江文也
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江文也(こう ぶんや、Joang Wen-ye、1910年6月11日-1983年10月24日)は台湾生まれの日本で活躍した作曲家、声楽家。
台北郊外の淡水で生まれ、4歳で一族と共に廈門に移住。13歳で長野県上田市に本土留学して旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)へ入学。この頃、恩師スコット女史と出会って音楽を学ぶ。その後武蔵野高等工業学校電気科で学ぶ一方、東京音楽学校夜間校で声楽を学ぶ。合唱団の指導者に見い出されて昭和7年(1932年)、コロムビアレコードのバリトン歌手となる。この頃から山田耕筰、橋本國彦に作曲を学ぶ。そして同年、第一回音楽コンクール声楽部門入選(翌年も同部門2位に入賞)。翌昭和8年(1933年)3月、乃ぶ夫人と結婚。JOAK(東京放送局)に出演して「タンホイザー」、「ボエーム」などを歌った。「肉弾三勇士の歌」などの戦時歌謡や『第二生蕃歌曲集』の自作自演などの録音が残されている。
1936年のベルリンオリンピックの芸術競技に管弦楽曲「台湾の舞曲」を出品。当時は「3位入賞」と報じられたが、実際には選外佳作という扱いだった。その後も中国、台湾、日本の音楽語法とモダニズムを融合したピアノ曲、声楽曲、交響曲などを発表した。
1938年、彼は大陸に渡って北京師範大学音楽系教授として作曲と声楽を教え、家族のいる日本と中国を往復する日が続いた。1945年8月15日の日本降伏以降、彼は日本国籍を失い、家族を残した日本に戻ることができなくなった。蒋介石の国民党政権下では「文化漢奸」として10ヶ月拘禁されたが、米軍クラブのジャズバンドの指揮をして糊口をしのぐことができた。この頃、現地の女性と再婚。1947年に北京の中央音楽学院教授に就任。1949年の中華人民共和国成立後、1950年からは天津中央音楽院教授に就任。しかし、1957年からの反右派闘争、そして1966年からの文化大革命で「日本帝国主義の手先」と糾弾され、地位を剥奪された上、大半の作品の自筆譜やピアノなどを焼かれてしまう。そして下放労働に送られた。その間も密かに作曲を続け、文革終結後の1978年にやっと名誉回復された。しかし、既に病魔に蝕まれていた江は1983年に北京でこの世を去った。
中国に残って以降、江の名は日本の音楽界から忘れ去られてしまっていた。しかし名誉回復以降、香港、台湾、そして中国での再評価・録音が増え、日本でも徐々にその名が知られるようになって来た。1999年には「まぼろしの五線譜 江文也という『日本人』」(井田敏著、白水社)が出版されたが、中国側の遺族の扱いをめぐって日本側の遺族が抗議したうえ、東京の江家に保管されていた銅製のベルリンオリンピック参加メダルを第3位用の銅メダルと誤認して記述したことから、現在は絶版になっている。
2004年公開の映画『珈琲時光』においては江文也が映画のテーマとなっており、彼のピアノ曲が取り上げられると共に、日本側の乃ぶ夫人と娘が出演している。Naxosの「日本作曲家選輯」[1]でも作品集のリリースが予定されており、彼の日本での再評価はこれから進むであろう。
[編集] 主要作品
- 管弦楽曲
- 台湾の舞曲 Op.1(1936年)…ピアノ版もあり。
- 田園詩曲(1938年)
- 故都素描(北京點點)(1939年)
- 孔廟大成樂章(1940年)
- バレエ音楽『香妃』(1940年)
- 交響曲第一番(1940年)
- 紀念屈原交響詩『汨羅沈流』(1953年)
- 弦楽のための小交響曲(1951年)
- 一宇同光(?)
- 阿里山的歌聲(1983?)・・・遺作。
- 声楽曲
- 『第二生蕃歌曲集』(1936年)・・・詞:佐伯孝夫
- 『生蕃四歌曲集』(1936年)
- 室内楽曲
- 祭典ソナタ(ピアノ、フルート)(1910年)
- 生蕃トリオ(?)
- ピアノ曲
- 5つのスケッチ Op.4 (1934年)
- 3つの舞曲op.7
- バガテル Op.8
- 一人と六人op.12-1
- 五月の組曲
- 人形芝居 (以上、1935年頃)