山陽電気鉄道820・850形電車
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山陽電気鉄道820・850形電車(さんようでんきてつどう820・850がたでんしゃ)は、過去に存在した山陽電気鉄道の電車で、1948年から1949年にかけて製造された820形12両と、1950年に製造された850形6両で構成された、電車としては戦後初のロマンスカーとして有名な車両である。本系列は総称して800形とも紹介されることもあるが、800形は「広軌ロクサン(63)型」ととして有名な700形の当初の形式名でもあり、同形式と混同されやすいため、この項では本系列を820・850形として紹介する。
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[編集] 戦後初のロマンスカー
終戦後、戦災や自然災害によって極端な車両不足に陥った山陽電鉄は、63系の割当車である700形(入線当時は800形)を導入するという、思い切った手段をとることで車両不足を解決すると同時に、前身の宇治川電気鉄道部以来の懸案であった架線電圧の全線1500V化をはじめ、車体の大型化及び規格の統一についても同時に達成した。このことによって、兵庫~姫路間を大型車で直通運転できるようになったことから、700形に続く新車の導入が計画された。しかしながら、700形は当時の山陽においては超大型車であり、同じサイズの車両を増備することは輸送力が過剰になってしまうため、車体幅はホームに隙間が出ないように700形と同じ2.8mとしながらも、車体長は17mに短縮することとした。その後も社内で検討を重ね、営業面や沿線・利用者へのPR効果も勘案された結果、転換クロスシート装備のロマンスカーの導入が決定され、820形が登場することとなった。
[編集] 概要
820形は、820~829の10両が1948年12月から1949年3月にかけて川崎車輌において製造され、少し遅れて同年8月に改良型の830,831の2両が同じく川崎車両で製造された。付番方法は700形と同じく偶数番号が神戸寄り電動車に、奇数番号が姫路寄り制御車にそれぞれ与えられた。車体は運輸省の私鉄向け規格型車両に準拠しているが、この時期になると物資事情も比較的緩和されていたことから、基本デザインを除けば各社の自由裁量がきくようになっていた。そこで車体のデザインも側面窓配置はロマンスカーにふさわしいd2D8D3で、車内は扉間に転換クロスシートがずらりと並び、車端部は切妻で山陽初の広幅貫通路となっていた。前面は非貫通平妻の3枚窓で中央と左側の窓が2段窓になっていたほか、尾灯は左右の窓上に、裾部にはアンチクライマーがそれぞれ取り付けられていた。塗色は戦前の200形以来のツートンカラーで登場したが、当時のクリームと青緑色のツートンとは異なり、その後1980年代半ばまでの山陽の標準色となるクリームイエローとネービーブルーの鮮やかなツートンカラーで登場した。820形の台車は、川崎車輌製のボールドウインタイプの釣合梁式台車であるBW-4で、電装品は主電動機として三菱電機MB-115-BF[1]を、制御器として電空カム軸式のCS5を装備していた。しかし、モーターが非力であったことと歯車比(3.52)が高かったことから、軽快な外観とは似て非なる鈍足車となってしまった。
830,831の基本的な構成は820~829と同じであるが、830の連結面に小運転台を設け、屋根上に前照灯、左右の妻窓上に尾灯を取り付けたことと、台車に川崎車輌製の軸梁式台車であるOK-3を、電車では初めて採用[2]したことが変更点である。
850形は、820形の運用実績をもとに軽量化や速度向上を考慮して設計され、1950年9月に850~855の6両が川崎車輌で製造された。外観は、820形にあったアンチクライマーがなくなり、前面窓が全て1枚窓になった以外は大きな違いはないが、台枠の鋼材のうち、負担のかからない部分を薄くすることで軽量化を図ったほか、制御車に電動発電機と空気圧縮機を搭載することで、編成全体の重量の均等化を図った。足回りは台車こそはBW-4の改良型のBW-5を履いたが、電装品は非力だった820形の問題点を踏まえて、モーターの出力を110kwに増強、歯車比を2.85として高速域での走行特性を改善し、制御器には日本初の常用電気制動つき多段制御器の東芝PB-4を搭載、ブレーキは中継弁付きで台車シリンダー式のAMAR自動空気ブレーキとなった。
820形登場の前にも、1947年に運転を開始した近鉄特急など、優等列車にクロスシート車を使用した事例はあるが、近鉄特急の場合であれば戦前から走っていた近鉄2200系や近鉄6301系電車を整備して使っていたことから、特急車用の純然たる新車としては、820形が戦後最初に登場した車両であった。820形の登場後に製造された他の私鉄の特急用車両としては、同年に登場した小田急1910形や1950年に登場した近鉄6401系があるが、これらの車両に先んじてロマンスカーを導入したことは、大型化を完了したばかりの山陽にとっては快挙であった。
[編集] 特急時代
820形が5編成揃った直後の1949年4月15日のダイヤ改正で、「旅はこれでこそ楽しい」というキャッチフレーズを掲げて、兵庫~姫路間を途中長田、明石、飾磨の3駅に停車して所要時間75分、1時間ヘッドで走る特急の運転を開始した。全区間並走する国鉄山陽本線は、当時西明石以西は非電化で、C53・C59・C62といった旅客用の大型機が長編成の客車を引っ張る列車ばかりだったので、煙が出なくてしかも当時のスロ34・オロ35・オロ41といった国鉄二等車並みの転換クロスシートを装備した820形はたちまち利用者の人気を博した。このため、兵庫・姫路両駅の特急専用ホームにはベンチを並べて、ドアは1ヶ所のみを開けてベンチの列の先頭から乗車するようにしたが、列車到着前から特急を待つ長い行列ができたという。その好評ぶりは翌年に850形が増備されていることからも容易にうかがえる。
1951年9月に発生した西代車庫の火災で820形826-827と850形854-855の2編成を焼失したが、翌1952年までに新造車体を製造して復旧した。この際、826-827は850形と同じ車体で復旧されたほか、その足回りには同じく焼失した700形712-713の足回りから台車(DT13S)・主電動機(MT40)・主制御器(CS5)を一時流用した。また、820形の性能では850形と足を合わせてスピードアップを行うことは困難なことから、700形投入後から実施されていた変電所の容量増加と橋梁の強化工事完了後の、1954年から1956年にかけて、820形のモーター換装(90kw→110kw)と歯車比の変更を実施して、850形と同一の性能とした。
[編集] 格下げ後
820・850形は、1950年代前半の山陽の主力車であったが、1956年に2000系が登場し、翌1957年には826-827に流用されていた712-713の足回りを活用した2700系がデビューするに及んで、主役の座をこれらの形式に明け渡した。特急運用の第一線を退いた本系列はロングシート化されることとなり、850形が1960年に、820形が1961年から1963年にかけてそれぞれロングシート化を実施され、同時に先頭車を貫通式に改造するとともに、他形式との混用に備えて850形の制御器をCS5(850)及びCB-16C(852,854)に換装した。先頭車の貫通化改造を実施した際に運転台側の前面窓をHゴム支持に改造したが、車掌台側の前面窓については820形がHゴム支持改造を実施したのに対し、850形は従前の木枠のままであった。また、時期は不明ではあるが、830の小運転台が撤去されたほか、1965年からはBW-4及びBW-5型台車にオイルダンパを取り付けて、担いバネを板バネからコイルバネに換装し、軸受を平軸受からローラーベアリングに換装するなどの大改造を実施し、台車の形式名もそれぞれBW-4A,BW-5Aに変更された。
神戸高速鉄道開業前までは特急にも使用されていた820・850形であるが、神戸高速鉄道を介した阪急神戸線、阪神本線への相互乗り入れが開始されると、全長17mの本系列では神戸高速線内までの乗り入れに限定されたことから、必然的に普通列車主体の運用につくことになった(1970年代前半までは神戸高速線内発の急行運用につくこともあった)。また、乗客の増加によって3連化が進行したために、同じ17m2扉の270形を大阪側、姫路側のどちらか一方に増結して3連を組成した。更に、1960年代後半から1970年代初頭にかけて、貫通扉に行先方向幕及び種別表示幕の取付改造を実施した。この他、1970年に829と830で台車の交換を実施し、829がOK-3を、830がBW-4Aをそれぞれ装備した。
戦後の早い時期に登場して、大きな車体更新も実施されていなかった820・850形は、1970年代に入ると700,250形についで置き換えの対象となり、3050系の増備によって1973年に828-829,830-831の2編成が本系列初の廃車となった。しかし、同年の第一次石油ショックによる沿線工場の操業短縮に伴う乗客減によって1974年以降新車の投入がストップしたことから、本系列の置き換えは一時中断された。その後、1977年より3050系の増備が再開されると、本系列の廃車も再開され、1981年の826-827の廃車を最後に820形は形式消滅となった。引き続いて850形の廃車も開始され、1981,1982年に1編成ずつ廃車された後、1983年10月に288-854-855の3連で実施されたさよなら運転を最後に、こちらも形式消滅となった。
両形式の廃車は形式順に状態の悪いものから順に実施され、共に西代車庫火災の被災車を車体新造して復旧したものが最後となった。中でも戦後すぐの混乱期に製造された820形は車体の状態が特に悪く、末期は外板が大きく波打つなど痛々しい状況であったが、神戸高速鉄道開業前に不燃化改造工事が実施された際には、850形を含めて車体の補修が最小限にとどめられており、この時点で既に近い将来の廃車方針が決定されていたと考えられる。実際、石油ショックによる廃車延期があってさえ、820形は車齢25~33年、850形も車齢31~33年、と40年以上の長期使用が一般的な関西私鉄の車両としては比較的短命な部類[3]に入っており、粗製濫造が致命傷となったことをうかがわせている。
1973年の廃車後、830が教習車に改造され、台車を元のOK-3Aに換装されて車体を水色一色に塗り替えて室内に教習用の機器を積み込まれ、西代車庫の側線に同車庫移転後も長らく留置されていたが、高速長田~東須磨間の地下化工事の進展に伴っていつしか姿を消してしまった。また、820-821がしばらく東二見車庫に留置されていたが、直通特急運転開始に伴う5000系の増備によって車庫の構内が手狭になったことから解体されてしまった。OK-3台車のみが現在も東二見工場に保存されている。
[編集] 脚注
- ^ 端子電圧750V時定格出力93.3kW、定格回転数900rpm。
- ^ OK-1・2はいずれも国鉄客車で試験された。なお、続くOK-4(OK-IV)はOK-3と大差ない設計であったが、国鉄形式DT29を与えられてクモヤ93000に装着され、狭軌最高速度記録175km/hをマークしたことで知られている。
- ^ 山陽では、後継の2000系も車齢28~34年であったが、こちらは試作要素の強い電装品・車体設計の少量多品種系列であったが故の短命であり、同一仕様で量産された本系列のケースとは意味が異なる。
[編集] 参考文献
- 『私鉄電車のアルバム』各号(『1B 戦前・戦後の古豪』、『別冊A 荷物電車と電動貨車』) 慶應義塾大学鉄道研究会編 1981年 交友社
- 『鉄道ピクトリアル』各号(1976年11月臨時増刊号 No.327 特集『山陽電気鉄道/神戸電鉄』、1990年5月臨時増刊号 No.528 特集『山陽電気鉄道/神戸電鉄』、2001年12月臨時増刊号 No.711 特集『山陽電気鉄道/神戸電鉄』)
- 『関西の鉄道』 No.49 特集 『阪神電気鉄道 山陽電気鉄道 兵庫県の私鉄PartII』
[編集] 関連項目
- 山陽電気鉄道の旧型電車
- 山陽電気鉄道の電車
- 現用車両
- 過去の車両