正田建次郎
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正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年2月25日 - 1977年3月20日)は、群馬県館林市出身の数学者である。専門は、代数学。
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[編集] 略歴
- 1919年:東京府立四中卒業。
- 1925年3月:東京帝国大学理学部数学科を卒業。
- 1926年:ドイツに留学。
- 1929年:帰国。
- 1933年4月:大阪帝国大学数学科創設と同時に教授に就任。
- 1949年5月:学士院賞を受賞。
- 1954年:大阪大学学長に就任。その後一旦退官。
- 1962年4月:基礎工学部長として阪大に復帰。
- 1965年4月:阪大を定年退官し、武蔵大学学長に就任。
- 1969年:文化勲章を受賞。
[編集] 業績
[編集] 閨閥
正田建次郎は日清製粉グループ本社の創業者・正田貞一郎の次男として生まれた。建次郎は天文学者・平山信の次女・多美と結婚し、長男・彬、長女・絢子、次女・さだ子の1男2女をもうけた。多美の死後、建次郎は元九州大学教授・伊藤栄三郎の娘・禎子と結婚し次男・紘をもうけた。
なお、建次郎の義父・平山信には他に3人の娘がおり、長女・百合は地質学者・鉱物学者で元東京大学教授の坪井誠太郎に嫁いだ。三女・厚は元東洋製作所社長の佐竹義利に嫁いだ。信の四女・千枝は元東京電気保全社長の川上寿一に嫁いだ。
また建次郎の弟・英三郎には2男2女がいるが、英三郎の長女・美智子が結婚当時皇太子だった明仁親王(1989年即位し天皇となる)と結婚し皇室と姻戚関係をもったため他の英三郎の子女も名家の子女と結婚することとなった。英三郎の長男・巌は元内閣総理大臣・浜口雄幸の孫娘・淑と、次女・恵美子は元昭和電工社長・安西正夫の長男で日本体育協会の会長を務めた安西孝之と、次男・修は元クラレ社長・大原総一郎の次女・泰子と結婚した。
言うまでもないが美智子皇后は建次郎の姪にあたる。