第1次インティファーダ
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アラビア語:قضية فلسطينية |
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第1次インティファーダ(アラビア語: انتفاضة فلسطينية أولى Intifāḍa Falesṭīnīya ʾAwwalā)は1987年からオスロ合意によりパレスチナ自治政府が設立される1993年ころに至るイスラエルとパレスチナ人のあいだでの一連の暴力的諸事件の総称。「石の闘い」ともいわれる。また単にインティファーダという場合は第1次インティファーダを指す。「第1次インティファーダ」の呼称は、2000年から2005年の「アル=アクサー・インティファーダ」を第2次インティファーダとして言及されるようになってから使用されたものである。
目次 |
[編集] 要因
第1次インティファーダの要因と背景については、中東戦争やパレスチナ問題全般におけると諸事件と同様にさまざまな議論がある。
ほとんどの記録は1948年のイスラエルの建国、1967年の第3次中東戦争以降、ヨルダン川西岸およびガザ地区のパレスチナ人は、人道的権利や民族主義的主張にかかわる問題が解決されず、進展がないことに不満が高まっていたことを示している。パレスチナ解放機構(PLO)は1960年代以降イスラエルから目立った成果を得ることに失敗し、1982年には事務所のチュニスへの移転を強いられた。エジプト以外のアラブ諸国は交戦状態を維持したものの、1980年代中頃にはその言辞もトーンダウンし、パレスチナ人はアラブ諸国からの支持が弱まったことを認識した。南部レバノンのイスラエル軍支配とガザ、西岸でのイスラエル軍政の継続は現状への不満を増大させた。
ウラマーによる反イスラエル政府の説教が行われて緊張が高まる中、1987年12月6日、ガザで買い物中のイスラエル人が刺殺される事件が起こった。翌日、ジャバーリーヤ難民キャンプの4人のパレスチナ人難民が交通事故で死亡し、暴動が発生した。 暴動のなかでパレスチナ人1名がイスラエル軍兵士に殺害され、暴動はエスカレートした。
パレスチナ側は、インティファーダはイスラエルの過酷な抑圧、すなわち裁判なしでの処刑、大規模な拘禁拘留、住宅の解体、無差別の拷問、追放などへの異議申し立てであったと主張している。インティファーダにはこのような政治的民族主義的感情に加え、エジプトのガザ地区からの撤退、ヨルダンによる西岸の主権主張へのあきらめも背景にあったといえる。
貧困地区ではごく一般的な高い出生率に比して、イスラエル支配下での農地や住宅地としての新規土地配分は限定的であり、人口密度の上昇を促した。失業率は増大した。パレスチナ人はイスラエルでの仕事の収入によって、子供たちを大学教育を受けさせることはできたが、卒業後職に就くことが出来る者は稀であった。
また、同盟国たるアラブ諸国から見捨てられたという感情を抱いていたとの指摘もある。PLOもイスラエルを駆逐し、パレスチナ国家を樹立するという公約を果たすことに失敗していた。1974年以降、イスラエルは占領地域における選挙の実施を図ったが、これはパレスチナ人にとっては完全な政治的権利を与えられないまま二級市民としての扱いがつづくものと感じられており、PLOは選挙実施の阻止には成功している。
以上の諸要因、および蜂起の規模の大きさを考慮すると、インティファーダが一個人あるいは一組織によって開始されたものではない、という点には疑問の余地はない。しかしながら、PLOによる事態の掌握は素早く、背後から暴動を煽動し、暴動の継続を保証する根拠地(「タンズィム」あるいは「組織」と呼ばれた)内で勢力を強化していったのである。もっともPLOのみが当初インティファーダで活動した組織というわけではなく、より強い暴力的手段へと誘導するイスラーム過激派、すなわちハマースやパレスチナ・イスラーム・ジハード運動などと勢力を競った。さらに重要なのは上記の諸組織以上に、厳しいイスラエル占領下、自主的な組織とネットワークを築いた一般のパレスチナ人からなる地域共同体組織が主導した、ということである。これらの組織は地下組織も含め、自主的な基盤の形成を中心に活動した。例としては自主学校、医療機関、食料援助組織などがある。
[編集] 前史
第1次インティファーダにおけるパレスチナ人蜂起は一般に自然発生的なものと考えられている。PLOはのちにインティファーダはPLOが組織したものであるとの主張をするが、ほとんどの歴史家はこれを情勢支配のための試みと考える。
1987年10月1日、イスラエル兵がテロリスト・グループであるパレスチナ・イスラーム・ジハード運動のガザ出身構成員7名を待ち伏せして殺害した。数日後、イスラエル人入植者がパレスチナ人女子学生を背後から銃撃。さらに1987年12月4日にはガザでシュロモ・サカルというイスラエル人プラスチック・セールスマンが刺殺されるという事件が起こっている。2日後、イスラエル国防軍のトラックがバンに衝突する交通事故が発生。この事故でジャバーリーヤのパレスチナ人4人が死亡した。
これらの加熱しつつある状況下、多くの噂が流れた。上記のような事件は、ただの噂にすぎないお話に真実味を与え、パレスチナ人のあいだにイスラエルの警官と兵士に対する激しい恐怖感と、街闘を引き起こした。
[編集] 暴動
12月6日、暴動はジャバーリーヤ難民キャンプで、数百人がタイヤを燃やし、配置されていたイスラエル国防軍を攻撃することではじまった。暴動は他の難民キャンプに広がり、やがてはエルサレムに至った。12月22日に、国連安全保障理事会はインティファーダの最初の数週間にパレスチナ人の死者が多数出たことで、ジュネーブ条約違反としてイスラエルに対する非難決議を採択した。
パレスチナ人の用いる暴力的手段の多くは技術的にレヴェルの低いものであった。多数の10代のパレスチナ人少年たちがイスラエル兵のパトロールに対し、投石を浴びせかけたのである。しかしやがて戦術はエスカレートし、火炎瓶による攻撃に取って代わられ、さらに100回以上の手榴弾攻撃や銃や爆弾による攻撃が500回を越えておこなわれた。これによって多くのイスラエル市民、兵士が死亡した。パレスチナ側とは対照的にイスラエル国防軍は最新の兵器と「防衛」手段をもって対し、世界最新水準の拷問技術も用いられた。
これに加え、約1000人のイスラエルへの情報提供者がアラブ人民兵の手で殺害された。これについてパレスチナ・アラブ人権団体は殺害された者の多くはイスラエルへの「協力者」ではなく報復殺害の被害者であったと主張している。
1988年、パレスチナ人は、イスラエルが徴収し占領に充てる税(これについては国際法上の合法性についての議論がある)の納付拒否という非暴力運動を開始した。これに対してイスラエルは収監によっても活動を停止させられず、店舗、工場、住宅などの機材、家具、商品などの差押え、売却という重い罰金を課すことによってボイコットをやめさせた。
1988年4月19日、PLOの指導者アブー・ジハードがチュニスで暗殺された。暴動が再び活発化して続行、およそ16人のパレスチナ人が死亡した。同年11月、翌年10月、国連総会は対イスラエル非難決議を採択している。
和平プロセスはアメリカ合衆国およびソヴィエト連邦の後押しにより1991年のマドリード会議で開始された。
[編集] 結果
オスロ合意の1993年頃までに、パレスチナ人に1162人、イスラエル人に160人の犠牲者が出ている[1]。うちインティファーダの最初期13週間の死者はパレスチナ人332人、イスラエル人12人である。初期のパレスチナ側の死亡率の高さは暴動鎮圧と大衆管理におけるイスラエル国防軍の経験不足によるものである。しばしば、デモ群衆に対峙するに際してイスラエル国防軍兵士は暴動鎮圧用装備を支給されておらず、非武装のデモ参加者を実弾射撃することになってしまったのである。
インティファーダの進捗にともない、イスラエルはパレスチナ側の犠牲者を軽減するために、さまざまな暴動鎮圧用装備(中にはやや滑稽なものもある。たとえば石を破砕して群衆へ放射する機械)を導入したが、死亡率は依然として高い水準にあった。初期に犠牲者が多いことのもう一つの要因はパレスチナ人に対するイツハク・ラビンの高圧的な姿勢(特にデモ参加者の「骨を折れ」との国防軍への訓令)にある。ラビンの後継者モーシェ・アレンスは鎮圧についてよりよい見解を持っており、翌年以降の死亡率の低さはおそらくはこれを反映したものであろう。
インティファーダは通常意味する軍事的行為あるいはゲリラ的軍事行為ではなかった。PLOの状況に対する支配は限定されており、また暴動によってイスラエル政府から直接の成果を得ることをPLOは全く期待していなかった。インティファーダが草の根の大衆運動であって、PLOの思惑によるものではなかったからである。しかしインティファーダはパレスチナ人にとっていくつかの建設的な成果をもたらした。
- イスラエルと直接に対峙することで、近隣アラブ諸国の権威と援助に頼るより、むしろ自決に値する独立した民族として世界的に地歩を固めることに成功した。この時期にイスラエル側のパレスチナ人を「南部シリア人」とする議論は終焉し、またヨルダン人とする議論もほとんど行われなくなった。
- イスラエルの報復の激しさ(特にインティファーダ初年)は、「自身の土地の囚人」としてのパレスチナ人のありようへの国際社会の注意を引き戻した。16歳以下のパレスチナ人少年たちが犠牲になった(多くはイスラエル軍へ石を投げかけ銃撃された)という事実は国際社会に懸念を呼んだ。特に多くのアメリカ・メディアの支局の公然と非難する姿勢は空前絶後のものであった。紛争はパレスチナ問題を国連を中心とする国際的議論の俎上へと引き戻し、アラブ諸国同様、アメリカ合衆国やヨーロッパでも議論されるようになった。ヨーロッパはその後のパレスチナ自治政府への重要な経済援助国となり、アメリカのイスラエルへの援助と支持は以前よりも制約のあるものとなったのである。
- インティファーダはイスラエル経済に多大の損害を与えた。イスラエル銀行は輸出における損害を訳6億5000万ドルと見積もっている。多くはパレスチナ側のボイコットと地元零細産業の形成を通じてのものとしている。重要な観光業を含むサービス部門に対する衝撃は特に強かった。
- 暴動は直接的にはオスロ合意へ、そしてその結果としてのPLOの亡命先チュニジアからの復帰につながった。交渉はPLOの目的を完全に満たすことはできなかったが、注目すべきは第1次インティファーダなくして、パレスチナ国家への道のりが存在しえたかは疑わしいということである。オスロ合意以降、将来におけるいずれかの時に、何らかのかたちでの独立パレスチナ国家が実現するということは(いまだに実現してはいないが)、比較的確実になったといえよう。
最終的にイスラエルはパレスチナ側陣営の取り込みとパレスチナ人全体にたいする懲罰(国際法違反)によって、反植民地反乱の鎮圧に成功した。パレスチナ側は良好な装備を持ち、訓練されたイスラエル国防軍に比較して劣悪な条件にあり、概して非武装であった。にもかかわらずインティファーダはイスラエル国防軍のパレスチナのイスラエル占領地域における全体的な問題点とともに戦術・作戦行動における多くの問題点を明らかにした。国際世論、イスラエル世論の双方は問題に目をとめ幅広い批判を招くことになった。国際世論が特に人道的問題に注目する一方、インティファーダによってイスラエル世論も分裂することになったのである。
[編集] 外部リンク
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