとんど変更がなく、運用上は同一に取り扱えた。なお、発電/回生制動常用のカルダン駆動車では、私鉄を含め、再び主電動機を端子電圧675V、あるいは4個直列前提で340Vとして設計するようになったが、これは高回転型モーターで高速域からの電制時に過電圧で失効するのを防ぐには、端子電圧に約10%程度のマージンを確保する必要が生じたためである。
- ^ 電磁弁制御による空気圧駆動シリンダを用いてカム軸を回転させ、主回路を構成する抵抗群の回路を切り替えるスイッチを動作させる。
- ^ ジュラルミンはその材料としての特性上、溶接に適さず、現在の航空機でも鋲接が使用されている。
- ^ これら以外に、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄と京阪電気鉄道)新京阪線(後の阪急京都本線)および近畿日本鉄道名古屋線が受け入れ条件を満たしているとして、統制会から割り当て受け入れの打診を受けたが、前者は新京阪線で発生した余剰車を神宝・京阪の各線に転用することが車両限界や架線電圧の相違からほぼ不可能で、供出車の捻出が困難であったことなどから、後者は善光寺カーブなど急曲線区間が存在し、入線は困難として、いずれも受け入れを拒否している。