庶子
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庶子(しょし)とは正式な婚姻関係にない両親から生まれた子供。非嫡出子。特に近代以前、歴史上の表現として使われる。 主に父親に認知された者のことで、認知されない者、父親の不明の者は母親の私生児ということになる。また、総領息子以外を庶子と呼ぶ使い方もある。
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[編集] 概説
庶子は結婚(婚姻)制度の確立により生じた概念である。そのような制度が確立していない社会においては、母親の身分や両親の関係によって区別を受けた以外に嫡出庶出といった区別は意味を持たなかった。
結婚制度は、(1)相続権、親族関係の明確化といった世俗的な要求と(2)性交渉に拘わるモラルの確立といった道徳的、宗教的な要求から生じて来たものであり、その枠外である庶子は、世俗的権利とモラルの両面において嫡子と差別をこうむることになる。
大小の差別を受けるにも拘わらず、庶子が存在したのは次のような理由が考えられる。
- 相続が認められる社会においては跡継ぎの確保、認められない社会においても一門の繁栄という観点から。相手は側室等
- 多くの時代において結婚は、影響力や財産の確保を目的とした家同士のつながりにより行われたため、身分差などで結婚できないとき。相手は愛人、妾等
- 単なる性交渉の産物。相手は奴隷、売春婦等
- 聖職者等、父親が妻帯できない職業の場合。
庶子という言葉は、側室・妾の子という意味を持っているため、現代では差別的であるとして通常使うことはない。 現行法では「非嫡出子」、特に近年では「婚外子」という言葉が用いられる。嫡出の項を参照のこと。
[編集] 道徳と庶子
モラル(道徳)の禁忌が大きければ、それだけ世俗的権利でも不利になり、結婚を神との契約と考えるキリスト教(特にカトリック)では、庶子には相続権が無く、このため庶子の息子がいるにも拘わらず遠縁の男子が相続権を有するといった人情と離れた事態がおき、様々なドラマを生むことになった。一方、日本では宗教的な禁忌が少なかったため、庶子は嫡子達の弟的存在とされ、嫡子がいないときに庶子が相続することは、ほとんど問題にならなかった。また儒教では道徳的な禁忌は少なかったが、世俗的な区別は明確であった。
[編集] 日本
日本では宗教的な禁忌が少なかったため、庶子は嫡子達の弟妹として認知され、嫡子がいないときに庶子が相続する例は少なくなかった。 戦国時代においては奇しくも3人の天下人(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の跡継ぎはいずれも庶子である(信長、秀吉は正室との間に子が無く、家康は正室築山殿との間に信康が居たが若くして自害している)。
「暴れん坊将軍」こと徳川八代将軍徳川吉宗は紀州藩主徳川光貞が57歳のときに湯殿番であった於由利の方に生ませた子である(側室の子)。吉宗に限らず、江戸時代の将軍のうちのほとんどは庶子であったとされる。正室の子は家康・家光・慶喜の三名のみである。そのうち、御台所の子は家光のみである。
[編集] 朝鮮
李氏朝鮮時代においては庶子は出世の道である科挙を受験することすら出来ない。かといって庶子であることを理由に養育を放棄される(捨てられる)ことはなく、文化的教育も十分に受けることが出来る。儒教では特に先祖の祭祀を男子が行うとするため、男系男子の保存という役割を期待されるからであるが、これは見方を変えれば“飼殺し”である。
相反する二つの条件がその人物の人格形成に影響を及ぼし、やがて閉塞した状況を打開するというのがしばしばあるドラマのパターンである。
[編集] ヨーロッパ
キリスト教の影響化においては、嫡出が庶出に優先する考えは古くからあったが、庶子が完全に相続権を失ったのはローマ教会の影響力が強化する11世紀頃からだった。ノルマンディー公を相続したウィリアム1世(後にイングランド王)は、その境目あたりであったため跡を継ぐことができたが、何人かの対抗者との戦いに勝ち抜かなければならなかった。
ローマ教皇の最盛期と言われる12、13世紀の西欧において、庶子で王位についたのは、しばしばローマ教皇と対立していたシチリア王国のタンクレーディ、マンフレーディ等であるが、どちらも対抗者により最終的に王位を奪われている。ローマ教皇の権威が低下した14世紀以降にはエンリケ2世 (カスティーリャ王)、ジョアン1世 (ポルトガル王)等例が増えて来るが、いずれも対抗者との争いなしではすまなかった。
近世以降になると実力で王位を奪う例が少なくなり、議会などの認可を受けて王位継承順位に沿って継承が行われるようになったため、庶子が王になることは少なくなった。しかし、庶子であるかどうかは教会の認定次第であり、婚姻の無効により嫡子だった者が庶子に落とされたり、結婚の事実があったと認定され、庶子が嫡子とされることもあった(後述参照)。
しかし王侯等の庶子は高位の貴族との結婚が可能であり、純粋な政略結婚を強いられる嫡子達より幸せな人生を送れたとも言える。また、継承権を有さないために却って、警戒心を持たれず親族として重用され、実力者として実権をふるった者も多い。しかし表向き王の子としてもてはやされても、裏では「罪の子」と陰口されることも多く、心理的に苦しむこともあった。
一方、庶民においては、様々な社会的差別を受け、貧困などにより死亡率は高かったと言われる。19世紀頃から人権意識が高まり差別は減少していったが、公的差別がほとんどなくなるのは20世紀になってからである。
[編集] ネポチズム
中世ヨーロッパのカトリックにおいて聖職者は様々な特権を持っており、司教や修道院長といった上級の聖職者は、世俗諸侯と変わらない権力を持っていたが、結婚し、跡継ぎの子供を作ることは認められていなかった。このため、親族の子供(甥)に様々な便宜を与えたり、実質的な後継者とすることが行われ、これをネポチズム(nepotism)[1]と呼んだが、密かに作った庶子を甥と偽ることもあった。ルネサンス期になると半ば公然と行われ、代表例が教皇アレクサンデル6世の庶子、チェーザレ・ボルジアである。
- ^ nipote<伊>=甥、姪、孫。ネポチズムで身内びいき。縁故主義と訳される。
[編集] メアリー1世とエリザベス1世
厳密な意味での庶子ではないが時代によっては以下のような扱いを受けることがあった。 イングランド王ヘンリー8世は王妃キャサリンとの間に男子に恵まれず、これを離婚してキャサリンの侍女だったアン・ブーリンと結婚した。しかしカトリックは教義上離婚を認めないため、手続をさかのぼって結婚そのものを無効にした。結果キャサリンの娘メアリー(後のメアリー1世)は一夜にして王女から庶子となり、あまつさえアンが生んだ娘エリザベス(後のエリザベス1世)の召使いとなる屈辱を味わうことになる。
しかしこの屈辱は後にエリザベスにも降りかかる。ヘンリー8世はキャサリンとの離婚の際に関係の悪化していた教皇庁と袂を分かちイギリス国教会を設立する。そして世継ぎ欲しさに次々と王妃を取り替えたのである。庶子として冷遇されていたこの異母姉妹が地位を回復するのは、聡明なキャサリン・パーがヘンリー8世の6人目の王妃になるのを待たなければならなかった。
宮廷の権力闘争と民衆の暴動の中、王位についたメアリーは父ヘンリー8世に復讐するかのようにプロテスタントの指導者を次々と(一説には300名以上)処刑し、ブラッディーマリー(血まみれのメアリー)と呼ばれることになる。メアリー1世が死ぬとエリザベスが王位につくがこれに異を唱えたのがスコットランド女王メアリー・スチュアートだった。エリザベスは庶子であり、自分のほうがイングランド王位継承にふさわしいと主張したのである。このもう一人のメアリーはエリザベスの生涯のライバルとなるが、貴族の反乱によって亡命していたイングランドでエリザベス暗殺計画に関与した罪で処刑された。しかしエリザベスは死刑執行書への署名を最後まで渋っていたという。