小田急1900形電車
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小田急1900形電車(おだきゅう-がたでんしゃ) とは、小田急電鉄がかつて保有していた通勤形電車の1形式。制御装置から趣味的及び会社内部でABF車[1]と呼称されていた。
[編集] 1900形
1948年の大東急解体に伴い、小田急電鉄として分離後初の新造車として1949年に製造された。
当時の日本経済は敗戦後の粗鋼生産の低迷等で極端な物資不足の状況にあり、かろうじで国鉄モハ63形の私鉄各社への割り当てを強要せずとも済む程度には、状況は回復しつつあったが、依然として各種機器や部材の調達・生産には困難が伴う状況にあった。
そこで運輸省は車両や機器のメーカー、それに私鉄各社と「郊外電車設計打合会」を開いて今後の車両製作について討議した。
その結果、各部材の寸法や形状について徹底した規格化を行って生産上の非効率と部材の納入遅延を最小限に抑制すべく、私鉄各社の車両限界等を考慮した上で、高速電車についてはA型とB型に大別される最大公約数的な規格型車両設計案を1947年に運輸省で制定し、搭載される機器についても、メーカー各社の製造能力や得意とする技術などを勘案の上で、ユーザーである電鉄各社の要望も考慮して、馬力ごとに適応する既存品を標準機種として認定して生産の効率化を図ることとした。
こうして、1947年に俗に運輸省規格型電車と呼ばれる、これらの仕様を満たす車両を、前年にモハ63形が受け入れ不能であった各社線から優先的に割り当てて新造を認可する、という方針が定められた。
これにより、主として車体長や車体幅の制約からモハ63形の導入が困難であった大都市近郊の私鉄各社線の大半が久々の新造車投入の恩恵を被ったが、1947・1948年度の2年間に実施された割り当てで、各社の輸送状況が一応の改善を見たことから、1948年度の後半よりモハ63形を受け入れた各社についても、この規格型電車の導入が認められるようになった。
この際、最優先で認可された[2]のは山陽電気鉄道であり、これに続いたのが小田急電鉄であった。
これは、資材難が最悪の状況にあった、1946年の最も困難な時期に運輸省の方針に忠実に従ってモハ63形の割り当てを受け入れた[3]これら2社に対する、報奨の意味合いがあったと考えられ、当然ながら粗鋼生産量の回復に代表される日本の工業界の急速な復興に伴う、鉄道車両生産にかかわる周辺状況の改善も背景にあったが、これら両社は規格型とは言いながら、共に当時他社には認められなかった2扉クロスシート車の新造が特別に認められており、当時の運輸省はこれら2社を自らの政策による東西の私鉄の輸送状況改善のモデルケースあるいはシンボル的存在と考えていたとみられる。
本形式は、こうした事情から運輸省規格A'型に準拠して設計され、更に編成中間に挿入されるサハ1950形については規格設計に従いつつ、戦災省電からの台枠流用で製造された。
このため、サハは車体幅がデハと同じ2,760mmではなく省電譲りの2,800mmとなり、編成の美観が幾分損なわれた。また、その一方で1.1m幅の広幅貫通路、空気ブレーキ機構への中継弁付加によるブレーキ力の強化など、以後の新造車群に継承されてゆくこととなる幾つかの新機軸が本形式より採用されている。
基本編成はデハ1900-サハ1950-デハ1900のcMTMcによる3両編成となり、性能や電装品等は1600形とほぼ同一[4]であるが、車体は1800形導入で車両限界が拡大されたのを受けて、前述の通りデハ1600形が最大幅2,720mm、全長16,460mmであったのに対し、本形式は最大幅2,760mm、全長17,670mmと若干大型化されている。それに対して窓の寸法は規格型の仕様通り、1600形のそれに比して一回り小型のものが使用されており、幕板部が大きくやや重苦しい外観[5]となった。
その後1956年に特急車1910形(のち2000形)がデハ1907~1910・クハ1954・1955として、1960年には帝都電鉄由来の1500形からの改造車が東急車両製造で車体新造されてデハ1914・クハ1964として、それぞれ編入[6]され、ABF車としては最大両数となった。1953年には2連運用に充当するために制御車のクハ1950形が3両新造され、更に1956年に4両編成化が実施された際には、cMTTMcによる4連固定編成化は時期尚早と判断され、サハ1950形への運転台取り付けと、5両の新造車による全付随車のクハ1950形への統一が実施された。
この際、電動車が基本編成の両端に連結されていた関係で、運転台が新宿向きと小田原向きに分かれたが、他形式同様に新宿向きに方向統一するには小田原向き電動車の艤装を全てやり直す必要があり、その工期と費用を勘案し、サハ1950形改造車を新宿向き制御車とすることで解決が図られた。
1900形は車体寸法が2100形以降と同等で収容力が大きかったため、高性能車が出揃ってからも1976年まで使用された。廃車後、主電動機と一部機器は4000形に譲った。一部は西武所沢工場に売却され、整備・改造を施されて富士急行・岳南鉄道・大井川鉄道・伊予鉄道へ譲渡されたが、全車廃車済みである。ただしサハ1955の車体のみが岳南鉄道で倉庫として使われている。しかし「オールドEC保存会」が買取り、復元保存の方針を示している。
[編集] 1910形・2000形
1900形にやや遅れて同年1949年に温泉特急専用車両としてデハ1910-サハ1960-デハ1910の3連を組んで竣工した。
主要機器や車体の基本設計は1900形と同一であるが、特急運用にふさわしく2扉セミクロスシート車[7]とされ、サービス設備として中間車であるサハ1960形に喫茶カウンター[8]・トイレが設置された。
1900形の増備進捗のさなか、番号の干渉を回避すべく1950年に2000形に改形式されたが、この際1900形増備車は本形式の分だけ番号を飛ばして付番されており、本形式の1900形への編入はこの時点で確定していたと考えられる。
1700形登場後は特急の補完列車である「サービス急行」や一般の急行として2扉セミクロスシート車のまま運用されたが、1956年には格下げ改造工事が実施され、予定通り1900形の空き番号に編入された。
なお、この形式から「小田急ロマンスカー」の愛称が広まったことから、「初代(小田急)ロマンスカー」は当形式を指すのが妥当である。だが、社会的な認識として当初より特急専用車両として流線型を使用し、ビジュアル的に21世紀初頭でも「特異」な3000形「SE」車が広く知られる「小田急ロマンスカー」の「初代車両」と一般に紹介されることが多い。
[編集] 注記
- ^ ABFは三菱電機の直流電車用自動加速形制御装置の形式名で、本来は三菱電機の提携先であるアメリカ・ウェスティングハウス・エレクトリック(WH)社製制御器の形式名に由来し、A:自動加速 B:低圧操作電源 F:弱め界磁を示す。
- ^ 1948年12月に820形が神戸の川崎車両で竣工している。
- ^ しかも、いずれも従来は14~16m級車両を運行しており、その受け入れに当たっては大規模な地上設備の改修を要した。中でも山陽が優先されたのは、それに加えて受け入れ線区の半分が路面電車上がりで、架線電圧や軌間の相違、それに変電所の容量不足を解決する、というほとんど新線建設に等しい過酷な受け入れ作業が必要であったことに理由があろう。
- ^ これは1600形に使用されていた三菱電機製MB-146系主電動機が上述の規格型電車用125馬力級規格型電動機の1つとして選定されたことによるところも大きい。
- ^ これは規格型の基本方針として、入手の容易な規格寸法のガラスを使用することで資材調達の便を図るという目的もあったが、それと同時に、混雑時の換気を改善する目的で側窓を完全上昇式の2段窓としたため、窓寸法をやや縮小せざるを得なかった、という事情も関わっていた。
- ^ ただし、主電動機は更新前に本形式と共通のMB-146CFに交換されていたが、制御器については編入後も種車時代のCS5(制御線をABFと互換性を持つように結線して使用された)がそのまま使用されていた。
- ^ 私鉄向け2扉セミクロスシート車としては同じ川崎車両が製造した山陽電気鉄道820形が戦後初であり、本形式はそれに続く2番目の事例であった。なお、これら2形式は前面貫通路以外の車体仕様が酷似していた。
- ^ 日東紅茶による「走る喫茶室」がこの時誕生した。
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