柴野たいぞう
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柴野 たいぞう(しばの‐、1951年(昭和26年)7月7日 ‐ )は、日本の政治家。「柴野たいぞう」はペンネーム。現在は「柴野多伊三」とも表記。本名は柴野実(しばの・みのる)。旧ペンネームは「武野義三」(たけの・よしぞう)。
目次 |
[編集] 経歴・人物
- 1951年、新潟県柏崎市に生まれる。新潟県立柏崎高等学校入学後中退。東京都立青山高等学校に入学後、東京都立新宿高等学校に編入し卒業。中央大学法学部政治学科卒業。
- 新自由クラブの結党に参加し、新自由クラブ青年部を経て、衆議院議員山口敏夫の秘書、新自由クラブ政策委員を務める。
- 1981年、財団法人日本国際交流センターの日米青年政治指導者交流プログラムに新自由クラブ政策委員として参加し訪米。
- その後新自由クラブを離党。以後「武野義三」のペンネームで国際問題・環境問題アナリストとして活動。世界80カ国以上を訪問。更にペンネームを「柴野たいぞう」に改め、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」等に出演。
- 1991年、バイオテクノロジー技術開発・環境浄化・土壌改良剤・水質浄化剤の製造販売等を行う「バイオテック株式会社」を創業し、代表取締役社長となる。
- 1993年、第40回衆議院議員総選挙に旧東京1区から新生党公認で立候補し初当選。党内では小沢一郎に近く、在任中は新生党の若手議員として同期当選の穀田恵二(日本共産党)や五十嵐文彦(日本新党)らとともにテレビ・ラジオの報道・討論番組に出演。自転車での国会登院やマラソン大会出場などでも話題となる。
- 1996年、第41回衆議院議員総選挙に東京1区から新進党公認で立候補し落選。1997年に新進党が解散、無所属となる。
- 2000年、第42回衆議院議員総選挙に際し、東京都知事石原慎太郎による新党結成を期待するとともに自由連合との連携を模索しつつ自ら「都市新党」を結党、代表に就任する。東京7区から同党公認で立候補するも落選。これ以後、選挙への立候補はない。
- 現在、バイオテック株式会社代表取締役社長。社団法人東京新潟県人会理事。渋谷新潟県人会会長。
[編集] 著書
- 『38度線戦慄の日 韓国の危機は日本の危機』(天山ブックス) 1988年7月 天山出版(発売:大陸書房) ISBN 4-8033-1422-5(「武野義三」名義の著作)
- 『カンボジアの真実 陥穽に落ちたPKO』 1993年1月 亜紀書房 ISBN 4-7505-9221-8(「柴野たいぞう」名義の著作)