山陽電気鉄道網干線
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網干線(あぼしせん)は、飾磨駅から山陽網干駅までを結ぶ山陽電気鉄道の鉄道路線。全線が兵庫県姫路市内を走行する。
新日本製鐵広畑製鐵所をはじめとする沿線の工場への通勤路線というかつての色合いは薄れ、現在は、姫路市南西部の生活路線という位置付けが強い。朝夕は、沿線から姫路や神戸への通勤客、周辺から沿線の高校(兵庫県立姫路南高等学校・兵庫県立網干高等学校)への通学生徒の利用が多く見られる。
2000年からは山陽電鉄の合理化により、網干線は網干駅、飾磨駅以外が全て無人化され、駅員の常駐は廃止された。
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[編集] 路線データ
[編集] 運行形態
かつては、飾磨から本線に入る山陽姫路駅との直通運転が見られたが、1991年(平成3年)のダイヤ改正で完全に廃止された。なお直通運転末期には、運行本数も夕方などに限られたものであった。現在は、完全に線内折り返しの運行で、1995年(平成7年)からはワンマン運転を行っている。運行本数は、平日の日中が毎時4本(15分ごと)、通勤時間帯には毎時5本(12分ごと)、土休日は終日毎時4本(15分ごと)が基本となっている。
[編集] 歴史
- 1940年(昭和15年)10月15日 電鉄飾磨~夢前川間が開業。
- 1940年(昭和15年)12月23日 夢前川~広畑日鉄前間が開業。
- 1941年(昭和16年)4月27日 広畑~電鉄天満間が開業。広畑日鉄前駅を広畑駅に改称。
- 1941年(昭和16年)7月6日 電鉄天満~電鉄網干間が開業し全通。
- 1991年(平成3年)4月7日 山陽姫路駅との直通列車廃止。電鉄飾磨駅を飾磨駅、電鉄天満駅を山陽天満駅、電鉄網干駅を山陽網干駅に改称。
- 1995年(平成7年)1月17日 阪神・淡路大震災で全線不通となる。
- 1995年(平成7年)1月18日 全線運転再開。
- 1995年(平成7年)6月16日 ワンマン運転開始。
[編集] 網干線延伸計画
一時は網干線を現在の国道250号にほぼ平行する相生・赤穂経由ルートで岡山方面に延伸する構想があった。山陽電気鉄道が、兵庫県内に局限された路線でありながら「山陽」とひどく広範囲な地域名を使っていることは、その影響とも見られる(単に播磨国が山陽道に属していたから、とも言える。南海電気鉄道が、南海道に属する紀伊国≒和歌山県へ向けて建設されたように)。
「山陽電気鉄道」の社名は、宇治川電気時代の1928年に飾磨~岡山間の鉄道敷設免許申請を行った際、別名義として用いられていた経緯がある。この免許申請は、当時の鉄道省が有年~赤穂~西大寺というルートで後に国鉄赤穂線として実現する競合路線の建設計画を持っていたため一旦却下された。
それでも、鉄道省の計画線と競合しない飾磨~赤穂間についてはその後も延伸が企図され続け、1936年に再度電鉄飾磨~相生(那波)間の鉄道敷設免許申請が行われている。この際、電鉄飾磨~網干間については、日本製鐵(後の新日本製鐵)の製鉄所建設決定など急速な工場立地が進んだことから、その必要性と緊急性が認められて1937年に免許が交付された(日米開戦直前の1940年10月から翌年7月にかけて全線が開通)。しかし、残る網干~相生間はその必要性の低さから再度却下された。
この区間の建設計画が再浮上したのは戦後になってからで、1952年に姫路市網干~赤穂市上仮屋間25.2kmの鉄道敷設免許が交付された。前年(1951年)に国鉄赤穂線の相生~赤穂間が開業していたにもかかわらず、並行線建設が認められた背景には、燃料事情の極端な悪化でバスなどの運行が困難であった当時の社会情勢が影響している。
だが、この区間は揖保川への橋梁架設など、建設工事にあたって様々な技術的困難が存在し、また多額の建設資金が必要であった。しかも、その後の急速な燃料事情回復から、鉄道延伸の必然性自体が著しく低下した為、ほどなく計画は中断された。
最終的に1971年秋の網干~相生間免許失効をもって、社名の由来の一つとも言えたこの網干以西への延長計画は完全に消滅している。
[編集] 駅一覧
飾磨駅 - 西飾磨駅 - 夢前川駅 - 広畑駅 - 山陽天満駅 - 平松駅 - 山陽網干駅
[編集] 接続路線
- 飾磨駅:山陽電気鉄道本線