日高壮之丞
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日高壮之丞(ひだか そうのじょう、嘉永元年3月23日(1848年4月26日)-昭和7年(1932年)7月24日)は、日本の海軍軍人。海軍大将勲一等功二級男爵。
[編集] 経歴
鹿児島県出身。海軍兵学校2期(海兵寮)。明治6年(1873年)の筑波乗り組みを始めとして尉官時代の10年間を海上勤務で過ごした後、少佐進級と共に明治19年(1886年)、参謀本部海軍部第二局第一課長に補職され軍政面でも頭角をあらわす。
日清戦争で巡洋艦橋立艦長として戦功があり猛将として知られるようになった。
日露戦争の開戦をひかえて編成された連合艦隊司令長官には、当時、常備艦隊司令長官であった日高が親補されるのが通例であったが、山本権兵衛海軍大臣は日高を更迭し舞鶴鎮守府司令長官だった東郷平八郎を推挙した。 薩摩閥を代表する提督であり山本とは海兵寮の同期であった日高の更迭は、政府の戦争指導部に困惑と不安を生じ、明治天皇から山本に「なぜ日高を東郷に代えたのか」と直に下問があり、山本は「東郷は運のいい男ですので」と奉答したという。その後も東郷起用に対する部内の不安は払拭されず、翻意を迫る者もあったが山本は拒絶した。一説には更迭直後、憤慨した日高は山本に短剣を突きつけ「これで俺を突き殺せ」と言ったと伝えられるが、その後、山本の意を汲んで将官会議等に自ら東郷起用への支持を表明している。
更迭の理由は、日高は優れた提督であったがそれだけに自負心が強く、場合によっては上級指導部の指示に従わない恐れがあると判断されたためという。また、海兵寮同期であった山本とは当時からあまりウマが合わず、4歳年長であった日高がしばしば山本を軽んじる態度を見せたためとする説もある。
明治40年(1907年)、西南戦争、日清戦争、日露戦争での功績により功二級、男爵を賜る。
明治41年(1909年)、海軍大将に進級、同年、待命。
昭和7年(1932年)、84歳で死去。
エルトゥールル号遭難事件では、比叡艦長として生存者の送還にあたった。
なお、日高家は昭和17年(1942年)に爵位を返上している。
[編集] 年譜
- 明治4年(1871年)、海兵寮入寮。
- 明治6年(1873年)、海兵寮卒業、筑波乗組。
- 明治9年(1876年)、春日乗組、日進乗組。
- 明治11年(1878年)、扶桑乗組。
- 明治12年(1879年)、乾行乗組。兼 海軍兵学校砲術教官。
- 明治13年(1880年)、龍驤乗組、乾行乗組。
- 明治14年(1881年)、浅間乗組。
- 明治15年(1882年)、海軍省主船局出仕。
- 明治17年(1884年)、海軍省軍事部第二課出仕。兼扶桑乗組。兼天城乗組。
- 明治18年(1885年)、兼 清輝乗組。
- 明治19年(1886年)、参謀本部海軍部第二局第一課長。同第二課長。
- 明治20年(1887年)、ヨーロッパ派遣。参謀本部海軍部第二局第一課長(在外のまま補任)。
- 明治21年(1888年)、海軍参謀本部第二局局員。帰朝。
- 明治22年(1889年)、海軍参謀本部第二課長。
- 明治23年(1890年)、金剛艦長。
- 明治24年(1891年)、武蔵艦長。
- 明治25年(1892年)、龍驤艦長。
- 明治26年(1893年)、砲術練習所所長。
- 明治27年(1894年)、橋立艦長。
- 明治28年(1895年)、松島艦長。海軍兵学校校長。
- 明治29年(1896年)、任 海軍少将。
- 明治32年(1899年)、常備艦隊司令長官。
- 明治33年(1900年)、任 海軍中将。竹敷要港部司令官。
- 明治35年(1902年)、常備艦隊司令長官。
- 明治36年(1903年)、舞鶴鎮守府司令長官。
- 明治40年(1907年)、男爵、功二級。
- 明治41年(1908年)、任 海軍大将。待命。
- 明治42年(1909年)、予備役。
- 大正3年(1914年)、後備役。
- 大正7年(1918年)、退役。
- 昭和7年(1932年)、死去。