川名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川名(かわな)は神奈川県藤沢市東端に位置する大字。旧鎌倉郡津村郷川名村。
目次 |
[編集] 地誌
北は柏尾川南岸を境に弥勒寺・宮前と接し[1]、西は境川の西岸を境に鵠沼と接する。南は新林公園(後述)付近を境に片瀬山と接し。東、東南は川名緑地(後述)・東レ基礎研究所・神奈川県立深沢高等学校を結ぶラインを境に鎌倉市手広・津と接する。
柏尾川と境川の合流点に位置するため、川岸のエリアは古くから水害に悩まされてきた一方、そのほかのエリアは砂地で構成された台地だったため干害に悩まされた。
かつては住民のほとんどが農家で、周辺は田畑しかなかったが、高度経済成長期以降急速に開発が進み、台地の多くは切り崩され神奈川県道32号藤沢鎌倉線沿線を中心に工場・高層マンション・商業施設などが立ち並ぶようになった。
一方開発を免れた南側は標高100メートル程度の台地が残り、自然が残っているエリアとなっている。 →川名緑地、新林公園
[編集] 交通
[編集] バス
[編集] 道路
- 南藤沢交差点 - 国道467号
- 南藤沢交差点 - 神奈川県道32号鎌倉藤沢線(終点)
- 川名交差点 - 神奈川県道312号田谷藤沢線(終点)
[編集] 旧道
[編集] 歴史
川名の台地部分には縄文時代~弥生時代ごろにかけての遺跡が横穴墳墓を中心に複数存在し、古くからこのあたり一帯に集落が存在した事が証明されている。
平安時代になると川名は御霊神社など村岡平氏ゆかりの史跡が残る事や、村岡平氏の本拠(村岡郷)に近かった事などから、村岡平氏の支配下にあった事が推測できるが、確証となるような史料はない。
大庭御厨成立後から鎌倉時代初期ごろまでは大庭氏の影響下にあったと推測されている。
戦国時代、川名は後北条氏の支配下となり、永禄年中には大谷彦次郎が知行していた事が役帳に残されている。(神光寺付近の小字に「殿屋敷」というものがあるが、このあたりに大谷氏の屋敷が存在したと推測されている。新編相模国風土記稿が作られたころにはこの大谷氏の屋敷跡が遺跡として残っていたようである)
後北条時代の川名は境川沿いに諸役を免除した市場がおかれ、また御霊神社・神光寺付近にも門前町が存在し、栄えていたという。
1591年(天正18年)小田原征伐により後北条氏が滅ぶと、川名は徳川家康の支配下となり、以降1694年(元禄7年)に旗本の井上左太夫の知行となるまでは天領だった。
近世期の川名は谷戸田[2]や深田[3]などが多く、もともと米の収穫量が少なかったが、柏尾川の氾濫による水害、灌漑設備の未発達による干害によりたびたび困窮した。また藤沢宿の定助郷にも指定されていた事もこの困窮に輪をかける事になる。
幕末になると異国船警護役を受けた川越藩や彦根藩が知行した、このため川名の村民は異国船警護の人足としても徴発されるようになったため、さらに困窮し、藤沢宿の助郷免除の訴えを起こすにまでいたった。
1889年(明治22年)、川名村は村岡郷五か村(小塚村・高谷村・宮前村・弥勒寺村)・柄沢村と合併し、川名は村岡村の大字となった。1941年(昭和16年)、村岡村が藤沢市に合併されて以降は藤沢市の大字となる。
[編集] 史跡
[編集] 御霊神社
川名村の鎮守で、創建は天慶4年(941年)で宮前にある御霊神社を分社したものと伝わる。宮前のものと区別するために「川名御霊神社」と呼ぶ場合もある。正しい読みは「ごりょうじんじゃ」だが、地元では「おれいじんじゃ」と読む事の方が多い。
御霊信仰にもとづき早良親王を祭神とし、また郷土の英雄鎌倉景正や疱瘡神なども祀られている。毎年9月に行われる例大祭では人形山車と共にお囃子(川名屋台ばやし)が町内を練り歩く。なお川名屋台ばやしは1976年4月15日に藤沢市の無形民族文化財に指定された。
毎年1月にさいと焼き(左義長)が行われる。
[編集] 神光寺
読みはじんこうじで山号は稲荷山影向院(いなりさんようごういん)。古義真言宗の寺で江戸時代は青蓮寺の末寺だった。1851年(嘉永4年)に付近の寺、大勝寺を合併し、今にいたる。
[編集] 横穴古墳群
神光寺脇などの丘陵部に複数存在する。多くは縄文時代~平安時代にかけての墳墓と見られており、やぐらの形式を持つものもある。
川名付近には他にも縄文時代から平安時代ぐらいまでの遺跡・遺物が多数出土している。
[編集] 観光地
[編集] 新林公園
[編集] 川名緑地
川名緑地は川名南部に位置する1.5haほどの緑地で藤沢市が環境を保全しているエリアである。宅地化・工業化が進む周辺地域から隔絶し、田畑が立ち並び豊かな自然の残るエリアとなっている。特に最奥部の川名清水谷戸にはキジやカワセミ、フクロウなど多種類の野生生物がすみ、中にはヤマトセンブリなどの希少種も確認される。
川名交差点が終点となる神奈川県道312号田谷藤沢線は、当初の計画では川名緑地を越え国道134号に接続する予定だったが、豊かな自然を破壊すると地域住民の反対運動が起こったため、川名 - 国道134号間の建設計画は白紙となった。
[編集] 参考文献
- 新編相模国風土記稿
- 『藤沢の地名』 日本地名研究所編 1987年
- 『鎌倉の地名由来辞典』 三浦勝男編 2005年