鵠沼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鵠沼(くげぬま)は、神奈川県藤沢市の南部中央にある地域の総称。北は旧東海道付近、東は境川、西は引地川に囲まれた地域である。南は相模湾に面しており、人口は5万人を遙かに超す。年間を通して湘南海岸に多くの観光客が訪れる。
目次 |
[編集] 概要
発祥は奈良時代、鵠沼(烏森)皇大神宮を中心に高座郡土甘郷が置かれた頃である。 平安時代末期には鎌倉景政により拓かれ、伊勢神宮に寄進された荘園大庭御厨(おおばのみくりや)の一部となり、鵠沼郷と呼ばれるようになった。
江戸時代には旗本布施家と大橋家(2代のみ)の領地と幕府領に分かれ、南部に幕府の砲術射撃場が置かれた。東海道藤沢宿に隣接するため、助郷村でもあった。 江戸末期までは周辺地区と同様に農漁村であったが、1887年の鉄道東海道本線開通前後から海水浴場や日本で最初の計画別荘地として開発が始まった。1902年に江ノ電が開通し、沿線は別荘地として急速に発展する。
大正時代には、鵠沼の貸別荘や大邸宅の離れを舞台に新しい文化が華開いた。 第一は武者小路実篤や小泉鐵(まがね)らによる「白樺派」である。武者小路は志賀直哉と共に明治41年旅館東屋で雑誌『白樺』発刊を相談し、大正にはいる頃小泉は鵠沼で『白樺』編纂に当たった。白樺派の鵠沼時代は短く、やがて志賀の住む千葉県我孫子が中心となる。
第二は岸田劉生を中心とする「草土社」の若手画家グループである。フュウザン会解散後、草土社を結成した岸田は、病気療養のため親交のあった武者小路の住む鵠沼の貸別荘にアトリエを構える。岸田を慕う何人かの画家も鵠沼に住むようになり、中川一政のように、岸田家の食客となる若者もいた。やがて彼らは「春陽会」結成の中心メンバーとなるが、関東大震災で被災し、岸田が京都に移ると、草土社は自然消滅した。鵠沼時代は岸田劉生の創作活動最盛期で、有名な「麗子像」のほとんどは鵠沼で描かれている。
第三は和辻哲郎・安倍能成・阿部次郎らの若手学者グループである。彼らは江ノ電鵠沼駅北方の高瀬家邸内の離れを借り、定期的に「例の会」と称する牛鍋を囲み話し合う集いを持った。ここに「大正教養主義」と呼ばれる新風が起こる。 これら三つのグループは、お互いに交流し、影響を与え合いながら発展し、鵠沼を出発点に全国に展開していった。このメンバーはいずれも20代後半から30代という世代であった。彼らは貸別荘や大邸宅の離れに住み、自らの邸宅を構えることはなかった。
1923年の関東大震災では相応の被害が出たが、より被害が深刻だった都内から政治家、官僚、企業家、高級将校等が続々と転居してくることにより、鵠沼は別荘地から住宅地へと変貌することになる。
1929年の小田急江ノ島線開通をきっかけに、この傾向はさらに顕著になり、現在も東京近郊の高級住宅地の一つとして有名である。
湘南海岸へのアクセスが良いことから、海岸周辺は年間を通じて多くの観光客・サーファーなどで賑わっており、国道134号線沿いは海水浴客目当ての店舗が集中している。また、鵠沼海岸(現:片瀬西浜海水浴場)は日本におけるビーチバレー発祥の地であり、スポーツカイト、ビーチアルティメットの全国大会も鵠沼から始まった。
[編集] 旅館東屋
この辺りに別荘が多く建ち始め、観光客が多くなってきた頃、旅館も建ち始めた。その中でもとりわけ有名なのが「旅館東屋」である。東屋は、かつて小田急線鵠沼海岸駅近くにあり、この辺りの海岸を開拓した「伊東将行」が1897年頃開業した旅館で、斎藤緑雨、谷崎潤一郎、志賀直哉、武者小路実篤、徳冨蘆花、与謝野鉄幹・与謝野晶子、岸田劉生、芥川龍之介といった、明治から昭和の文人墨客が寓居・逗留し、執筆活動をした旅館である。
日本画家でわが国初のフレスコ壁画を描いた長谷川路可は、東屋二代目女将タカの一人息子である。
彼らは当時の作品中に折々の鵠沼風物を描写し、それが「鵠沼風」と呼ばれて大きな評判を得た。 「旅館東屋」は、そうした文化人の社交施設の役割を果たした。
東屋は1923年9月1日の関東大震災で倒壊し、翌年再建されたが、1939年に旅館業を廃業した。現在、東屋跡地の一画に「東屋の跡」という石碑が建てられている。
なお、戦後になって1950年から1995年末まで、伊東将行の孫で養子の伊東将治が旅館東屋跡から西方、鵠沼ホテル跡地に割烹料亭「東家」を開いていたので、旅館東屋と混同されることが多い。
[編集] 地域の特色
首都圏にありながら名勝江ノ島が至近に望める風光明媚な砂浜を抱き、クロマツの木が各所に生い茂る、総じて起伏の少ない平坦な地形である。
温暖な気候・風土から、海浜レジャー等の観光地として高い人気がある一方、住宅地としても、明治半ばからの別荘地開発に伴うインフラ整備や大正期以降の高級住宅地化によって、鵠沼地区の住環境は早い時期から成熟・安定しており、今日においても概ね高い水準を維持している。小田急江ノ島線と境川に囲まれた一帯には、県条例に基づいた「鵠沼風致地区」が指定され、建ぺい率や建造物の高さ、色彩に至るまで厳しい規制が掛けられており、閑静な旧別荘地の風情が特に色濃く残されている。
現在の住民は高度経済成長期以降に、郊外住宅を求めて移住してきた世代とその二世・三世が多くを占めてきているが、多数の住宅地の中から鵠沼を選んだ理由として、この地域の住環境の良さを挙げる例がよく見受けられる。 彼ら新住民もマスコミによって創作された湘南という漠然としたイメージより、「鵠沼地区に居住していること」そのものにアイデンティティーを持ち、自らの住環境の保全・美化向上に対する手間を惜しまない。
例えば、日本のサーフィン発祥地として鵠沼海岸が挙げられているが、地元のサーファー(ローカルサーファー)による日常的な海岸清掃活動も、そのような愛着や誇りに裏付けられた行動であるといえる。 これは近郊の茅ヶ崎・鎌倉・逗子・葉山の各沿岸地域でも同様の傾向が見られる。
地域の道路は国道134号線・市道鵠沼海岸線(鵠沼新道)等の幹線道を除き、その多くが狭隘で複雑に入り組んでおり、地元住民も迷うほどで自動車の往来に支障を来たすこともしばしばである。ことに夏場の観光シーズンともなると生活道路にまで海水浴客の車が入り込み、交通マヒ状態になることもあるが、その「迷路」状態が幸いしてか、住宅地域の治安はその人口に比して良好ではある。 なお、公共交通機関については、地区をほぼ南北に結ぶ二本の私鉄や、豊富なバス路線網により通勤・通学の利便性は高い。
[編集] 歴史
藤沢市に編入される以前は、高座郡鵠沼村であり、旧鵠沼村には隣接する片瀬、辻堂地区などの一部が含まれていた。
- 1878年 - 郡区町村編制法が実施され、高座郡役所が藤沢に置かれ、鵠沼村が編成される。
- 1886年 - 「鵠沼海岸海水浴場」が開設される。
- 1887年 - 東海道本線の横浜・国府津間が開通。藤沢停車場が開設される。
- 1888年 - 「藤沢宿大久保町」と「藤沢宿坂戸町」が合併し、「藤沢大坂町」となる。
- 1889年4月1日 - 町村制の施行により「高座郡明治村」に「羽鳥村」・「大庭村」・「辻堂村」・「稲荷村」が編入される。
- 同時に、「鎌倉郡藤沢大富町」に「藤沢駅大鋸町」・「藤沢駅西富町」が編入される。
- 1902年9月1日 - 江ノ島電鉄の藤沢駅から片瀬駅(現:江ノ島駅)が開業。
- 1907年10月1日 - 「高座郡藤沢大坂町」に「鎌倉郡藤沢大富町」が編入される。
- 1908年 - 「藤沢大坂町」・「鵠沼村」・「明治村」が合併して「高座郡藤沢町」が誕生する。
- 1929年4月1日 - 小田急江ノ島線が開通。
- 1940年10月1日 - 藤沢町に市制が敷かれ「藤沢市」となる。
- 1947年4月1日 - 「鎌倉郡片瀬町」が藤沢市に合併
- 1964年8月1日 - 鵠沼の一部(鵠沼松が岡1~5丁目・鵠沼海岸1~4丁目)で新住居表示を実施
- 1965年1月1日 - 鵠沼の一部(鵠沼の一部(鵠沼藤が谷1~4丁目・鵠沼桜が岡1~4丁目)で新住居表示を実施。片瀬地区との境界線変更
- 1965年10月1日 - 鵠沼の一部(鵠沼神明1~5丁目・本鵠沼1~5丁目・鵠沼海岸5~7丁目)で新住居表示を実施
- 1982年8月29日 - 鵠沼の一部(鵠沼東・鵠沼石上1~3丁目・鵠沼花沢町・鵠沼橘1~2丁目)で新住居表示を実施
[編集] 地名
いずれも旧鵠沼村であり、後に区画整理が行われた際に出来た地名である。
- 鵠沼
- 本鵠沼
- 鵠沼東
- 鵠沼花沢町
- 鵠沼海岸
- 鵠沼橘
- 鵠沼桜が岡
- 鵠沼松が岡
- 鵠沼神明
- 鵠沼石上
- 鵠沼藤が谷
[編集] 地名の由来
かつてこの辺りには沼が多くあり、そこに鵠(くぐい)が多く飛来していたことが「鵠沼」の由来と言われている。(鵠とは白鳥のこと)
[編集] 施設
- 藤沢市民会館
- 鵠沼市民センター
- 藤沢南市民図書館
- 鵠沼市民図書室
- 藤沢警察署
- 鵠沼駅前郵便局
- 藤沢橘通郵便局
- 鵠沼海岸郵便局
- 鵠沼桜が岡郵便局
- 鵠沼皇大神宮
- 鵠沼伏見稲荷神社
- 市立鵠沼保育園
- 藤沢市立鵠沼小学校
- 藤沢市立鵠洋小学校
- 藤沢市立鵠南小学校
- 藤沢市立鵠沼中学校
- 藤沢市立第一中学校
- 神奈川県立湘南高等学校
- 藤嶺学園鵠沼高等学校
- 湘南学園
- 湘南学園幼稚園
- 湘南学園小学校
- 湘南学園中学校
- 湘南学園高等学校
- 秩父宮記念体育館
- 鵠沼運動公園
- 湘南海岸公園
- 片瀬西浜海水浴場
[編集] 居住した主な著名人(故人)
- 広田弘毅
- 杉原千畝
- 田中二郎
- 野呂栄太郎
- 斎藤緑雨
- 芥川龍之介、芥川比呂志、芥川也寸志
- 葛巻義敏
- 武者小路実篤
- 阿部昭
- 子母澤寛
- 南條範夫
- 日夏耿之介
- 高橋元吉
- 田中千禾夫、田中澄江
- 岸田劉生、岸田麗子
- 長谷川路可
- 中川一政
- 杉浦非水
- 加藤東一
- 加山又造
- 和辻哲郎
- 安倍能成
- 林達夫、林巳奈夫
- 宇野弘蔵
- 川口松太郎、三益愛子、川口浩、野添ひとみ
- 岡田時彦
- 長谷川一夫
- 大川橋蔵
- 尾上菊五郎_(6代目)
- 萬屋錦之介
- 佐分利信
- 木村功
- 小坂一也
- 赤木圭一郎
- 渋谷実
- 小森和子
- 南部圭之助
- 福永陽一郎
- 志摩夕起夫
- 水木かおる
- 東海林太郎
- 織田幹雄